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言葉とは精神であり、精神とは言葉である

 昨日映画を観たのでFilmarks(ここではFilmarksとは何か、についての言及は避けたいと思います)に記録していた。今年1本目、いや2本目の映画だ。何を観たのか、についての言及はここでは差し控えたい。なぜそれらについて言及しない選択を取ったかについての言及も、ここではしない。
 記録した後、他の人のレビューも何気なしに見ていた。
 そこで起こった事象は、つまりこういうことだった。 

”誤字がある文章を見た。その瞬間に読む気力が無に帰してしまった”

 誤字。変換のミス。文上のささくれ。
 そのレビュー上は”人達”を”一太刀”と誤字っていた。突然にして太刀が振るわれたことに対して恐怖した私は急いで布団にくるまり、写経や瞑想を経て精神状態を整えた。そして適温のお茶を飲み、湯船に浸かり、葉巻吸いながらウイスキーを飲んで寝た。
 とにかくそれは突然にして眼前に現れる。まるで紙の側面で指が切られる時、一線の血が指の腹の上に引かれているのを見た時のように。切られた事に気づかない。気づいた時には切られている。誤字はそういう刃物的性格をもっている。

 話を戻す(別に進んではいないが)と、誤字が発見された時点で私はその文書を読む気が本当にしなくなってしまう。
 それはなぜだろうと考えていると、言葉への無神経さ・言葉の軽視を行う筆者及びその周辺人物への苛立ちがあると思った。
 例えば最も好きな作家が新刊を出したとして、「おもしれー!」と興奮しながら読んでいる中盤〜終盤に誤字がニョキっとしていた場合、瞬時に興醒めし本を閉じて目を瞑る。そして想像する。ああ、筆者は出版前に製本されたものを読まなかったのか。校閲はテレビを見、ケツを掻きながらリモートワークをしていたのだろうか。そういうことを考えて、とりあえずその作家のことを一度嫌いになる。あとは時の流れに身を任せる(私のような人間にとって校閲はエッセンシャルワークだ)。

 現代のように誰にでも文章を書いて公開できる仕組みができているからこそ、文上のささくれを目にする機会は多い。LINEやレビュー、記事、ホームページ…。もちろんのこと、文章を書いて出すのは人間であるからしてエラーが発生するのはやむを得ない。が、私はそのエラーについては、特に恥ずかしいこと(当然、人前で放屁することよりも恥ずかしい)だと思っているのでできるだけ注意を配るし、誤字の刃物的性格を考慮して取り扱いにはとても慎重な方だ。
「言葉とは精神であり、精神とは言葉である」と言ったのは安部公房だが、誤字の考察からもその言説の裏付けが取れるような気がする(言葉に気を遣わない人は、精神にも気を遣っていない。無神経な態度・精神状態が、言葉に出てしまう)。
 言葉はおもしろい。言葉、コトバ。言葉で遊びたい。それは遊びたいという精神状態を表しているのだろうか、精神が遊んでいるから言葉で遊びたいと書いてしまったのか。分からない、禅問答、言葉の輪廻、メビウスの輪。

尾張

(参考)

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