空の海から

 万年筆をポケットに忍ばせて歩いていた。蝉の鳴き声が反響する中、照りつける日差しは腕を焼くように熱く、ポケットの中で触れる万年筆の金属部分が指に冷たく感じられた。澄んだ濃い青空の下、見知らぬ田舎街を歩くのは良い気分だった。すっかり筆が滞ってしまった小説も、日が沈んで涼しくなる頃には良い展開が思いつくに違いない。そう自分に言い聞かせながら、下り坂になっている石畳の小路を航はゆっくりと踏みしめた。誰かが水をまいたのか、道端に咲く立葵の青い葉に大きな水滴がきらきらと輝いている。風が吹くたびにさやさやと静かに揺れ、水滴はぽつりと地面に染みた。風に流されるようにあてもなく歩いた。白い入道雲がまぶしい。
 蝉の声がだんだん大きくなった。近くに公園でもあってそこに群れているのかもしれない、さっさと通過してしまおうと足を早めたその時、蝉の声に混じってカランと乾いた音がした。一定の間隔を置いて断続的に響いてくる。音の正体を追って、航はすぐ目の前の十字路を右に折れた。
目に飛び込んできたのは鮮やかな茜色だった。燕が描かれた茜色の浴衣。文庫に結ばれた露芝文様の白い帯、若草色の帯締め――そんな格好をした一人の女の子の後ろ姿だった。何故か片足飛びで道を進んでいる。下駄が石畳に着地する度にカランと鳴った。浮かせた左足は裸足で、手には足から脱がしたらしい下駄を持っている。不思議に思って見ていると、女の子は顎で丸く切りそろえた黒髪を揺らし、唐突にこちらを振り向いた。そして黒目がちな目を光らせながら、にっこりと微笑んだ。
 背格好から7歳そこらと思ったが、もう少し年長かもしれない。一丁前に口紅を塗っているらしく、唇の赤さは浴衣の茜によく似合っていたが、あまりに無邪気な笑みが化粧に不釣り合いでなんだかおもしろい。航は笑顔を返した。
 次の瞬間女の子は滑って転んだ。
 「だ、大丈夫?」
 あわてて駆け寄り助け起こすと、女の子は丸い目をさらに丸くして呆けていたが、すぐにぷっと吹き出し、火がついたようにくっくっくと笑いだした。
 「なに笑ってるんだ?」
 「だって、転ぶと思わなくてびっくりしたから。」
 女の子が無事だとわかって安堵したのか、つられて笑いそうになった。しかし年長者としての責任を感じ、咳払いをひとつして向き直った。
 「で、なんで下駄でケンケンなんかしてるんだ。危ないだろ?」
 「鼻緒が切れちゃったの。」
 黒塗りの駒下駄に茜色の鼻緒が力なくぶら下がっていた。
 「おかげでお母さんにおいてかれちゃった。一緒に、お祭に、行くはずだったのに。」
 急に口をへの字に曲げた女の子は、目の縁にみるみる涙を溜めた。転んだ時の痛みをようやく実感し始めたのかもしれない。
 「よし、ちょっと待て。下駄貸してみな。」
 航は少し迷ったが、しかし思い切ってハンカチをポケットから取り出すと、万年筆のペン先で穴をあけ、そこから勢いに任せて引き裂いた。女の子は固まって事の成り行きを見守っている。まず細長く裂いたハンカチに5円玉を通し、下駄の裏に当てる。次に鼻緒を固定している穴から、表に向かって裂いたハンカチを引き抜く。最後にそれでちぎれた鼻緒をくくり付けた。
 「ほらできた。履いてみな。」
 女の子は状況を理解するや否や、勢いよくその下駄に左足を突っ込んだ。それからその足で片足飛びしたり、両足で飛び跳ねたりしてみせた。
 「おいまた転ぶぞ。」
 「大丈夫! すごい、お兄ちゃんありがとう!」
 女の子はさらにその場で足踏みをしたりくるくる回ったりした。
 「綺麗な色、海みたい。」
 使ったハンカチは青地に白いラインが入っている。茜の鼻緒とはあまりなじみが良いとは言えない。
 「ごめん、応急手当だからちょっと格好悪いかもな。今度お母さんに頼んでなおしてもらいな。」
 「これでいいの!」
 駄々をこねるように女の子はカツンと下駄をならした。
 「ねえ、お兄ちゃんこの辺の人?」
 「いや、もっと遠いとこから来た。」
 「ふうん。なんて名前?」
 「こう、だよ。」
 「こう? どういう字? わたし漢字得意なんだよ。」
 「航海のこう、だよ。」
 「・・・・・・こうかい? 変なの。」
 女の子は何故か訝しむような目つきをした。もしかしたら「後悔」を想像しているのかもしれない。航はポケットから小さく折り畳んで持ち歩いている原稿用紙を取り出して、万年筆で漢字を書いてみせた。
 「航。海を航る、って意味だよ。」
 「海を航る?」
 「そう。」
 「ねえ、すてきなペンだね!」
 万年筆を凝視しながら、さわりたくてうずうずしている手をこねくり回している。確かにこの歳頃の子供には珍しいものかもしれない。航は年甲斐もなく得意げな気持ちになって、
 「万年筆だよ。使ってみる? じゃあ、この紙あげるから、君の名前書いてみてよ。」
 と言って万年筆を女の子に差し出した。
 女の子はおっかなびっくりといった様子で万年筆を手にした。しゃがみ込んで太股に紙を置き、するするとペン先を走らせる。深い青色をしたインクがサラサラと流れ出ていき、「翠」という字を描き出した。自負するだけあって漢字に誤りは無く、しかもなかなかの達筆だ。
 「綺麗な色。」
 翠は原稿用紙のにおいをかいだり、日に透かして眺めたりした後、畳んで巾着袋にしまった。
 それから自分のものになった青い鼻緒を何往復も撫でたあと勢いよく立ち上がって、
 「ねえ航、お礼するから、いっしょにお祭に行こうよ。」
 と言った。
 「だって、お母さんは?」
 「お母さんはたぶん、先に行ってるんだと思う。」
 そう言い切った翠の口に、小さな歯が行儀良く並んでいた。航は少し考えてから頷いた。翠はある意味で迷子だ。母親に送り届けるべきかもしれない。そんな使命感にかられた故の返事だったが、しかし実際航はこの事態をあまり歓迎してはいなかった。ある事件をきっかけに、祭に苦手意識を持っていたのだ。実際夏祭など、ここ何年も行ったためしがないのである。

 それは神社で執り行われる祭だった。
 道を何度か折れると田んぼの広がる広い場所に出て、突然朱塗りの鳥居が姿を現した。夕方とはいえまだ明るいのに人はかなり集まっていて、すでにともっている提灯の合間合間から、浮かれた声がさんざめいている。翠は航のシャツの裾を引き手水舎まで案内した。見ると、来た人は皆ここで手を清め、それから本堂に向かっている。
 「へえ、夏祭なのに、参拝するのか。」
 「航のとこではしないの?」
 「うん、少なくともぼくはそういうお祭には行ったことないな。」
 そうこうしているうちに自分たちが手を清める番になった。航が正式な作法を忘れて慌てている一方、翠は手慣れた様子で水を手にかけ口をすすいだ。
 「なあに、こんなのもできないの!」
 「うるさいなあ。」
 翠は鈴の鳴るような声を出す。高い音色だが子供特有の湿り気や金属的な鋭さを全く帯びておらず、人を安心させるような独特のふるえを持っていた。カラコロいう下駄の音とよく調和して、耳に心地よかった。
 そのまま参拝して石段を下りると、夫婦と思われる年輩の男女が微笑を浮かべながら航達を待ちかまえていた。手桶と柄杓を持っている。翠は色めきだって勢いよく両腕を広げた。
 「おお、翠ちゃん今年も来たか。いくぞ、それ。」
 男性はそう言って、翠めがけて水を浴びせかけた。
 「うわあ、なにするんですか。」
 驚いて声をうわずらせた航の隣で、翠はげらげら笑いながら袖で顔を拭っている。
 「あれ、君この辺の人じゃないね。このお祭りはじめて?」
 男性は肩にかけた白いタオルで汗を拭き拭きそう言った。
 「はじめてですけど、なんなんですかいったい。」
 「このお祭はね、龍神様をお迎えするお祭なのよ。」
 帽子をかぶった女性が言った。
 「龍神様?」
 言われてみれば先ほどの手水舎の水口も龍を象ったものだった。再び男性が口を開く。
 「そう。ここら辺を守ってくれてる龍神様は、かなりの暑がりらしくてな、我々人間は夏になると冷たい水で龍神様をおもてなしするってわけよ。なあ、翠ちゃん。」
 「そうそう。」
 「だから水をまいてるんですか。」
 周囲を見渡すと手桶と柄杓を持った人が他にも数人うろついていて、地面や草木に水をかけていた。打ち水の意味合いもあるのだろう。子供達ときたら自ら水をかぶりに行っている。
 「まあ、やってることは普通の納涼大会だよ。ほら、兄ちゃんもどう? 気持ちいいぞ。」
 男性はすでにできあがっているらしく、赤ら顔に深いしわを刻んで笑った。航はまっぴら御免と後ずさったが、翠が背後から航の両腕を捕らえたのを合図に、すぐさま顔めがけて水が飛んできた。
 「航、びしょびしょ!」
 翠も懲りずに再び水をかけてもらっていた。二人ともにわか雨に降られたような有様だったが、肌に吸いつくシャツが風に冷やされて、確かに思いの外気持ちよかった。まだ日は高いのでじきに乾くだろう。
 航は翠の方を向いて言った。
 「よし、じゃあ君のお母さんを探そうか。お母さんはどんな人なの?」
 「優しい!」
 「いや、そうじゃなくて。見た目の話。」
 「あ、航、かき氷食べよう! ごちそうしてあげる!」
 鉄砲玉のように走り出した翠を、航は慌てて追った。この混雑で見失ってはまずい。
 それにしてもそこまで大規模な祭ではないのにやけに賑わっている。露店も数多く軒を並べており、老若男女が入り乱れて列をなしていた。林檎飴の鮮やかな赤、ソースの焦げるにおい、当たりクジに歓声をあげる子供、そして遠くから聞こえる水音。流れていく景色に航は図らずもひとり頬を緩ませた。
 翠は色とりどりのシロップ瓶を前にして、黙って腕組みをしていた。まるでただ一つの正解を当てようとしているかのごとき仏頂面だ。そしていよいよ、
 「おじさん、ふたつ!」
 と声高に叫んだ。
 「お、翠ちゃん久しぶりだね。何にする?」
 「ひとつは白雪!」
「はい、ちょっと待ってね。」
 眼鏡をかけた恰幅のいい店主が氷を削り始めた。
 「白雪ってなんだ?」
 翠に聞いた。
 「シロップなし。」
 「うそだろ?」
 「おいしいよ。ねえ。」
 翠が店主に同意を求めると、
 「そうだねえ、天然水を使っているしね。毎年必ずひとつは売れるよ。」
 「それ翠が毎年買ってるってことでしょ?」
 「うん。こんなの頼む子他にいないもん。」
 あれだけ思案しておいて毎年同じものを買っているのか、しかもシロップなしを・・・・・・と航は呆れた。その間も翠は店主と軽口を叩き合っている。どの露店も地元の人が運営しているらしく、そこかしこから店主と客との親しげな会話が聞こえてくる。
 翠は巾着から、浴衣とお揃いのがま口を取り出した。そして中から、何か光るものを手に取った。おはじきよりも少し薄い、透明な硝子片のようだ。水に浸したような艶を帯びていた。
 それを当然のごとく店主に渡そうとするので、
 「こらこら、おもちゃでかき氷は買えないよ。おじさんすみません。ほら、ぼくが買ってやるから。」
 と制した。すると店主は、いいのいいの、と笑って、今にも雪崩を起こしそうなかき氷を翠に手渡した。
 「はい、毎度あり。翠ちゃん、お母さんによろしくね。いつも世話になってますって。」
 「おじさん、翠のお母さんを知ってるんですか。今日見かけませんでした? はぐれてしまったんです。」
 「さあ、まだ見てないなあ。でも大丈夫でしょ、小さい祭だし、狭い街だしね。」
 「そうですか。あの、ぼくは通りがかりの人間ですけど、もしお母さんに会ったら、探してるって伝えてくださいませんか。」
 「いいよ。で、もうひとつは君の分なのかな? 何にする? 翠ちゃんの友達なら大盛りにしてあげよう。」
 店主はピンと突き立てた親指で、芯まで透明な氷塊を示した。
 かき氷なんて本当に何年ぶりだろうか。先ほどの翠と同じように航は腕組みをして真剣に考えた。イチゴとレモンはかつて食べたことがあるので除外、白桃と抹茶は冒険のしすぎ、ブルーハワイはもはや何味かわからない・・・・・・と選択肢を消去していき、最終的にメロンに絞った。が、いざ注文する段になってふと隣を見てみると、シャリシャリと白い氷をかきこみ恍惚の表情を浮かべている翠が目に入り、次の瞬間には「白雪、大盛りで」と注文していた。
 翠に負けず劣らずこんもりと盛られた氷が手渡された。カラフルなストローですくって、おそるおそる一口食べた。
 「航、どう。」
 想像を裏切らないそっけなさだった。あたりまえだがシロップ特有の甘ったるさが全く無く、口の中がひんやりと爽やかになっただけだった。けれど辛抱強く目をつぶって味わうと、かすかに味を感じるような気がしてくるから不思議だった。幼い頃に味わった初雪の味かもしれない。感覚の余韻を捕らえようとしても一瞬で溶け消えてしまう。喉をさらりと流れ落ち、火照っていた胃や血液が冷やされていった。
 「悪くないね。」
 「そうでしょ!」
 頭痛がしたのか翠は頭をしきりに叩きながらも、氷を頬張るのを止めなかった。

 それからはいろいろな店を回った。じゃがバターやフランクフルト、そして綿飴。翠はといえば店の人と親しげに会話し、ツケのつもりか時折例の硝子片で買い物をした。歪な形の鉱石や、木彫りの箸置き、星の砂の入った小壜などを、翠は大切そうに巾着に収めた。

 「お母さん、見つからないね。」
 日が落ち、周囲に橙色の光が満ち始める頃、航たちは石段に座ってラムネを飲んでいた。広場の真ん中では盆踊りが賑やかに繰り広げられている。ざらついた音楽と太鼓の音色に、華やかな歓声が混じった。
 「え? そうだね。」
 翠はのどを鳴らしながらラムネを飲んだ。母親のことなどすっかり忘れていたようだし、いまも気にしていないらしい。
 「器用に飲むね。」
 「ベテランだもん。」
 ビー玉をびんの窪みにはめ、細い喉へ一気に流し込んでいる。飲み込むたび小さな気泡が立った。
 「航は下手だね。」
 「下手じゃない、わざとちょっとずつ飲んでんの。炭酸苦手だから。」
 「じゃあなんで買ったの?」
 「いや、なんかつられて・・・・・・。」
 足をバタつかせながら笑う翠の下駄が、石段に当たってカラコロ鳴った。提灯の光が黒塗りの下駄の表面で揺れている。
 「鼻緒、痛くないか?」
 「うん、大丈夫。ねえ、鼻緒の直し方なんてよく知ってたね。」
 「え?」
 「イマドキのヒトって、あんまり知らないでしょ。特に男の人は。どこで覚えたの。」
 「・・・・・・別にいいだろ。どこでも。」
 「かき氷あげたんだから教えてよ。」
 「鼻緒のお礼じゃなかったの?」
 話を逸らそうと思ったがあまりにも熱心に見上げてくるので、降参した。
 「・・・・・・昔、好きな女の人がいてね。」
 ラムネびんを振りながら言った。
 「五年以上前になるのか。高校の先輩だったんだけど、笑ったときの目が三日月みたいで、綺麗な人だった。一緒にお祭に行きたくて、思い切って誘った。でも勇気がなくて、返事は聞かなかった。神社の鳥居で待ってます、とだけ伝えて逃げたんだ。いろいろ準備したよ。ゲーセンでお金を崩して小銭を沢山用意した。ハンカチやウエットティッシュや、保冷剤なんかも。そして、もし先輩が浴衣で現れて、鼻緒が切れてしまったらなおしてあげようと思って、近所の呉服屋でやりかたを聞いて練習したんだ。・・・・・・まあ、無駄な知識になっちゃったけどね。」
 「ああ、鼻緒ってそう簡単に切れないもんね。」
 「いや、違うんだ。ええと・・・・・・。」
 翠は航を食い入るように見つめている。まっすぐな視線に居たたまれなくなり、航はラムネを口に含んでうつむいた。舌の上で気泡が弾け、痺れるような痛みが走る。
 「先輩は来なかったんだよ。・・・・・・はい、話はこれでおしまい。」
 翠が眉をひそめて何かを言おうとしたのと同時に、突然背後から水を浴びせかけられた。振り向くと、坊主頭の少年たちが水鉄砲を抱えてしたり顔でほくそ笑んでいる。しかし翠が獣のような俊敏さで勢いよく立ち上がると、「やべえ、翠だ!」と叫んで戦々恐々逃げ出した。翠は大笑いしながら、獲物を追うかのごとく彼らを追いかけていった。
 彼らの声がすっかり遠ざかると、航はラムネを一口飲んだ。
 びんを振って目の前にかざすと、神社も店も人も、水中に沈んでいるように見える。ぼんやりと静かな水底だ。小さな泡が生まれては消える。ビー玉がカチリと硬い音を立てた。
 意外なことに、あんなに祭りを敬遠していたにも関わらず、翠といる間は当時のことなど思い出しもしなかった。しかしこうして薄暮迫る神社にひとりでは、つい感傷の波に飲まれそうになる。いい加減甘酸っぱい思い出として消化しても良い頃だろうに、なかなかうまくい折り合いをつけることができない。その上航は、翠にひとつ、嘘をついていた。
 「とっちめてきた。」
 当の翠は反撃を受けたらしく、今日何度目かの濡れ鼠になっていた。 
 「風邪引くなよ。」
 「暑いもん、平気だよ。」
 翠は袖を絞りながら反論した。あたりを見ると地面に大きな水たまりがいくつもできていた。
 「龍神さまもこんな暑い街に住んでたら、そりゃあ水浴びもしたくなるな。」
 立ち上がって伸びをした。鳥が群をなして暮れゆく空を渡っている。日が完全に沈む前に翠の母親を見つけよう、そう伝えるべく振り向くと、翠は目を丸くしてこちらを見ていた。
 「ちがうよ?」
 「・・・・・・何が?」
 「ここには住んでないよ?」
 何の話か理解するのに時間がかかった。
 「・・・・・・ああ、龍神の話か。じゃあどこに住んでるんだ? 竜宮城とか?」
 航はふざけてみせたが、翠は大まじめな声を出した。
 「空だよ。」
 下駄で水たまりに入っていく。
 「夏は空がぬるくなるから。」
 そう言って翠は足下を指さした。
 「この街に、泳ぎにくるんだよ。」
 水たまりに、夕空が広がっていた。
 燃えるような茜色、そして小さな雲が島のように浮かんでいる。翠の足下に空が、果てしなく深く続いている。
 まるで海だ。
 翠が足踏みするたび、水たまりに広がる空の海は小さくさざ波立ち、真円を描く波紋が外へ外へと揺れ動いた。
 「航もおいでよ。」
 「え。」
 「航海の航、なんでしょ。」
 翠が夕日を背景に笑った。光と同じ色の浴衣が空気に溶けてしまいそうに見えた。航は息を飲んだ。そして言われたとおりに、水たまりに足を踏み入れた。
 水たまりの中に茜色の空が広がっているのを航は見た。まるではるか上空から、夕方の海を見下ろしているかのような気分になった。
 いや、決して錯覚ではない。
 航はその時確かに、神社ではない、どこか遠い風景の中に迷い込んでいた。眼下には水平線に沈む太陽、それから列をなす渡り鳥。熱く濃い光が体を通り抜け、風が全身をくまなく撫でる。落下の直前の浮遊感。底知れない海の深淵に吸い込まれてしまいそうだった。いや、海ではなく空なのか。天地がわからない。
 航は翠と同じようにその場で足踏みをした。丸い波紋が現れる度に風景も移ろい、現実と心象が入れ替わる。
 「無駄な知識なんかじゃなかったよ。」
 翠が言った。
「だって私が今ここに立っていられるのは航のおかげなんだから。」
 翠は足踏みをやめずに航を見ていた。下駄にくくられた青が、水流のように揺れている。気まぐれで無秩序なはずの翠の動きが、なぜか舞を踊っているかのように見えてくる。下駄が動けばしぶきがあがり、光を帯びた水滴は翠を慕っているかのように彼女の周りを取り巻いている。
 「・・・・・・ありがとう。」
 航は思い切って水を蹴り上げた。晩霞のなか、空高くに舞う水の粒子が夕日と提灯に照らされ淡く光った。
 
 結局、月が出て祭が終盤にさしかかっても、翠の母親は見つからなかった。しかたなしに航たちは近くの喫茶店で休憩することにした。翠はそこの店主とも知り合いで、事情を聞いた店主は気前の良いことに、クリームあんみつをごちそうしてくれた。それだけでは申し訳ないので、航は自分にアイスコーヒーを、翠にミルクを注文した。座席のやわらかなクッションとクーラーの冷風が疲れた体を癒した。
 翠はミルクの氷を先にがりがりと食べてしまうと、ずっと手に持っていた巾着の中身を取り出しテーブルに一つ一つ並べた。
 「中身、よく濡れずにすんだな。」
 「巾着、防水加工してある。」
 「さすがベテラン。」
 くっくっく、と翠は笑った。今日の戦利品をひとつずつ指で撫でる。
 「宝物だな。」
 「うん。」
 翠は今日一日を、本当に楽しんでいた。
 地元の祭など毎年来ているだろうに、まるで初めて来たかのように目を輝かせていた。再会する全てに新しい驚きを覚え、細い両腕いっぱいに喜びを抱いている。だからあんなにも味気ない白雪に、飽くことなく毎年感動できるのだろう。そして持ちきれなくなった甘い記憶をこうして物に託し、時々愛おしそうに眺めている。
 自分の幼少期もこうだったろうか。昨日と今日、そして今日と明日が地続きであることが信じられなかった時代。朝起きるためだけに眠り、疲れて眠るまで太陽の下で遊ぶ。目の前にあるものだけを見つめ、その日その時だけを全身で生き、足跡を刻んでいた日々が、確かに自分にもあったのかもしれない。
 翠は品々を再び巾着に納めると、航を見た。
 「航の宝物は?」
 「え?」
 クリームあんみつを大きな口で食べながらも、翠は目をそらさなかった。
 「ぼくにはそんなものないよ。」
 少年時代は終わったから、という言葉を飲み込んだ。
 「あの万年筆は?」
 すっかり口紅のとれた唇をミルクで白く縁取らせながら、翠は言った。
 「ああ、そうだね、確かに大事なものだけど。」
 「うん。」
 さも話に続きがあるようなまなざしを向けるので、航は話し始めた。
 「小学生の時の国語の授業で、演劇のシナリオを作るっていう課題があったんだ。そこでぼくが作ったお話が好評で、夏の文化祭でその劇をやることになったんだ。それが見事学年大賞。あのときは嬉しかったな。それを知った父が祝いにくれたのが、この万年筆。子供用のちゃちな品だけど、使い慣れているからこうして外出用に持ち歩いてる。」
 「ふうん。」
 翠は不思議な子供だ。話し手を喜ばせるような相づちも打たず、ひどいときには話を聞かずにどこかへいってしまう。それなのにビー玉のように澄んだ目が、心の内をのぞき込んでくる。しかし航はそれを不快と思わず、むしろ歓迎さえしていることに気づいて驚いた。
 「・・・・・・でも、それを言ったらこの原稿用紙だってそうだ。これを販売しているのは海外の会社で、もともと海図や世界地図を出版していたんだけど、社長が日本人と結婚したのを機に日本の原稿用紙を制作するようになったんだ。スケールの大きい物語が書けるような気がしてね、これで初めて小説を書いた。内容は忘れちゃったけどね。でもこの用紙はずっと使い続けてるし、お守りみたいにいつも二、三枚ポケットに入れてる。電車を乗り継がないと買えないのに、でもその道のりさえも、世界を旅してるみたいになんだか楽しく思えるんだ。」
 翠は頬杖をついてゆったりと航の話に耳を傾けた。航は自分の持ち物にずいぶんと愛着を持っていたことを思い知らされた。あの街に行ったときに着ていたシャツ、あれを買ったときに使った財布、そしてベルト、靴、腕時計・・・・・・どれも、宝物などと大げさに意識したことはなく、何気なく選んで惰性で持ち続けているだけだと思っていた。しかし思い出せばどれも、確かに航の過去と共にあったのだ。悲しいときも楽しいときもそれらはさりげなくそばにあって、ひっそりと航を見つめていた。
 ハンカチは?
 航は翠を見た。一瞬、翠の声なのか、自分の声なのかわからなかった。
 「この綺麗なハンカチはどうなの?」
 翠は下駄の方を指さして言った。
 「・・・・・・それは。」
 目を窓の外に向けると、中空に三日月が淡く光っていた。
 「・・・・・・実を言うと、さっき話した先輩からもらったものなんだ。」
 航はアイスコーヒーを大げさに吸った。
 「先輩が膝をすりむいたときに通りかかって、ぼくは自分のハンカチを渡したんだ。後日、お礼に、って。それがきっかけで、ぼくは先輩を好きになった。」
 「大事じゃん。」
 「いや、いいんだよ。」
 翠の目を見るのがつらくなった。子供相手に何を狼狽しているのだろう。いや、子供相手だからこそ顔を上げることができないのだ。
 「ごめん、さっき君に嘘をついたんだ。先輩を待てなかったのはぼくの方だったんだよ。」
 そう、祭に行かなかったのは航だった。鳥居が見えるところまでは行ったのだ。けれど待ち合わせ時刻の一分前になっても先輩は現れなかった。それで恐くなって逃げ出した。
 たったの一分。
 そのわずかな時間を、何故待つことができなかったのだろう。どんなに恐くても待つべきだった。そうすればたとえ先輩が来なくとも、最良は尽くしたと胸を張れたのだ。不安や見栄に負けた自分が恥ずかしかった。
 最近、偶然先輩に再会した。祭りの話題が出ることはない。しかしそれからというもの、気が散って一向に執筆が進まない。苦い記憶は影を潜めることはあっても決して消えることはなく、ずっと心の底で黒い煙を上げ続けていた。
 それでも今更過去を変えることはできない。
 「あの時先輩が来たかどうかはわからない。でも先輩を裏切ったことには変わりないんだ。それなのに、このハンカチをいつまでも手放せなかった。未練がましいだろ。だから、これでよかったんだよ。」
 その時、外で何かが弾けるような大きな音がした。翠は窓を一瞥すると、立ち上がって外に走り出た。航も後を追って外に出た。むっと蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。
 道端に人だかりができていて、そこかしこから歓声があがっている。
 空を見た。色とりどりの花火が、夜空を華やかに彩っていた。爆発音に続いて、流星のように細い閃光が濃紺の夜空を駆け上る。そして燃える花を勢いよく咲かせた。観客達の顔が明るく反照する。参拝後に水をかけてきた夫婦、かき氷屋や他の露店の店主たち、水鉄砲の少年たち――今日出会った顔ぶれも皆揃って、一心に空を見上げていた。航も翠の傍らで、瞬きもせずにそれを見た。一つとして同じ色、同じ形の花火はない。一瞬で咲き、すぐさま夜の闇に散っていく。
 「翠、今日はありがとう。祭っていいものだな。君のおかげで楽しかったよ。」
 きっと、忘れられる。
 こんな事を繰り返し、苦い記憶はいい記憶に上書きされていくのだろう――そう思った時だった。
 「航、はい。」
 翠は手を差し出した。
 小さな手のひらにあったのは、青に白のラインが入ったハンカチだった。
 「・・・・・・え。」
 きちんと正方形に畳まれたそれは、紛れもなく航が翠のために裂いたものだった。
 「翠、・・・・・・どうして。」
 「あ! お母さん!」
 翠は人混みに向かって叫んだ。そしてハンカチを航の手に握らせた。なぜか下駄は消えていて、彼女は裸足で音もなく駆けていく。
 「翠!」
 航がそう叫ぶと、彼女は艶めく黒髪を揺らして振り返った。
 「忘れるなんて、もったいないよ!」
 まるで人間ではないような響きで彼女はそう言った。
 「コウカイのコウ、じゃないんでしょ!」
 彼女は無邪気に笑っている。
 「大丈夫。わたしにはこれがあるから。」
 巾着から原稿用紙を取り出した。青のインクで書かれた「航」と「翠」。
 彼女は細い腕を天に向かって精一杯伸ばし、大きく振った。響いてくるのは鈴の鳴るような美しい声。
 「ありがとう、航。またね。」
 そうして、少女は茜色の浴衣を翻し、人混みの中に姿を消した。
 呆然としている航の目の前で、花火は何度も咲き続ける。ハンカチをポケットにしまおうとすると、何か小さく硬いものが包まれているのに気づいた。下駄の手当に使った5円玉だろうか。そっと広げる。
 あの硝子片が、そこにあった。しかし実際は硝子などではなかった。もっと透明で冷たい、薄氷のような何かの欠片。空に向けると、欠片は花火を写し込んで様々な色に煌めいた。

そこで、目が覚めた。
ここがどこかわからず辺りを見回した。湿ったにおいのする木のテーブル、棚を飾るコーヒーカップ、音をたてるサイフォン。燐光を放つジュークボックスから、かすかに音楽が流れている。窓の外には細い金の月がかかっていた。
 「ようやく起きたね。」
 カフェの店主が航に声をかけた。
 そうだ、ここで小説を書こうとして、眠ってしまったのだった。
 「すいません。・・・・・・夢見てました。」
 「へえ。どんな夢?」
 「龍神のお祭に行く夢。」
 航はそこでちょっと気まずく思ったが、店主は気にもとめずに言った。
 「へえ。うちの田舎でも、そういうお祭があったな。龍が水を求めて降りてくるんだよね。それでお礼に、自分のうろこを配るんだって。」
 ポケットに手をやった。ハンカチの奥に冷たい欠片があることを、触れずとも航は知っていた。
 「うろこをもらった人は、どうなるんですかね。」航はぼんやりと言った。「末永く幸せに暮らせるとか?」
 「ううん。」
 他に客は誰もいない。店主は白い布でカップを磨いている。
 「それをもらった日のことを、一生覚えていられるんだって。それだけ。」
 外を見ると、花火があがっていた。
 「それだけ、か。」
 独り言のようにつぶやいて、航は笑った。
 「先輩、今から祭、見に行きませんか。」
 苦いコーヒーを飲み干して言った。
 「いろいろ奢ります。その、昔のお詫びに。」
 「お詫びなんて・・・・・・行かなかったのはこっちの方じゃん。」
 やっぱり来なかったのか。
 そう思った途端、笑いがふつふつと沸きだした。
 「実はぼくも行かなかったんです、あの日。」
 先輩は驚いたように眉を上げたが、すぐ目を細めた。懐かしい三日月がそこにあった。
 「じゃ、今度こそ、鳥居の前で待ち合わせ?」
「いや。ここから一緒に。」
 「いいよ。店閉めちゃうから、ちょっと待っててくれる?」
 「はい。」
 ――今度は待ちます。何分でも。いくらでも。
 そう声に出さずに思った。
 ハンカチから欠片を取り出した。指でなぞると、氷のような冷たさが体中に広がってくる。
 原稿用紙にペンをいれた。タイトルは「空の海から」。万年筆から流れるインクはどこまでも青く澄んでいる。原稿用紙を自由に駆けるその青は、深い海にも、夏の空にも見えるのだった。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

37

坂月さかな

note編集部のおすすめ記事

様々なジャンルでnote編集部がおすすめしている記事をまとめていきます。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。