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今日は古代三都物語シンポジウムに参加、ラストシャーマンの長緒鬼無里さんが自著にサインしてた

 古代三都物語という歴史イベントに参加して来ました。
 出雲(島根県、鳥取県)、吉備(兵庫県西部、岡山県、広島県福山)、大和(奈良、大阪他近畿)の地域の歴史ファンが集まり、卑弥呼~古墳時代の歴史について語り合うという歴史イベントです。

 今回の会場は岡山県(吉備)岡山市の中央を流れる西川沿いの図書館の西川アイプラザで、13時からシンポジウムが開かれました。

 五階の大ホールの会場に着くと、受付があって、「吉備 坂崎文明」(正確には本名)の名札が用意されてました。
 それを首から下げていたら、隣の受付に「近畿 長緒鬼無里」(あくまでペンネーム)という名札があって、長緒さん来てるよと思ったら、和服好きだった栗本薫風な和服美人がサイン会してました。
 手馴れた大御所感が漂う長緒鬼無里さんが自著「ラスト・シャーマン」(クラウドファウンディングの文庫版)に次々とサインし、長蛇の列が出来てました。

 上の写真(noteの記事のトップ画像)は会場の写真なんですが、長緒鬼無里さんの書いたイベントのイラストポスターの下は吉備の特殊器台(埴輪の元になった土器。田んぼの野焼きで製作したらしい)、その下に長緒さんの後姿が偶然映っています。後で気づいたのですが恐るべき偶然です。 

ラスト・シャーマン 作者:長緒 鬼無里
https://ncode.syosetu.com/n9389by/

 しかし、今回の吉備の司会者の岡将男さんは邪馬台国吉備東遷説を唱えていて、著書もあります。岡将男さんもシンポジウムで長緒さんを紹介したり、懇親会でも長緒さんを紹介して、イベント自体も長緒さん押しすぎというか、長緒さんのためのイベントなのかも?と思ったりしました。
 とはいえ、シンポジウムの内容は本格的で、特に奈良、島根県のガチの研究者のレポートが秀逸でした。

 邪馬台国吉備東遷説なのですが、僕は個人的にはかなり有力な説ですが、卑弥呼の墓はやはり九州なんじゃないか、具体的には天皇家が道鏡(バックは物部守屋)に乗っ取られる危機の際に、和気清麻呂が神託を承った八幡総本宮 宇佐神社に古墳があるらしく、たぶん、そこが卑弥呼の墓だと思われます。
 天皇家が卑弥呼に伺いをたてたらまずいかもしれないが、良く当る九州の占い師というか、超絶霊能者なんだから仕方ない。
 石棺埋めなおしてるし↓ 急いで戻すなw

宇佐八幡宮は 亀山(古墳)の上に建っており 明治の改修の折 三ノ御殿の下より 『比売大神』の棺が 出土されたが 急いで戻したとの記載が 松本清張氏の『邪馬台国論』に記載されているほか 地元でもかなり知られていることです。
目撃されたのは、明治40年・昭和8~17年 2度あったそうです。

謎の石棺の目撃証言
宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されている(明治 40 年、昭和 16 年)。明治 40 年(1907 年)、神楽殿前の広場にそびえる楠の大木と、内陣・三之御殿の向って右側にある楠の巨木が根を張り出し、建物の一部が傾きかけた。そこで、内陣の部分をある程度掘り返し、根を切断すると同時に建物の一部を修理する工事が行われた。その時、巨大な石棺がその全貌をあらわした。目撃証言によれば、「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。石の節理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、国東半島にはこういう石は存在しないそうである」「この石棺にふれることは許されなかったので、目測にたよるほかはなかったわけなのだが幅も高さも1メートル強、長さは2メートル数十センチ、しかも表面はまるで鉋(かんな)でもかけたようなきれいな平面になっていた。とうぜんのことだが、蓋はべつになっており、その間からはみ出したと思われる朱が、横に一線正確な直線を真赤に描き出していた」(目撃者の山本聴治の証言を高木彬光が著書『邪馬台国推理行』角川書店 1975 年で紹介)。

 八幡宮といえば、秦氏ですが、吉備は秦氏の大量居住国だということが、最近、分かってきて、備前刀、備前焼きで有名な備前市、瀬戸内市(旧邑久郡邑久町など)はもう秦氏の国といってもいいです。

 秦氏は機織り、鉄、銅などの精製、土木建築、宗教関係の神社などに関わってますが、讃岐(香川県)の一ノ宮の田村神社も創建は秦氏だし、備前刀、備前焼きも秦氏だし、実は製塩業もやっていて、赤穂の塩も中央の政争で破れた聖徳太子に仕えていた秦河勝が引きこもった土地だと言われています。


司馬遼太郎トンデモ説の検証
 というわけで今回は大避神社に行ってきたのだ。
 大避神社といっても知らない人の方が多いだろう。かくもうす私も昨年十二月二十七日あたりまで知らなかった。Qさんに教えてもらったのだ。そのQさんも赤穂の生まれだが、そんな神社が地元にあることをちっとも知らなかった。昨年、司馬遼太郎の初期小説集が文庫で出て、そのなかの「兜卒天の巡礼」にこの神社が登場するのを読んで、はじめて知ったという。そのくらいの神社なのだ。

 というわけで大避神社について勉強してみる。「兜卒天の巡礼」によると、大避神社は兵庫県赤穂郡比奈にあるという。赤穂といえば、忠臣蔵と赤穂の塩で有名な、あの赤穂だ。兵庫県の西端、岡山県との県境近くにある海沿いの街だ。ちょっと西に走ると日生がある。アナゴの刺身がおいしいところだ。シャコも江戸前の倍くらいの大きさがあって、値段は半分以下。冬は殻付きの牡蠣がバケツ一杯千円で売っている。そういうところだ。
 ちょっと日生の宣伝に走りすぎた気もするが、大避神社は赤穂郡南部のひくい丘陵群が海に落ち込むあたりにあるという。海に面した貧寒たる社屋だという。ま、どこにでもある田舎神社といったところか。
 ところがこの神社、ただものではない。この神社は、秦河勝が創建した。聖徳太子のパトロンだったことで有名なこの男は、むかし京都にいた。中国伝来の機織りをいとなんで巨万の富を持っていた。また中国の音楽にも堪能だった。しかし聖徳太子に肩入れしすぎ、太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、京からこの赤穂に逃げたのだという。蘇我氏も渡来系の氏族だったので、これは天皇系渡来氏族と独立系渡来氏族との抗争だったのかもしれない。ともあれ秦氏は赤穂にこの神社を造り、機織りと神楽をこの地に伝えたという。

 秦氏はもともと渡来系の氏族で、秦の始皇帝の血筋を汲むと称していた。ところが始皇帝の一族は、唐の時代に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派の集団であり、またユダヤの失われた十二師族のひとつでもあるという。つまり秦河勝は、ユダヤ人だったのだ。このへんの考証は時代や宗教や民族が錯綜してムチャクチャな気がするのだが、司馬遼太郎がそう書いているのだから仕方がない。
 そして大避神社は、かつて大闢神社と書いた。だいびゃく、つまりダビデのことである。なんと大避神社は古代キリスト教の礼拝堂だったのだ。例証はほかにもある。大避神社の向かいにある生島には秦河勝の墓と井戸がある。この井戸、やすらい井戸、と呼ばれていたという。やすらい、つまりイスラエルの意である。つまり秦河勝は、井戸にみずからの民族を、神社にみずからの宗教をきざみこんでいたのだ。
 大避神社は同じ著者の「日本歴史を紀行する」の京都の巻にも登場する。都落ちする前の秦氏が京都につくった神社は大酒神社だった。これも昔は大避神社と書き、さらに昔は大闢神社だったという。その境内にもやすらい井戸と呼ばれる井戸がある。三脚の石鳥居もある。これはユダヤの「ダビデの星」を模したものだという。さらにこの神社では京都三大奇祭のひとつである「牛祭り」というものがおこなわれる。牛の面をつけたマンダラ神というものが祭壇の前で奇妙な祭文を唱えるが、これはユダヤ人が犠牲獣を神に供えた風習のなごりだという。祭文もヘブライ語だという。そもそも京都の太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものであり、秦氏の「ハタ」も、司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだという。
 秦河勝と彼に従ったユダヤ人集団は、赤穂から隣の岡山へその血を伝えた。岡山県人はその勘定高さ、冷酷さ、頭脳明晰さなどの特徴から「日本のユダヤ人」と呼ばれ忌み嫌われてきたのだが、実際にユダヤ人だったのだ。岡山県人の特徴は、ユダヤの血筋のなせるものだったわけだ。
 こんな主張はどう考えてもこじつけか妄想にすぎないし、こんなことを真面目に主張する人間はどうかしていると思うのだが、なにしろ司馬遼太郎がそう書いているのだから仕方がない。
『岡山県人はその勘定高さ、冷酷さ、頭脳明晰さなどの特徴から「日本のユダヤ人」と呼ばれ忌み嫌われてきたのだが、実際にユダヤ人だったのだ。』

 なんだ、僕はやっぱりユダヤ人だったのか!?最近、判明した母親の旧姓が秦氏六十姓に入っていて、母親の姉の旦那さんが秦河勝を祀ってる大避神社(京都の大酒神社と関連)の氏子だし、妹が岡山県久米南町の誕生寺(法然の誕生したお寺)の関係者と結婚し、法然の母親が秦君だし、もう、秦氏まみれです。

 これには理由があって、つまり、聖徳太子一族が蘇我氏に滅ぼされて、秦河勝は赤穂に逃れて、元々、秦氏が大量に居住していた瀬戸内市(旧邑久郡邑久町など)の海沿いでも製塩業をしていて、玉野市、倉敷市児島にも広大な塩田がかつてありました。備讃瀬戸の藻塩という海藻から塩を得る方法もあります。

 アシュケナージユダヤ人のホロン理論のアーサー・ケストラー(ユダヤ十三氏族説を唱えるというユダヤ陰謀論の元になった本を書いている。古代ユダヤ人は十二氏族までしかいない)や経済人類学者カール・ポランニー、暗黙知理論のカール・ポランニーが好きなのも何かの縁かもしれません。
 ただ、古代ユダヤ人十二氏族のスファラディユダヤ人の系統になりそうです。

 アシュケナージユダヤ人はキリスト教国とイスラム教国に挟まれたアジアの強国ハザール王国(騎馬民族)の王族などがユダヤ教に改宗して生まれた十三番目のユダヤ人で、今では彼らがユダヤ人の80~90%を占めています。
 陰謀論的にはこれが理由で偽ユダヤ人と呼ばれますが、ノーベル賞などを受賞するユダヤ人といえば、アシュケナージ系ユダヤ人(人種的には様々で混血している)です。

 彼らはカスピ海、黒海付近のコーカサス地方からロシア、東欧に移住して混血していって、ドイツ、オーストリア、ハンガリー→フランス→英国→米国という風に移住していってます。 
 僕の祖先?のスファラディユダヤ人は中国→韓国→日本の九州→吉備→大和という渡来ルートです。天皇家の部民として活躍したり、政争に敗れたり、いろいろです。数万人単位の渡来なので、いろんな処にいる。
 

 和気清麻呂は美作市、備前市を領地としていましたが、この前、僕が行った美作市の湯郷温泉の社(やしろ)の式内八社の佐波良神社・形部神社(合祀)は和気清麻呂祖先を祀っていて、神社の背後で鉄を作っていて、その製鉄作業の傷を癒すために湯郷温泉が出来た。



 葉田葦守宮というのは、今日、古代史ツアーで行く予定の足守辺りにあったと思われますが、応仁、仁徳天皇の妃が吉備出身で、古事記の記事に出てくるのですが、葉田=秦ということに気づくと、謎が解ける。

 古代吉備の中心地、吉備の中山ですが、秦廃寺という秦氏の氏寺あったり、服部という忍者一族の地名もある。
 忍者の起源は聖徳太子に仕えた志能便(しのび)の大伴氏ですが、万葉集を編纂した大伴家持、その父親の大伴旅人は『令和』の元になった梅の宴会とかの主催者ですね。
 大伴氏は軍事氏族で天皇家の近衛兵ですが、忍者軍団、諜報部隊もあったようです。
 初期の志能便(しのび)は九州の大宰府の狼煙とか、伝令などで活躍してますね。

そして、聖徳太子が志能便として活動させていたのが大伴細人(おおともの ほそひと)です。この大伴細人が日本最古の忍者であると言われています。元々、大伴細人は強い勢力を持っていた豪族の大伴氏の出だったのですが、聖徳太子が活躍していた時代には没落していたと言われています。一説によれば、聖徳太子は大伴細人以外にも服部氏族などの忍者を使っていたと言われ、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流になったと言われています。


 もう古代史ツアーに行く時間なので、また、後で追記します。

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