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令和元年、万葉集由来の和やかで風流な元号

 第一印象はタイトル通りだが、まさか僕の名前と住所が一字づつかぶってる。そんな忖度しなくていいのに。
 そう思った人はたぶん、日本中に何十万人はいるだろう。

 災害の多かった平成より戦争はあったが日本の成長期だった昭和を意識した元号かもしれない。
 和というのも過去二十回ほど使われ、聖徳太子の『和をもって尊としとなす』を強く意識したものだろう。

 大宰府の大伴旅人邸の初春の宴会(梅が咲いている)を描いた歌の一説から取ったもので、膝を突き合わせて酒を飲み交わす和やかな宴の様子が窺えます。
 まあ、日本の文化大国への道を語ったものかもしれません。
 みんな仲良く、和やかにという雰囲気です。

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《原文》 ※約物は後世に調整された形。※太字は新元号に採用された字。

于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

《書き下し文》 ※ここでの読みは文語とする。

時《とき》に、初春の令月《れいげつ》にして、気淑《よ》く風和《やはら》ぎ、梅は鏡前の粉を披《ひら》き、蘭は珮後《はいご》の香《かう》を薫す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%92%8C
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 大伴旅人は万葉集を編纂したと言われてる大伴家持の父親ですが、藤原氏との政争によって大宰府に左遷された説があります。
 あるいは対外的な防衛の必要上、軍事氏族である大伴氏を大宰府に配したという説もあります。

 凄く深読みすれば、日本を支配する藤原氏(近衛家などに)に対する批判というか、天皇を側近として守護していた吉備の豪族である和気清麻呂(わけのきよまろ、備前、美作市、天皇家の血脈を道鏡より守る)、吉備真備(きびのまきび、倉敷市真備町、藤原仲麻呂の乱を鎮圧)のような地方豪族などや名門の軍事氏族の大伴氏などを持ち上げるような元号になります。
 これらの氏族はいずれも藤原氏の専制から天皇家を守ったという実績があります。和気清麻呂はちょっと違いますが、天皇家の血脈を道鏡から守ったという意味では同じですね。

 僕は万葉集が原典と聞いて、あれっと思ったんですが、政権において主流は藤原氏であり、大伴氏は高い位まで上がるんですが、非主流派なので、ちょっと意外でした。
 ただ、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたらしいので、天皇に近いといえば近いですね。

 まあ、今回の元号を考案した人は感性が女性っぽいので、そこまで深い意味はないでしょうが、NHK大河の原作『西郷どん』を書いた林真理子さんが考案したのかな?と思ったりしています。
 大宰府ということで、九州繋がりですね。


 僕の書いてる小説が『万葉集の謎解き編』(かごめ歌の謎もある)に入りつつあるので、また、万葉集を読んでみようかと思います。続き書かないとね。

 万葉集といえば白川静氏の呪歌集としての独特の解釈があります。
 景色を褒めた歌がある種の山などの自然の力を引き出す呪歌だったり、花占いの歌だとかがあるらしい。
 特に万葉歌人の柿本人麻呂の歌には呪歌的なものが多いという。


 人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の反歌で知られる「安騎野冬猟歌」もまた、人は近代人的に解釈しすぎると言う。

「やすみしし わご大君」ではじまり、「草枕 旅宿りせす 古念ひて」にいたる長歌の根幹は「寝る」ことなのだ。それは神嘗祭や新嘗祭・大嘗会どうように神々や祖先との交感を目的とする行為なのだと言う。(白川は書いていないが、その行為にはとうぜん地霊との交感も含まれていただろうと想像する)

「見る」ことは、自然を含む対象と交渉し、霊的な機能を呼び起こすことだった。

「ふる」ことは、とおく離れた人、あるいは既にない人の魂に触れることだった。

ひとは、旅にでたときに宿がないから仕方なしに「旅寝」をしたのではなく、「旅寝」をするために家を出たのだ。「草枕」とは、そういうことばだった。

人麻呂の「月かたぶきぬ」も、夜をこめての思念の末に、感応の現れる払暁を迎える。それが「東の野に炎の立つ見えて」なのだ。

人麻呂は軽皇子の安騎野冬猟の目的(草壁皇子の魂を受け継ぐこと)が成就したことを歌った。それを白川は「呪歌」と呼ぶ。

″「安騎野冬猟歌」についている短歌はけっして叙景歌ではない。″

──第三章『呪歌の伝統』──

白川静『初期万葉論』
http://d.hatena.ne.jp/elohihigchan/20110711/1310354804

 白川静氏の『初期万葉論』は面白いので、読んでみてね。
 あと、孔子の弟子の顔回(淵)はサイキックソルジャーというか呪術師説を描いた酒見賢一の小説『陋巷にあり』は白川静氏の『孔子伝』が元ネタです。
 万葉集と中国の詩経の比較研究もされてるんですが、詩経の中にも呪歌的要素があるそうです。
 白川静氏の死去によってその謎は全ては解かれていません。

 ホツマツタエによれば、和歌は元々呪歌なんだけど、イザナミの娘であるワカ姫(ヒルコ)によって創始されたというか、和歌の原点はワカ姫だと言われている。イザナミの呪術を最も引き継いだのがワカ姫である。

ホツマツタヱではイサナギ尊とイサナミ尊の間にワカ姫(斎名:ヒルコ)、アマテル神(斎名:ワカヒト)、ツキヨミ尊(斎名:モチキネ)、ソサノヲ尊(斎名:ハナキネ)の一姫三男がお生まれになられたとしている。

記紀ではワカ姫(ヒルコ)が骨のない出来損ないなので捨てられたとしているが、ホツマツタヱでの骨のない子はヒヨルコであり、ヒルコとは別の神である。
ワカ姫はイサナギ尊とイサナミ尊の第一子で陰陽の節目に生まれたため、両親の汚穢隈が子に障るということでイワクス船に乗せられて川に流された。しかし川下にいたカナサキ(住吉(すみよろし)神)夫妻に拾われて西殿(西宮)で大切に育てられた。
https://ameblo.jp/susanoko0827/entry-11973649689.html

 ワカ姫はヒルコですが、骨のない子はヨルコだそうです。
 古事記はいろんな意味で日本の古代史を歪めています。
 たぶん、これも藤原氏専制の問題ですね。
 古事記はそういう意味では偽書ですね。

 吉備津彦(桃太郎のモデル)の姉である、百襲姫(ももそひめ、かぐや姫のモデル)なんかも讃岐(香川県)に流されて、大和に戻って反乱を預言しますが、出産時の穢れを払うために川に流すというのは古来ではよくある話です。大体、家来が川の下流で拾って育てますが。
 そういえば、桃太郎も川に流されておじいさんとおばあさんに育てられますが、同じ話なのかな。


ワカ姫は先ず、田の東に立ってオシ草(玄人)を片手に持ち、もう一方の手に持つ桧扇(ひおうぎ)で扇ぎたてて、即興の歌を詠みながらホオムシを祓いました。すると虫が飛び去ったのを見たムカツ姫は、三十人の姫達を二手(ふたて)に分けて田の左右に佇(たたずま)せて、皆一緒にワカ姫の作った稲虫祓いの和歌の呪(まじない)を歌わせました。
 くりかえし、繰り返しして三百六十回歌い続けて、最後にオシ草と桧扇(ひおうぎ)を皆が一斉にどよませ大声を上げれば、虫はザラッと一気に西の海の彼方へと飛び去り、稲田は元の様に鎮(しず)まりました。
 これが稲虫祓いの和歌の呪(まじない)です。

稲種(タネ)・畑種(ハタネ) 大麦(ウム)・小麦(スキ)・大触豆(サカメ)
大豆(マメ)・小豆(スメラ)の ゾロ(稲)葉(は)も 喰(は)めそ
虫(むし)もみな鎮(し)む

 このワカ姫の歌により無事災いは祓われて、再び稲は元通りに若やぎ、蘇(よみがえり)りました。

(中略)

 又ある日ある時、クシキネ(大己貴)が諸国を巡って農業指導をしている時のことです。災害で食糧の乏しい村民の訴えに、つい誤って獣の肉食を許してしまいました。と、天罰が当たりその年の秋、村の稲田に稲虫が大量に湧き出て葉を食い荒らしてしまいました。驚いたクシキネはシタテル姫の坐すヤスカワに馳せ参じて、稲虫祓いの教え草を習い覚えて急ぎ帰り、オシ草(玄人)を持って扇(あお)ぐと、やはりホオムシは去って稲は若やぎよみがえりました。その秋豊作となったので、喜んだクシキネは、自分の娘のタカコ(高子)をシタテル姫の元に奉りました。

 その報を聞いたアマクニタマ(天津国玉)も感激のあまり、娘のオグラ姫(小倉姫)をこれも捧げて仕えさせました。シタテル姫は二若女(フタアオメ)を召して八雲弾琴(ヤクモウチコト)の音(ね)を二人に教えて楽しみました。
 後にワカ姫が日垂(ひた)る時(臨終)に、ヤクモ(八雲弾琴)とイススキ(五弦)とカダガキ(三弦琵琶)の奏法をタカ姫に免許皆伝し、タカテル姫の名前を新たに賜わりました。又和歌の奥義を記したクモクシ文(雲奇文)は、オグラ姫に捧げて、なおも自分と同じシタテル姫を襲名させ、神上(かみあ)がってから後に、和歌国(わかくに)のタマツシマ(玉津島)に祭られてトシノリ神(歳徳神)と称えられました。

 アマテル神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになることを決心され、諸臣、諸民を集めて、后(きさき)のムカツ姫に遺し法(のこしのり)をされました。

「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行ってワカ姫と供(とも)に余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私もトヨケ埋葬のこの地マナイガ原でサルタに穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我はトヨケと男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(いせ)の道なり」と、のたまい洞(ほら)を閉じさせました。

 シタテル姫(下照姫)はワカ姫の別名です。
 和歌の奥義を記したクモクシ文(雲奇文)というのがあったらしいが、どういうものだったんだろう?
 二代目シタテル姫は大倉姫らしいが、大倉姫神社は式内社で素朴な祠みたいなもので、この前の真庭市の式内八社に似てますね。


 
 和歌の奥義と言えば、古今伝授(こきんでんじゅ)というものがあり、細川藤孝(幽斎)が伝承していたとされています。
 このため、関ヶ原の戦いの田辺城の戦いで、ピンチに陥った細川藤孝(幽斎)を天皇が助命しています。


慶長5年(1600年)6月、息子の細川忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に
丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、丹後田辺城は、
石田三成らに与する西軍の軍勢1万5000人に包囲されてしまいます。

そして、細川藤孝は500人に満たない手勢で丹後田辺城を守り、籠城戦となったのです。

この籠城線は、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく、
7月19日から始まった攻城戦は、月末には落城寸前となりました。

まさに、細川藤孝は、絶体絶命のピンチに陥ったのですが・・・
この時に、、、非常に奇妙な出来事が起こったのです。

天皇が勅命を発し、一介の武将を救った理由とは?
この、細川藤孝が、絶体絶命のピンチに陥った時、、、

実は、時の天皇であった後陽成天皇が、
わざわざ、細川藤孝を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させているのです。



 柿本人麻呂については小説ではこんな感じ↓に書いてます。
 謎が多過ぎて、さて続きを書けるか心配ですね。

 ゴールデンボンバーが早速、『令和』という曲を出してますね。
 いい年になってほしいですね。

「柿本人麻呂? そんな名は聞いたことがない」

 三輪高市麻呂《みわのたけちまろ》は安部清明の質問に首を横に振るのみだった。 
 右手で杖をついて、少し右足を引きずっている。
 おそらく、壬申の乱の戦闘の古傷なのだろう。

 深緋色のゆったりとした袍《ほう》の上着に白い袴に黒い履をはき、黒い漆紗《しっしゃ》の冠をつけている。
 飛鳥時代の持統朝の朝服であるが、大三輪《おおみわ》、大神《おおみわ》高市麻呂《みわのたけちまろ》とも呼ばれ、巻向、箸墓などで行われた天照祭祀を司る古代豪族三輪君の一族である。 
 そこはその箸墓遺跡のすぐそばである。

「おそらく、あなたがその人だと考えてるんですが」

 清明は高市麻呂をじっと見つめながら核心に触れる。
 彼は平安朝の青い狩衣に黒い烏帽子を被っている。
 神霊体から仮初めの身体を生成して実体化している。
 清明は柿本人麻呂について高市麻呂にひと通り説明した。

「私が柿本人麻呂? ははは、それは面白い冗談ですな。確かに、私もお上に諌言して筑紫に流されてますが」

 持統天皇6年(692年)の2月19日、高市麻呂は「農作の節に車駕を動かすべきではない」と持統天皇の伊勢行幸に諌言した。
 が、持統天皇はそれを無視して伊勢行幸を強行した。
 大宝2年(702年)の1月17日、高市麻呂は長門守に任ぜられた後、筑紫国に任じられている。

 持統、藤原不比等による実質的な左遷と思われる。
 伊勢で天照皇大神を祀り、新しい世を創り上げようとしたふたりには、古い伝統にこだわる高市麻呂を目障りだと考えたのだろう。

 柿本人麻呂といえば、万葉集で第一の和歌の名手であり、歌聖、三十六歌仙にも数えられる。
 それでありながら、朝廷の公式記録にはその名はなく、謎の人物とされている。
 誰でも知ってる有名な歌人でありながら、その素性がわかってないのだ。

 梅原猛著『水底の歌-柿本人麻呂論』では、人麻呂は朝廷の高官であったが政争に巻き込まれて、現在の島根県益田市(石見国)で水死刑にあったという大胆な仮説を展開している。
 が、柿本人麻呂は作家のぺンネームのようなものだと考えれば、彼の正体がおぼろげながら見えてくるのではないかと思う。
 三輪高市麻呂こそが、その有力候補のひとりである。


柿本人麻呂の謎/第三章 飛鳥戦国時代編/安倍晴明と安東総理のやり直し転生譚 作者:坂崎文明
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