日記2 日記1

学食の調理の人に恋をした人がいたら使用済みのトレーをベルトコンベアで流すとき、一緒に手紙も添えるのかな

短歌や音楽を鑑賞するときに、驚くくらい新鮮な(それはときに拒否してしまったりもする)ものに出会うことがある。
わざわざ可能性を狭める必要はない、と知っているし、それらは本来自由なものなはずだ。そうなんだけど、自分で新しい方面を切り開くほどの活力も意識とかもなくて、保守的だなあって過去のこととかを思い返す。

剣道をやっていたことがあるのだけど、試合で一度も胴で一本を取ったことがないことがずっと喉や胸につかえている

犬がリードを限界くらいまでに伸ばして飼い主の周りを円を描くように走り回っていて、こういう問題ありましたよね、と思った 二匹の牛の飼育に必要な牧草の量、みたいな

→剣道部の友達とちょっと会ったり、別の子が連絡をくれたりした。そういうの嬉しいです。

剣道は比較的長い間続けていたのだけどかなり下手で、それは私に(今もですが)自主性がなかったからだと思う。
一度だけ大会でベスト16まで残ったことがあって、その時にはどうしてこんなに下手な子がまだ残っているんだ、と噂されていた。ということを後輩から教えられたし、割とナメられてもいた。ナメられてはいたのだが、けっこう構ってくれていたので、ありがたかった。
そういうの嬉しいです、ので。

電車の運賃って、高いと思いませんか?
電車って凄い。駅のない町で育った私からしたら当たり前に存在していいテクノロジーではない。
そういった考えが先にあって、そして私の中でそれが当たり前になろうとしている。

電車って、もっと高いか安いかであってほしい。
電車が凄いものであること、非日常であることを担保するために。もしくは、電車が既に日常に溶け込んでしまった凄いテクノロジーであるために。

冷食のチャーハンを食べて、冷食のオムレツも食べた。日記を終えるときって、緩やかな方がいいのかなって思う。

衝撃のラストを迎える小説も、事実を明かすこと自体が物語の終わりを迎える役割を担っているものと、衝撃のラストにも着地をさせてから終わるものがある 気がする。
人間の死を(当人にとっての)終わりとするのなら、不慮の事故はもちろん前者だろうけど、老衰だったり余命を待って死ぬのはどっちなんだろう。 
フッ と意識を手放す のか。

音楽にはアウトロがある。漫才には弱めのボケと締めの言葉が。それに反する終わり方も。


落語の演目に死神という演目がある。落語家によって差異こそあれ、男の蝋燭の火が消えてしまう という終わり方が多い と思う。
安心したため息で、突然のくしゃみで、死神の無慈悲な一息で。直前までの恐怖なんて関係ないように、一瞬にして火は消える。
フッ と、男の命も消えて、物語は終わる。
出囃子や拍手が聞こえて、意識が現実に戻る。

そういったいろんな終わり方がなんだか他人事じゃない気がして、気がしている。偶然生きているって、私の中ではありきたりなことを思う。


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