2月14日、15日 声が出る不自由

2月14日(水)「駄目になりたい」

できれば声を出したくない。声が出ないふりをして過ごそうかと思ったけど、保育についてたくさんの話し合いをしないといけない。「もう明日は駄目かもしれません。」と昨日も一昨日も伝えたけど、声以外はそこまで駄目にはならなかった。明日こそは高熱でも出て駄目になってくれ。とうっすら願っている。(「うっすら」をとりあえず付けといた。本当は…)そうでもしないと喉を守れない。夕方から微熱が出始めてるのでいよいよ駄目かもしれない。ちょっとうれしい。何にも喋らず過ごせる。昨日から夫とはささやき声で喋りはじめた。

2月15日(木)「声が出る不自由」

昨日の夜咳が止まらなくて寝たり起きたりしてたから夢か現実か分からなくなった。夜中に吸入したから多分現実。そして、朝には声が消えた。昨日は微熱も出てたしもう駄目かもしれないと思い体温を測ると36.8℃寝汗びっちょり。回復してもうたがな。

保育園でもささやき声で喋る。「さき先生の声がどんどん小さくなってる!」「さき先生声出ないんだって!」私がささやく度に子どもたちが「なになに?」と耳を近づけてくれる。

「………んー」

ささやき声も低すぎて聞き取りづらそう。

だけど「……んーー。あ!〇〇ってこと?」子どもたちは聞き取れた言葉とその場の状況と私のジェスチャーから何を伝えようとしているのか想像しながら確認してくれる。必要最低限の言葉と身振り手振り、表情、時々ホワイトボードを活用しながら子どもたちと会話する。

保護者が子どもをつれて登園してくると「さき先生声が出ないんだって!」と子どもたちが伝えてくれる。「私の代わりに伝えてくれてありがとう。助かったよ。」とお礼を伝える。

声は出ないけど、子どもたちとバスケをして遊んだ。それはもう全力で。上着なんていらなくて少し汗ばむくらいたくさん動いて気持ちいい。私は子ども相手でも一切手を抜かないから子どもたちの表情も本気だ。何か困ったことが起こると集まって話し合う。私の声はなくても子どもたちの力で解決されていく。

声や言葉は時々多くを伝えすぎてしまうし、伝わりすぎてしまう。声や言葉が少ないと言葉以外を材料にして相手の思いを想像しようとする。余白から考える隙間が生まれるのかもしれない。音による刺激も少ないから自分の頭の中の声にも集中できる。

時々声が出なくなる度に喋りすぎてしまう自分を振り返る。その度に静かな日常の居心地の良さに驚き、このまま声が出ない生活もいいかもしれないと思う。声で伝える言葉に頼りすぎるのをやめたくなる。声が出るほうが私にとっては不自由なのかもしれない。

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