見出し画像

夢切り絵【邪神】

見た夢を切り絵にしました、9枚目でございます。

B型作業所に通所を始めて、1か月以上が経ちました。
先日、お菓子の箱を組み立てる作業をやらせて頂きましたが、あまり頻度の多くない作業なこともあり、私が行うのは今回で2回目でございました。

あらかじめ山折り、谷折りの工程は終えてあり、折り目のついた箱を組み立てていく作業なのですが、組み立てる作業自体は、私にとってそんなに難しいことではございません。
組み立て終えたのち、最後に、底板を敷いて、完成となります。

完成したものを段々に積み重ね、1日数百個作成するそうです。
組み立てに関しては、職員の方に「完璧だね」と言ってもらえることがございますが、私は、最後に底板を入れる工程を、何度やっても忘れてしまう現状がございました。

積み重ねてある完成形を一つ一つ職員の方が、点検し「底板が入っていないよ」と言われることが多々あり、私はその度落ち込むのですが、職員の方は私を責めることもなく「ゆっくりやっていいんですよ」「自分たちが最後に点検するので、あまりそこまで気にしなくても大丈夫ですよ」といつもお気遣いを頂いております。

この問題は、以前の仕事でも、悩まされてきたことでございまして、覚えのある出来事だと感じておりました。
たとえゆっくりやらせて頂いても、何度指摘を受けても、どうしても忘れてしまい、頭で分かっているのですが、私には抜けてしまう工程が発生することがよくありました。

初日の研修時に、マニュアルを覚えなければならないときに、何度言われてもどうしても抜けてしまう工程があり、研修をなかなか終了できず苦労する事態になることが度々ありましたが、難しい工程がよく分からなくて理解できないままミスをするという感じではなく、誰にでも出来るような簡単なことや、ある工程だけ不自然に頭からすっぽり抜けてしまうという感じだったので、「こんな簡単なことなのになぜ?」「わざとやってる?」という反応をよくされていたような気が致します。

今回の底板の件も、組み立てたあと、最後にただ底板を乗せるだけの部分がどうしてもできず、自分でも「どうしてこの部分だけできないのか?」と不可解な思いがずっとございました。

自分の理解力が追い付かない、自身の能力を超える工程や作業を行っている場合に、全体のことがよく分からず、何をしているのかがよく分からないために、ミスが増えるというのは、当たり前のことかもしれませんが、ほとんどの工程はクリアできているのに、極めて簡単といえる工程がどうしてもできないという状況は、発達凹凸に関係があるのかもしれません。

仕事でミスをしてしまった日は、なんとなく暗い気持ちで帰宅をしました。頻繁にある作業ではないので、忘れないために、数日後の訪問看護師さんがいらっしゃるときに、その話をしてみました。

発達障害の症状として、目で見えなくなると忘れやすいという傾向が、よく見られるそうでございます。
お菓子の箱であれば、底板は本来外側からは見えないものでもあり、積み重ねてしまった場合は、もう中は見えなくなるため、そういうものは発達障害の人にとっては忘れやすいものでもあるようです。

底板を入れてなくても、最終的に完成形が同じであるから、目で見ただけでは気が付かないというクセがあるということは、発達障害の本などに書いてあったりすることもあるそうです。

視覚に入っているかどうか、という基準の話を聞いたとき、そういえば、自宅から出て忘れ物に気づいたとき、急いで家に戻り、ドアを開け自宅に入った瞬間「何を忘れていたんだっけ?」と急に思い出せなくなる感覚が私にはよくありますが、ドアが閉じられると同時に、視界が外から室内に大きく切り替わったことで、忘れるスイッチが入ってしまっているということだったりするのでしょうか。

今度同じ作業があったとき、組み立てと底板を一緒の工程にせず、組み立ててある程度積み重ねたら、最後にまとめて底板を入れるという別工程にすると良いのでないかという提案を頂きました。
やってみなければ出来るかどうかは分かりませんが、工程と工程の間に挟まれているから抜けてしまうと「忘れてしまう」という気持ちになってしまう、それが「自分はできない人間」という思いに繋がってしまうのなら、そもそも別の工程にすれば、底板を入れることが出来ない訳はないから、そうするのも一つのやり方だと教えて頂きました。

「あなたが出来ない人」なのではなくて、「工程があなたに合わなかっただけ」なのだから、工程を変えれば済む話なのだと、発達障害の人への配慮に慣れている人は、こうして日々柔軟に提案し続けていることを知りました。
改めて、頭が下がる思いでございました。

皆さんにはどんなお話に見えるでしょうか。
題名は「邪神」です。

私には兄がおりまして、今年37歳になりました。
お互いに一人暮らしでもあり、もう数年会っておりませんが、母の話では、現在はひげが伸びているとか、坊主にしたとか、そんな話を聞いております。
今は見た目がどうなっているのかよく分かりませんが、私が顔を見ていた頃のイメージでは、絵のような見た目でございます。

母や妹ほどではございませんが、兄も度々夢に登場しております。

怪物らしきものが街を襲っている世界に放り込まれ、人々がわさわさと逃げている中、兄が私に「化け物を退治してきてくれ」と言いました。
現実の私はもちろんそんなことを頼まれる存在ではございませんが、そのときは「この世界で自分しかあの怪物を倒せない」という設定があったように思います。

ウルトラマンの世界かという感覚で、私はどこか他人事で、遠目に怪物らしきものを眺めておりましたが、どうやらウルトラマン的ポジションが私ということみたいです。
驚くほど体が軽く、身体能力が信じられないほど強化されていた私は、屋根の家にヒョイと乗りました。

屋根の上から、見渡す限りの街一面は、気持ちの良いものでございました。
液体のように自由に形を変える黒い物体が、遠くに見えておりますが、私はあれと戦わなくてはならないようでした。
兄と他の人間たちからの声援を受けながら、私は、屋根の上からジャンプし、空を飛びました。

空を飛ぶ夢を見ることは、そこまで珍しいものではありません。
なんとなく、この時点で「これは夢だな」と薄々気づいていたりします。

恐ろしい形をしているときは邪神のような怖さがありましたが、一見ヘドロにも見えました。
試しにパンチをすると液体ではなく、固形の感触がありました。
私の拳は痛くも痒くもないのですが、物理攻撃ははっきりと効いているようなので、すっかり調子を良くし、そのままウルトラマンになったつもりで、なんとか邪神を消すことができました。

屋根の上に避難していた人々は歓喜の声をあげ、私は堂々としました。
私は正義の味方や分かりやすいヒーローが大好きなのですが、自分がなってみるという経験は、夢でしかすることができない貴重なもののように思います。

夢で見るものは、その人の心の状態が反映されているものだと言う人はとても多いのですが、私の夢に、戦う場面が多く出てくると、焦っているとか、追い詰められているのかなと、心配されることがたまにあります。
夢にはどんなものが影響しているのか、私はよく知らないのですが、私が夢の中でよく戦っているのは、単純に私が好戦的な一面を持っているからなのではないかと思うことがございます。

物静かな人間なので、あまり周囲の人には思われていないと思うのですが、実は脳筋な一面があると自分では思っております。
精神的にも肉体的にも弱いため、身の程をわきまえた結果、喧嘩などはもちろんできませんが、夢の中のように私でも勝てるという状況なら「戦いたい!」と強く思います。

現実では、些細な口喧嘩すら出来ない人間でございまして、精神力が足りず、相手にいつも気圧されてしまいます。
夢の中ではなぜか、精神力の減りが少ない気がするどころか、もともとの精神力がとても高く感じることが多いのです。
有り余っている精神力を備えていることが、戦う気力が満ちていることとほぼ同義のような感覚があり、こういうときは戦闘狂の気持ちも少しは分かるような気が致します。

私と兄は、叔母さんの家に向かいました。
母にはお姉さんがおりまして、もう何年も会っておりませんが、小さい頃はよく顔を合わせていたような気が致します。
叔母さんに久しぶりにご挨拶をして、ここでしばらく休もうとしていたところ、叔母さんが奥の部屋に入った瞬間に、先ほどの邪神の残骸のようなものが、湧いて出てきました。

兄は「ひゃー!」と叫びましたが、いざという時に頼りにならない感がある兄は健在だなと思い、微笑ましく見ながらも、私はまたウルトラマンのメンタルとなり、自信満々で戦いに赴きました。

決着を見る前に、目が覚めてしまったのですが、怖いものを見たという感覚は全くなく、むしろ戦いを終え、すっきりとした目覚めでございました。

現実の自分とあまりに違う自分の姿は、夢ではよくあることでございますが、人間はいろんな姿を持っているものなのだと思います。
社会や他者から受けている評価を基準にした自分以外にも、誰にも知られることのない、自分にさえ分からない自分もいて、自分を統一しようと思ったときに、そんな知らない自分に混乱してしまうことがあったとしても、受け入れるしかできないのだと思います。
社会的な自分と、自然体の自分を両立していくのは、人によっては難しいかもしれないけど、夢が上手く活用できたらいいなと思います。
夢を見ているとそんな気になります。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?