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名もない僕らの

私たちには名前がある。故に、“名もない僕ら”という題は適切かという話を前置きにさせていただこう。いやいやそういう名ではなかろうと思った博識なあなたも少しだけ付き合ってほしい。

果たして名もない僕らとはなにか。名が通っていない、無名だということか。しかしここで取り上げる名もないとはそういう意味ではない。

冒頭での矛盾、そう、私たちは生まれてすぐに名前がつけられるものである。人によっては漢字があって、名付け親の大変大きな思いが込められている場合もあるだろう。だがそれはその環境で暮らしていくためだけの名前である。私の話というのは、極論名前は必要であるかということだ。

インターネットでアカウントを作る際、例えばnoteの登録の際に自分のユーザー名を考える瞬間が一瞬でもあったと思うが、果たしてそれは必要か。私たちが連ねる文章には所謂タイトルが必要である。だが著者名はどうか?言ってしまえばただのブログのようなもの、素人が暇潰し程度に打つ文字に書く者の名前は必要だろうか。

匿名であるが故の本音

あまりよくないイメージが多い匿名の文字。堂々と適当を言えるわけだからそれもそうだ。だが私としては匿名であることで世間体や他人の目を気にすることなく、普段自分が塞ぎ込んでいる本音を曝け出せるとも思う。現に今の私がそうだ。たまたま同じ授業を取っている顔見知り程度の女子大生から突然「私たちには名前が無いじゃない?」と声をかけられても反応に困るだろう。名前が無い、肩書が無いことで自分を曝け出せるというのは実際問題如何なものかということもわかっているつもりだが、どうもこの世は生き辛い。(夏目漱石好きが軽率にバレてしまいそうだ)

私は自分の話をするのが得意ではない。だからなんだと言われてしまえばそれまでなのだが、匿名という安心感のみでここまで文章を連ねられるものなのだから匿名も悪くないと思いたい。決して人を傷つける発言を肯定はできないが。

僕は誰なのか

小さい頃からそう考えることが多かった。自分は一体誰で、誰のために生きているのか。なんのために学校へ通い、勉強をし、習い事をし、生きているのだろうと。かわいくない子供であった自覚があるので今更かわいくないと言われたってなんとも思わないのだが、将来なりたいものも憧れるものもなにもなかった。塾に通っていたのでそれなりに勉強はできたが、偏差値の高い学校に進むことを望んでいたわけでもなかったし、もっと言えば学校が嫌いだった。だがそんな私とは裏腹に世界は回ってしまっていた。

「良い高校、大学に行きなさいね。そのために勉強をがんばりなさい。学校へ通いなさい。塾へ行きなさい。あなたは私たちの家系の跡を継がなくちゃならないのだから。」

私がひねくれた原因はすべてこの言葉のせいだったかもしれない。気に入らない自分の性格を身内のせいにするのも気が引けるが、性格を形成するのは環境だとも言うだろう。

生まれ落ちた瞬間、私が私の意思を持つ前から私の将来は勝手に決まっていた。名前があることで好きに生きることを諦めた。だからこそ思ったことを言いたくて匿名に頼ってしまうところがあるのだろう。歯向かうことすら無駄だと感じてしまう冷めた人間だったので、私はこのまま自分の気持ちに目を瞑って生きていくのだと思うが、たまにこうやって纏まらない内側、“名前のつかないもの”の話をしにこようと思っている。

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