ポケモン映画に散りばめられた首藤監督の没プロットを水の都を用いて読み解いてみる

初代ポケモンと聞くと大抵の人は赤緑の一世代だが、初代アニポケと聞くと大抵の人は金銀編までを思い出すのではないだろうか。
初代アニポケは今とは違い、ポケモンという作品が不明瞭だった事もあり今見ると後では見ることの出来ない独自の世界観、というものがあったりする。
その世界観の肝になっているのが首藤監督なのだが、最も考えが強く出ているミュウツーの逆襲が高い評価を得ている事は語るまでもない。

ただ、ポケモンが長く放送されるにつれて、彼が作りたかったポケモンと世界で求められるポケモンが違っていったのも事実であり、事実金銀編の途中で彼は降板し、今のような(と言ってもサトシ編は終わったのでだった、が正解だが)サザエさん時空のサトシが誕生した。
アニメ版は良くも悪くも氏の独特の雰囲気は薄れ、彼の物語だと超序盤にてサトシの成長は終わってしまったのだが初代映画版はそうではなく、初代五作は一つのテーマの元作成されている。

最も、首藤監督が作成した映画は初期三作品、その後は園田監督による映画になるので正確には初期三作品のテーマを最後の水の都で回収した、が正しいのかもしれない。
なので今回は初期三部作のテーマに触れてから、その後水の都に振れるとする。なので水の都だけ読みたい方は目次から水の都まで飛ばして頂きたい。



まず初期映画について語るのに大切なことはミュウツーの逆襲であるが、初期映画に必要な要素はミュウツーの逆襲に揃っている。ここでは映画版を見たという前提で描いていくが、万一見てない方、忘れた方は見直してから読み勧めていただきたい。

ミュウツーの逆襲のテーマは自己存在であり命、がテーマである。
ミュウツー自体が破壊の為に生み出され(裏設定だとアイツーの為の実験体なのだが、正直ここでは些細なこと)、別に望まれて生まれた訳では無いのだがその事に嫌気が差してロケット団を抜け出し、人類への復讐の為に映画本編と繋がる。
途中ミュウツーがコピーポケモンを生み出して、本物はどちらかを決める戦いになるのだがその途中サトシは石になる。
この石になる事自体、様々な解釈があるのだが監督は自己矛盾の結果石になった、と語っているがじゃあ何で石から元に戻ったの?とは書かれていない。
なので結果的にこれは死に近いダメージを負ったものの奇跡的に生き返った、としか捉えられないのだがまあ一番大切なところはサトシは一度死んだ、という訳である。
ただ、ここでサトシを生き返らせたのがアイの奇跡だと考えるとこの映画から5作目までが驚くほどしっくりと一つのテーマで表すことが出来る。

ここで一旦アイの事を考察するが、首藤監督の裏のテーマは家族愛だと私は思っており、そこに付随して全てを赦せる優しさだと私は考えている。
ミュウツーの実質的な母親はアイなのかもしれないが、ミュウツーはその事を忘れていた。だからアイが伝えたことをミュウツーは忘れていて、本編のような行動を行なったのだがサトシが死亡した事により、皆は涙を流したわけである。ここで冒頭のアイとミュウツーの会話に繋がり、その事に全員が気付いた結果奇跡は起きて、サトシは生き返った。
この作品のテーマである、自分とは何かについて、本物と偽物についてアイは気付いていて、それを踏まえてみると最初の会話が一つの正解という訳である。

生きていることは素晴らしい、これはここから全ての映画のテーマであり、2つ目のテーマが優しさである。
ただ、これは逆説的に言えば死んでしまえば終わりであり、赦すほどの優しさが無かったら成り立たないのである。
ミュウツーは人類への復讐を辞めたしミュウもコピーを赦した、一種の優しさでこの映画は成り立っており、そこにサトシ達は関わっていない。

悪く言えばこの映画はポケモンの目線で全てが書かれており、最後に記憶を消されていることもありサトシ達への関与は薄いと思う。

この映画は悪い意味で未完成でありサトシ達がそのテーマを理解する事はないわけである。
根本的な話としてサトシからしたらミュウツーが復讐する事もどうしてコピーが存在するか赦せないかも理解できないわけで、結局理解できないから最後に記憶を消したのかもしれない。

まぁ、ミュウツーの逆襲は私が考察しなくても先人が既に考察しているのでそちらを読んでいただきたい。

最もこのテーマは後にサトシも直面することになる。そして二作目へと続く。

ルギア爆誕は一作目の内容を発展させつつ、全体的に対比という形で映画が作られている。
正直な所テーマが伝わりづらく、よりにもよって前作のテーマがどスレート過ぎた為に余り伝わってはいないものの、しっかりと読み解くと監督の意思はこの映画にも引き継がれている。
サトシからしたらこの映画からが本編なのである。

前作のミュウツーは閉じた空間にてどちらかが本物かというテーマで争っていたが今作は兎に角開けた世界で共存というものがテーマになる。

この兎に角開けた世界が好きで、私は二番目にこの映画が好きなのだが、世間的な評価は微妙…。
また、没プロットを踏まえて内容を見てみると所々に幻の三作目に繋がりそうな描写は多々ある。
最も三作目は売れなさそうだから、という理由でお蔵入りになったのだが…。

前作がポケモンを中心としてサトシ達が蚊帳の外、だったのだが今回はサトシ達が中心として話が描かれていく。
特に今回の映画のキーはロケット団と言えるかもしれない。前作は悪い意味でミュウツーとミュウ、サトシで完結していたが今回は名有り登場キャラほぼ全員それぞれの役割を持っていて、首藤監督の目指した共存というテーマが随所にうかがえる。
ちなみに、監督の共存は普通と違っており、引用させて頂くが
自分の自己存在を尊重し、自分の思い通りの生き方をして、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きているということなのである。
だそうである。
これをそのままルギア爆誕に当てはめると、まずポケモンと人間の2つに分けられ、作中ポケモン達も何かせずにはいられない、というように世界の危機だから自分勝手に自分なりに救おうとしているのである。
そして人間側は監督も言っているようにロケット団がかなり自由に、主役のように動いている。

特にロケット団とカスミはこの映画だとかなり目立っていて、ロケット団は第二の主役と言ってもいいしカスミはヒロインと言っても良いかもしれない。
カスミは好きじゃないのにサトシの事が気になるし、ロケット団は世界の危機なのに自分たちもなにかしたいと我儘で動いている。
更にサトシのママは危険な中サトシを救いに行こうとするし、本編に出てくるキャラは全員が自分勝手に動いて、世界の危機と向き合っている。
ただ、それが良い意味で人間らしさを出しているのが、この映画の面白いところでそれぞれが普段の役じゃない位置に配置されているからこそそういう心情の変化が書けているのである。
特にサトシが世界を救うのに少し躊躇しているのは、初期映画だからこそなのかもしれない。それが等身大の人間として描かれていて、よく出来ている。
カスミも好きじゃないけど気になる、と初期の頃の設定を感じさせつつもここでサトシに死なれたら困る、と本編では見られない会話を見せているわけで。
特にロケット団は普段ふっとばされて終わりなのにこの映画では悪役を超えて主役と言ってもいい立場になっている。
普段ならもっと飛ばされているのに今作では手を離す時やたらかっこよかったり、と監督の自分の自己存在を尊重(あくまで悪役)し、自分の思い通りの生き方(それでも主役になりたい)を最も体現している。

そして本作の悪役ジラルダンはこれを悪い意味で表していて、大人たちの行き過ぎた個人主義の功罪という本作のもう一つのテーマも表している。
最もこのテーマは薄れてしまい、後の4作5作でより深く回収されるのだが、取り敢えず今作の裏テーマはこれである。
まぁ、正直な所本作ではこれを切り離して上の共存だけ、に焦点を当てたほうが深く楽しめるのだが…。

本作の最後、サトシのママのセリフは次の映画に繋がる重要な台詞である。
「サトシ!見てたわよ!なんて危ない事するの!」
「世界を救う?命懸けでする事!?」
「サトシが居なくなったら、サトシの世界はもう無いの!
私の息子は、もう居ないの!」
「あなたが居るから、世界はあるの…」
「だよね…ピカチュウ」
で本作は締められるのだが、結局の所世界の危機なんかよりも自分の息子のほうが大切なのである。
これは黄金の太陽の選択肢もそうだったが、最後の最後にこれを持ってくることで世界的には正しいけどサトシのママ的には間違っていた、という事で
自分の自己存在を尊重(サトシの母親)し、自分の思い通りの生き方をして(サトシが一番大事)、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きている(ポケモン達や仲間との共存)という監督の発言を最も体現している人物となる。
最後の最後で親子愛を入れてくる辺り、この映画は抜け目がない。
そして、サトシもそれを理解しているからか反発せずに受け入れる。もう世界を救うのは辞めようと思った…のだが。

ルギア爆誕は正直、ミュウツーの逆襲よりも難しいと私は考えていてまずテーマの共存が作者のコラムを読まないと深く理解出来ないからだと私は考えている。
全てを理解して感想を書こうにも行き着く先は監督のコラムと似たような記事になってしまい、中々難しい。
本当ならもう少し丁寧に書きたかったのだが本記事のメインは水の都なので次の映画へと移る。


そして三作目、結晶塔の帝王 ENTEI(以下結晶)なのだがこの作品、正直な所中々複雑な内容をしており、本作の没テーマを一部含んだ内容となっている。
ここからが私の書きたかった記事であり、漸く本題に入れるわけである。
その前に…少しだけ没になったプロットについて触れておく。
PIXIV百科やアニヲタWIKIを見て頂ければ最終回、テーマ、没になった三作品目の情報が見れるので各々そちらを見ていただきたいのだが
異常の内容を踏まえて前作全前作を改めて見るとまた違った視点で物語が見られると思う。
この三作目、結晶のみは特殊で前二作はほぼ初回通りのプロット通りに作成されたものの本作は変更されたという経歴がある。
ミュウツーのプロットはポケモンの反乱と自己存在への問いかけでありこちらは恐らくテーマ通りに伝わっていると思う。
二作目のルギアだが、こちらはプロットとしては共存であり、ポケモンが独自に動き出す等没三作品目に対しての伏線のようなものが見られる。
そして三作品目、結晶だが随所に没プロットの名残があり、テーマの一つが親子愛であるが、裏のテーマは現実との向き合いである。


結晶をじっくり丁寧に見ると、随所に本作の初期のテーマが現れているのが分かる。この物語(結晶)の主人公はミーであり、ミーが望めば何だって叶う、と作中でも言われている。
この映画、私は没プロットをそのまま打ち込んだんじゃないかと思ってしまい、ポケモンは夢のような存在、というテーマを裏付けているような気がしてしまう。
ミーは作中で経験が無いのにタケシとカスミを倒しているし、これはある意味ゲームをそのまま体現しているとも言える。
また、監督のポケモンは所有物じゃない、という考えも作中のエンテイはそれを表しているように思える。
ピカチュウは所有物じゃなく、ゲームでは石を使ってライチュウになるがアニメ版では意思があり自分の意志でライチュウになりたくない。
ピカチュウである事にアイデンティティを持っていて、サトシのピカチュウだけどサトシの数あるポケモンの一匹にはなりたくない(だからボールに入りたくない)訳なのである。
エンテイもミーの父親としてアイデンティティを持とうと思ったがそれは失敗した。サトシのピカチュウになりたかったのにミーのエンテイにはなれなかった。
これはミュウツーは実在しているものの、エンテイは実在していないという違いがあるが望まれていないのにも関わらず生まれたミュウツーと望まれたのにもかかわらず生まれることが出来なかったエンテイの対比は物悲しい。
最後にエンテイはいなくなり、ミーは夢から現実へと戻り、一歩進むのである。

裏のテーマを先に語ったが、面のテーマは親子愛であり、前作の会話から今作に繋がるとサトシが必死に助けに行くのも理解出来る。
前作ではサトシのママがサトシのもとに向かったのに対して、今作はサトシが向かうのである。
良くも悪くも世界規模の前作に対して、今作は小規模。ルギアとは極端なまでに対比されて書かれている。
悪役も前作は珍しければなんでも良いのに対して今作はエンテイじゃないとダメ。

また、前作よりもキャラが立っていてカスミとタケシはバトルをするし、ロケット団もいいとこ取りで出てくる。

総じて前二作含めて全てをねじ込んでそれをしながらポケモンらしさを崩さない、奇跡のような出来がこの作品なのである。

ミュウツーの自分とはなにか、本物と偽物とはなにかの問に対してミュウツーは本物に勝つことが自分の存在意義だと感じた。
ただしそれは間違っていて、自分が存在すれば誰とでも共存出来る。
自分の存在意義は自分で見つけた。
ルギアでは共存が一つのテーマであり、間違った例としてジラルダンが出てきた。彼は自分のために色々なものを傷つけて世界規模の異変を起こした。

その2つを踏まえて結晶を見てみるとエンテイは最初から間違っていた訳だしミーがやっていた事はジラルダンでしかない。
そしてサトシとサトシのママはそんなミーを赦す事にした。ここでミュウツーのミュウに繋がり、ミュウが赦した事とサトシの赦すが重なるのである。
また、サトシがやりたかった現実と向き合って夢の世界から出て他社との共存はミーを用いて表現したのだった。

エンテイは首藤監督の考えとプロットが重なり、何度見ても面白い(テーマだけでなく結晶塔の美しさやリザードン等、ファンサービス等も盛り込まれている)のだが、今作で終わらずこの物語は水の都まで続き、そこで完結するのである。


続く四作目、セレビィ 時を超えた遭遇だが見ても見なくてもサトシの物語には余り関わらない。
というのも、本作のテーマはルギア爆誕の共存を更に強調した話であり、何とも言えないのである。
良くも悪くも行き過ぎた個人主義の体現者がビシャスであり、破壊された自然は残酷である。
人間とポケモンと自然、この3つはそれぞれ違った世界で生きており、それぞれが生きる世界がある。
ルギアのいっしょに住んでいるから壊してはいけないという台詞は本作を見るとより強く分かるだろう。
壊れたものは元に戻らない、これは水の都に繋がるのだが本作ではこの2つを抑えていれば問題ない。


水の都

そして漸く真打の登場であり、私がこの記事を書こうと思った映画にたどり着いた。
水の都は特に三作目の直接的な続編として作られており、サトシの物語の一つのラストと言っても過言ではない。
初期映画では水の都だけ明確にパラレルワールドの世界となっている。これは私は矛盾等ではなく、意図して本編との繋がりを避けている、と私は考えた。
なので適当にアニポケのスタッフは作ったと思っているが、本当の所は分からない。
ちなみに私がパラレルと考えている理由は以下を読めば納得できると思う。

さて、水の都だがこの作品のテーマは家族愛であり現実との向き合いである。
家族愛だが、兄弟は喋らないものの二作目三作目を見ればどれだけ家族が大切かというのが分かるだろう。

また、本作では常に美しいヴェネツィアの街並みをテーマとしており、これは三作目のこの世のものではない美しさとはまた別の光景である。
映像表現として優れている、と言われる辺り本作のヴェネツィアの美しさは素晴らしい、まるで現実をアニメに落とし込んだかのようである。
そう、ここが大事で恐らく湯山監督はあえて現実の世界を本作のテーマにしたのである。
この現実の舞台をモチーフにしたアルトマーレで、ポケモンと人間は共存しており、美しい水の街並みは自然と言っても過言ではない。
前作の3要素は本作で共存しており、一種の正解のような街が本作のアルトマーレなのである。
ただ、この美しいアルトマーレに怪盗が忍び込んできて…以下は映画の通りなのだが、この怪盗が悪意ある訳でないのがルギア爆誕のオマージュなのかもしれない。
前作のビシャスはセレビィで無くては行けなかった訳で敢えてセレビィを狙ったわけである。
それに対して今作姉妹はジラルダンのように、取り敢えず宝石が欲しかったから。

本作において見せ場は中盤以降だろう、特にラティオスが犠牲になってラティアスを庇ったり、ザンナーとリオンの姉妹愛だったりと立場は違えど家族愛のようなものが見えてくる。

そんな本作においてラティオスは終盤死んでしまうのだが、私はここのシーンにおいてパラレルワールドにしたのではないか、と考えている。
ポケモンにおいて明確に人かポケモンの死が書かれたのは本作が初(セレビィは不明、まぁ結果的に生き返ったのでどちらでもいいのだが)でこの話以降もポケモンの死は長い間触れられないでアニメは進んでいた。
私は長い間、どうしてラティオスを殺したんだろう?と考えていたのだが、本作の一連の流れを見てこれは感動させたいからではない、と考えた。
どうしてもラティオスを殺さなくてはならない理由があったのである。

首藤監督のメソッドに自己犠牲の否定がある。これはルギア爆誕の最後のシーンもそうだが自分を犠牲にしたらその世界は終わってしまう、だから自分を大切にしなさい、という自己保存が物語の根底にある。
これはミュウツーでの石化を踏まえてみると、メタ的な話になるもののとても面白く仮にサトシが死んでしまったら終わってしまうのである。
書いてる私もそうだが、仮に死んだ後に英雄になろうが死んでしまった時点で終わりであり、生きていなければいけない。これは監督のコラムでもそうだが。
生きていることが幸せはミュウツーのテーマだが、5作目ではこれに対する真っ向からの否定、つまりもしサトシがあの時死んでしまったら?というテーマが水の都の裏のテーマになる。

サトシはどこかで自分に死は遠いものだと考えていたわけで、ルギアのサトシのママの台詞もちゃんと響いていたか分からない。まぁ分かっていなかったからこそエンテイで救いに行ったのかもしれないが。
そもそもの話として死が身近なものだと考えている人のほうが少ない、サトシもそうだった訳でこの映画もどこかでサトシは死なない、と思って行動していたのである。
途中水流に飲み込まれたりプテラに襲われたり、ルギア爆誕の時は助けてくれる味方がたくさんいたが今回はほぼサトシ一人結果的に危険に晒されて奇跡的に助かったわけだが。


その後紆余曲折あり、ラティオスは犠牲になり街は救われる。これは小規模ではあるものの、ルギア爆誕と構造自体は似ているだろう。
誰が犠牲になったか ラティオス→ 何を救ったか アルトマーレ
           サトシ           世界
という構造ができあがる。
ルギア爆誕ではメインの英雄だったが、水の都では脇役に成り下がる。見守ることしかできなくなったサトシは初めて、あの時のママの台詞を理解したのである。

そして、この映画はもっと速くに禁じ手を使っておりよくポケモンXYで恋愛が~と叩かれるが、本作のほうがよっぽどあくどいわけである。
ルギア爆誕でカスミはサトシが気になっていたが本作ではその後が書かれて、アンサーとなる話になった。
水の都にてカノンかラティアスかどっちか、の考察は他に任せるとして明確に好意を持った人(ポケモン?)が現れたわけで結果的にカスミにも何か進展が起きる訳で…。
最も本編ではラストシーンなので、ルギアのように嫉妬するカスミが見られる訳では無いが。


結晶にて赦す、がテーマだった、と私は語ったがそれは水の都にて赦せない、になる訳である。
初めて明確にポケモンを殺した人物が現れ、赦せない人間が現れ、彼女たちをサトシが赦すかどうかは分からない。
それはラティアスも同じで、これはミュウツーと立場が重なる訳である。最もラティアスが復讐に取り付かれなかったのはサトシ達がいたから、なのだが。ただ、ラティアスもまた赦せない人間に出会ったわけである。

本作がパラレルワールドにした理由はそれで明らかにサトシに明確な変化が2つ起きるのである。
今まででひときわ大きい成長をし、自己犠牲について深く考える映画。

恐らく本作は現実の都市を舞台にしてポケモンの死について視聴者に共感させる目的だったのではないか、と私は考えている。
ポケモン最終回が現実との向き合いがテーマだとしたら、本作のテーマは上手いこと噛み合っている。
最も現実は…どうだろうね。


サトシの物語としては他人行儀で終わってしまった結晶の補完として水の都が作られたと私は考えているが、実際の所どうか分からない。
ただ、ルギア結晶を踏まえて水の都を見てみるとサトシとカスミという人物の一つの終着点のようにも私は感じる。
長くなったがこれにて終わりとする。


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