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人はなぜ旅に出るのか

私は旅に救われてる。

私の人生が始まったのは、言わずもがな起業前の27歳で行ったオーストラリアでの生まれてはじめての一人旅。そこから私は、何度も一人旅を続けている。一人旅は、一言で言うなら「台無しがない世界」。大熱を出しても、スリにあっても、失敗しても、台無しではなく全てが経験。すべてを他でもない自分が決めて、自分の人生を自分で勝ち得るという、人生の縮図が詰まっている。いろんなことに試して、新しい人生をこの小さな瞬間から始められる、それが私が旅に何度も救われている所以だろう。

自分の人生なのに、誰かや何かのせいにしている日常をいつだって一人旅で思い知る。目の前の人を大切に思うゆえに、相手の要望を汲んで自分で決めないことを重ねている日々を、私たちは忘れてしまう。それに何度でも気づけるのが一人旅だ。一人旅と二人以上の旅行は全然違う。行く場所(WHAT)が大切な旅行と、行く理由…というより 生きる理由(WHY)を模索する一人旅は、旅という名前が一緒だけど別物だ。気がつくと、もうかれこれ3年以上行っていない一人旅を、私という人間は覚えているのだろうか。

今回の旅の始まりは憂鬱だった。2歳の娘を置いて、自分が旅に出るなんて、そんな大それたことを自分が望むなんて。そして、それを決行できるなんて。妊娠した時は、体が18キロも太って、出産は人生で最も過酷な18時間を超えて、育児では2−3時間に一度、2年間起き続けても大丈夫な体になった。子供優先で、どんなに眠くても望まれる限り母乳を辞められなかった私が、1週間娘と離れて奮い立って旅に出る。

航空券取る前も、とってからも、出発の前夜も、出発してからも憂鬱だった。不安だった。明け方、眠ってる英を起こさずに出てきた私は、数時間のうちにその寝顔の残像を何度も何度も思い起こした。大丈夫かなと、起きて何と言ってるだろう、寂しがってはいないかと、眠る英が可哀想で起こさなかったことを、何十回と後悔した。大丈夫だろうかと考える。大丈夫なのに大丈夫でないで欲しいかのように

母親になるということは、人が変わるということだ。だって、子供を産んだ私にとって、命がかかった大きな責任のまえで、私の想いや人生なんて、いくらでも、何度でも捨てることができたから。初めて自分の人生よりも、はるかに大事なものに出会ってしまった。自分の人生を探求することが趣味だった私はどこかに消えた。私は、母親としての自分に出会った。それは、とんでもなく大変で、とんでもなく素晴らしくて美しい、今までの30年間をいとも簡単に超える2年間だった

「ただ、私はこのままどこに向かうのだろう」。そんな疑問が頭にふっと浮かんだのは数ヶ月前。母親としてこの2年と変わらず、これからも生き続けられるほど、私はきっと忍耐強い人間では無いだろう。「あなたのためにやったのに」ということを娘に押し付けてしまう前に、自分のアイデンティティがわからなくなる前に、私は私を取り戻す必要があった。今がそのタイミングだと、ピンときたのだった。昔から自分の勘には天下一の自信があった。笑

そんなこんなで頑張って、やっとの思いで乗った飛行機。生真面目な私は機内で、旅モードになれるのだろうかと気をもみながら、少しだけ焦る気持ちも交えて小説を読んだ。恋愛小説(文庫本を推奨!)は私の旅の必需品で、小説を読むことでいつも私は「自分」という単位の世界に戻る入り口へと辿り着くことができた。本の中には、相変わらず瑞々しい、人間描写の表現があり、悩んだり苦しんだりすることも含めて、人間の感情が美しいなと感じ、次第に心を掴まれていく。

「そうそう、これだった!」。恋愛小説が読みたい、というよりもこれを通してこの、人間の人間にしかない気持ちの揺れ動く様に触れて、生きる実感を感じていたのだということを思い出す。主人公が、誕生日だけは真夜中を一人で歩くという冒頭の描写に、なぜだか涙がこみ上げてきた。私の時間が始まったような気がしたのだ。内容に感動したというよりも、その人間の奥深さと複雑さに触れて、それでも一生懸命に生きる私たち人間を、好ましく思う感覚や感性が自分の中にまだ残ってることにとても安堵した。いつでも物語は知ったかぶりをして、分かったように生きている毎日から抜け出す合図をくれる。

もっと小説を読んで、ピンとくる映画を2本見て、少し眠って、あっという間にヘルシンキに着いた。小説と映画に感化されて、もう私は人生に感動してた。飛行機を降りて歩きながら、来てよかったと、今回の旅で初めて素直に思っていた。

空港を出て、電車で街を目指す。買うチケットに、乗る方向に、毎度のことながら不安になって、電車に乗る。飛行機に乗った高揚感と、空港から出るときの不安のギャップには、多分死ぬまで慣れないだろう。でも、同時に「そうそう!」と思う。旅は、普段の生活の中で不自由なく生きられるようになった自分から抜け出して、たくさんの「不」に出会う。不便、不具合、不味い、不信、不利..いつもは上手に避けているそれらと直面して、何もできない・脚色されてない、本当の自分に出会うのだ。私は旅をするとき、その「不」を取り除かないことを極力心がける。自己解決して、難なくやることは、日常で十分。旅は思いっきり求めて、訴えて、転んで、助けてもらって、ちっぽけな、でも本当の、芯の私をつかんでいく。

空港の外、電車の中は思ったよりもずっと寒くて、ダウンを着ている人すらいた(!)なんでいつも、温度とか気候を調べないで、同じ夏だし!と日本と同じ気温だと信じて旅に来てしまうのだろうと思う。電車を待つ空気は夏ではないみたいで、何の疑いもなくノースリーブしか入っていないキャリーケースを携えて、麦わら帽子をかぶった寒すぎる私は、なんだか笑ってしまうくらい滑稽だった。でもそのこみ上げる笑いが、心を解かしているのがわかる。

空港を出て、電車で街を目指す。どんよりとした天気のなか、見たことがあるような無いような駅いくつも横目に見て、電車はヘルシンキ中央駅に向かう。全体的に風景は暗いけど、実は少し嬉しかった。懐かしい気持ちがこみ上げてきた。以前来たときも、北欧のイメージよりもおしゃれでなくて、なんか全体的に暗くて、私の中で幾つかの分野の世界一の称号もとっているのに(美術館KIASMA等)、第一印象が良いタイプではない存在だった。だから、「おまえ変わってないな」とクラスメイトに思うみたいに、なんだか安堵したような気持ちになった。創業から数年経った同じ季節の夏に、私は一度北欧に来ていた。あの時から5年近く。新しい自分でこの場所に来れていることが嬉しかった。そして、その後変わっていないはずのクラスメイトは、燦々に太陽を浴びて輝いていた。その街を私は、懐かしむように、初めて出会うように、3時間以上も歩き続けた。

旅とはなんだろう?旅行と何が違うのだろう?旅とは何かを探求しながら、旅の最初の目的地に向かうのが、気づけば毎回の一人旅の暗黙のルールにも思えてくる。「自分に出会うこと」と、その回答は決まっているのだが、この恒例行事のおかげでその精度は上がっているように思う。今回、私は何に出会うのだろう。どんな自分だったことを知るのだろう。何かを見ること、どこかに行くことが目的ではなく、そこで何度でも忘れてた、自分に出会うことが旅の目的

そう思うと、すべての景色が、すべての人が、良いも悪いも合わせて、教えてくれるきっかけになる。旅をしていると、だから「なんで?」とか「嫌だな」とか思わないのが不思議だ。自分が心地いいことを求めているのではなく、自分を知るため旅をしていると、全ての事柄がヒントになるから。だからじっと周囲を見つめる。電車の中で景色が近づいては遠ざかっていく。旅をするように、好奇心と肯定に富んだ目で、世界を見れたら良いのに、と思う。

どこかで後回しにしてきた、自分との時間。思いっきり自分の声を聞いて、自分が見たいものを見て、できたら最高ということを、したいと思う。せっかくだもん。誰かの、は一切なしでね。私の旅の始まりの笛が鳴った!

noteは大切に更新しているので、山川咲のinstagramの投稿とストーリーから旅の様子やハイライトはどうぞ!


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