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それは旅だった。5年の、そして人生の。

このノートは2019年10月4日に書いて、ひっそりとしまってあったものです。


涙が止まらなかった。ただその空間に入り、植物を眺め、ただ数分の映像を見ただけなのに。そこにあったのは、何なのだろう。

フローリストTSUBAKI5周年のエキシビジョン。駐車場が3つも満車で、随分と遠いところに止めた駐車場から、約束された時間に少し遅れて会場へ向かう。TSUBAKIがある、あの通りを見るのが好きだ。住宅街の一角に、ふさふさと緑が揺らぐオアシスみたいな異次元の場所。「今日は風なんて吹いていただろうか」という日でも、入り口で柳の木が風に吹かれて揺れていて、その光景に私は人間としての自分、というものをいつでも気づかされるのだった。

変わらぬその庭を思わず写真に撮って室内に足を踏み入れると、一般的な展示会で感じるような「綺麗」とも「すごい」とも違う、もっと静かで、もっと力強い何かを感じた。生けられた大きな枝、というかもはやちゃんと木に見える柿の木が、すごい生命力でその空間に立っていた。

最初は、息が上がっていたのでそれを沈めたいという気持ちもあり、一番奥まで行ってそこに生けられたみかんの実がついた枝たちを見た。そうするとTSUBAKIの山下さんが奥からそっとでてきて、よそ行きの笑顔で「ありがとうございます」と言いかけて、「あれ、咲ちゃんこの時間だったっけ?」と、超フツーモードで言った。その顔に思わず、「え、ちがったっけ?」と私も、心が震えるモードから一変。いつもみたいにやりとりをして、顔を合わせて笑った。

私はTSUBAKIを立ち上げた山下郁子を、やまぴーと呼んでいて、勝手に親友(戦友の方が近いのかな)だと思っている。今年のエキシビジョンの招待をもらって、何かプレゼントを贈りたくてLINEしたら、「本当に咲ちゃんが来てくれるだけで嬉しいんよ」と返事をくれた。それがただの建前ではなく心からの本音だということを私は知っている。出会いから、5年ちょっと。

初めて、CRAZY WEDDINGの創業期、時を同じくしてやまぴーも独立するかしないかの時に、一緒に仕事がしたいと問い合わせをしてくれて、たまたま私が会って、この人とと何かを作りたいと思わせてくれた人。とんでもない要望に、「まじかよ」と言いながら、一緒に同じ熱量とストイックさで、物事を一途に生み出してくれた人。年上で、尊敬してて、でも色んなことを乗り越えすぎて家族みたいなその人の節目に、また立ち会えた喜びがふざけたやりとりの中でもこみ上げる。

結局、呼吸も整わないうちに、やまぴーに勧められるがまま私はその会場にある、「TSUBAKIの場作り」という言葉から始まる映像を見た。なんか意外だった。この人たちが映像を見せるというのはとっても珍しいというか、想像してこなかったことだったから。TSUBAKIを夫婦で営み、その代表の旦那のけいしくんが椅子を持ってきてくれて、少しずつ時間制の展示にきた人たちが、2階に上がりだしたその空間で私はその数分の映像と、一対一で向き合うことになった。

TSUBAKIらしい余白のあるテンポの、美しい音色にのせて、TSUBAKIが最近活動をしている千葉の茂原という場所の古民家で、池を作り、倒木に並んで座り茶会をし、そこにある植物を自分の手で連れて帰り玄関に飾る様子が描かれていた。彼らが、汗だくになって作業して、草木に触れて、作品を作るその映像の後半から私は、涙が止まらなくなってしまった。なぜだかわからなかった。ただただ、その彼らが眩しくて愛おしかった。

そして、気がつけば最後の一人としてその場にいて、「なんで泣いているのよー」と言われながら、やまぴーとハグして、彼女も結局一粒もらい泣きしてて、笑いながら騒ぎながら、2階に上がった。二階は茶寮に設えられていて、大きく生けられた木の下に8つの席があった。茶寮といっても、お茶とお菓子を、というよりも「呼吸と季節を感じようとする営み」が提供されるような空間だった。そこで、お茶の前に、けいしくんとやまぴーがそれぞれ8人のゲストに対して、多くない言葉を語った。

その光景をみながら、私は心底この人を頼りにしているのだと思った。頼りにしてきたのだと思った。これまで、ここだけはと思う瞬間の全てにやまぴーがいた。大きなクレームをもらった現場、今までのものづくりと一線を越える御殿場の現場、コンテナに作った「苔生す」という初めての結婚式のアート作品、情熱大陸の密着、私の妊娠出産を描いた「うまれる」の個展、そして表参道に7年目に初めて持った空間であるIWAIの立ち上げ。

そのどれもで、私はここ一番の勝負のタイミングにやまぴーに声をかけ続けてきていた。そしてそこに命をかけて、私以上の基準でそこに向き合ってくれる一人の女性がいた。そして、会社や事業を超えた自分自身の人生に寄り添ってくれた人がいた。それが、やまぴーだということ月日を経て、また気がついたのだった。

あの日、TSUBAKIのやまぴーとけいしくんの結婚式でCRAZY WEDDINGを選んでくれたこと。あの日、切迫早産で入院した病院に花を届け続けてくれたこと。あの日、「もし子供が生まれたら「はな」という名前にしようと思ってたけど、子供はもう作らないかもしれないから、その名前を咲ちゃんにあげる」と伝えてくれて、私が本当にその名前を娘につけたこと。あの日、まだ何もないIWAIの構想に何度でも自宅で付き合ってくれたこと。

そして、今もTSUBAKIが感じるその季節、その日に最も美しい植物を日本中から探してくれて、IWAIの参道の向こうに毎週毎週、絶えることなく生け続けてくれているのだということ。

「もう5年間かぁ。」二人が話すのを聞きながら、たくさんの「あの日」を重ねて、私たちは随分遠いところにまで来たのだと思う。そして、なおも今日、エキシビジョンも2日目なのに、始まる5分前まで汗だくでさらに何かを作ろうとしていた、TSUBAKIの変わらぬ執念とも言える、「生きとし生けるものに向き合い、それを表現しようともがき続けるその一途さ」に私は涙が止まらなかったことを、やっと知った。

いい作品を作るとかそういうものを超えた、深く人間に・生き物に、迫ろうとする気迫と、今という瞬間美ではなく「生きる」ということに覚悟を持って腰を据えているその余白...私はこの人たちを、仕事を超えて同じ人間として、いや同じ生き物として、信頼しているのだと思った。

ほどなく、同じく千葉県茂原の庭でとってきたという、柿の葉に載せられたおしぼりがそっと出てきて、お茶会が始まった。喉を潤すためには到底なりえない、小さく繊細な器。そこに、ゆるりとした温度で優しく淹れられたお茶を何度も飲む。そこにある音や味や時間に寄り添っていると、ふと幼い時の記憶が蘇った。

このエキシビジョンでいけられている、茂原の古民家の庭にあった、柿、みかん、稲、ススキ。実は茂原は実家のほど近く。幼い時何度も親の友人たちがいるこの土地にも遊びに行った場所であり、その古民家の様子は先ほどの映像も手伝って目に浮かぶし、その光景はほぼ私の実家だった。

幼い時に忌み嫌った、自分の境遇。親に連れてこられた土地で、よそ者として扱われ、この場所が憎くて、どうにかここから抜け出したいと願った日々。そこにあった、庭の柿の木、父が耕していた田んぼ、登下校に撫でて歩いたススキ。

「柿の味が 夕日の赤に 熔けている」という俳句で小学生の時に賞をもらったことも、スーパーでは見ないような真っ赤な柿の身を見て思い出した。嫌いだったものたちを、今の私が美しいと思うことが不思議だった。否定し続けた幼い日の懸命な私がむくわれていくような気がした。

「命に向き合い、命をかけて、命を表現する。」


私は旅をしてしまった。彼らと過ごした5年、そして私の36年間のルーツを。TSUBAKIのエキシビジョンを見に行って、そこで彼らの創業からこれまでの日々と、そこに一貫したTSUBAKIの信念と気概を見たような気がした。命に向き合い、命をかけて、命を表現する。ただ命に向き合うだけならば、森の中で暮らせばいい。ただ命をかけるなら、どんな分野でもいい。でも彼らは、命や何か偉大なものを追求して表現しようともがき続ける。私たちはぜんぜん違うけど、その命へのひたむきさが私たちの共通点なのだと、この2時間弱の、長い長い旅の終わりに私は思った。

5周年、おめでとう。
世界で一番私の人生と共にあるTSUBAKIへ愛を込めて。

伊藤徹也さんの写真をお楽しみください。

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