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書くとはデトックス。救い。そして生きること。

夜明けに家を出て、今はもう平和で明るい大阪に向かう始発の新幹線の中。いきなり決まった出張にぽっかりと空いた忙しいはずの朝に、「書こう」と思い続けるのをやめて、今日「書く」と、腹を決めて、今に至る。

書くことが私にとってはとても大事。でも、書くことに助けられてきた私は最近、書くことにブランクがある。子供優先で時間が取れない。時間がぶつ切り。仕事で集中できない…と言い訳は色々あるけれど、私にとって書くことは生きることにも近しいから、それ=生きること を欺くのはやめようと思った。最近は書きたいなと思いながらも、胸の奥とか、ノートの隅とかに、残ったままの言葉たちが多い。でも、ある人と話してnoteを書くことを決めたので、世界へ向かって(誰かに見せるための表現としての)文字を綴る。書くことは救い。そんな風にさえ信じているから。

書くことは、自分の思考を整理するとよく言うが、私にとってはデトックスだ。AかBかCかを決めるにも確かに書くことで整理がつくのだけれど、脳内を本当の意味で占拠するものは論理で解決できるものではなく感情だ。私にとっては、自分の気持ちに嘘をついていること、自分が我慢していることが、人生で最も大きなストレスで。でも、誰しもに、そういう瞬間ってある。それを繰り返して自分が何者かわからなくなることもある。だからこそ、「親だから」とか、「大丈夫」と前向きに捉える中で、無視したり我慢させた自分自身と、「書く」という行為を通して向き合うのだ。世界で誰も理解していない私を、私自身が理解してあげられる。だから、書くことはデトックスであり、言いすぎると救いでもあると、私は思う。

じゃあ一体どんな風にどうやって書いているの?という質問に対しても、私の中ではセオリーがある。基本のスタイルは、一部始終の行動を回想して徒然なるままに付随する思考も感情も書く、というシンプルなもの。30分程度の出来事を書き出すだけでも、少しの時間を作れば書くデトックスができる。例えば、家族で温泉宿に行って、1人で起きて朝風呂して、長くお風呂に浸かって、のぼせて帰ったら娘が泣いてたとか、他愛もない出来事でも、回想して細かく書いていくと、いろんな思考や感情や本音が現れてくる。例えばこんな具合だ。どうでもいいことも含まれているが公開。

私のいつかのノート(手書き派です)”朝こっそり起きて、まだ暗かった。私は明けない朝と、暮れかけた夜が好きだ。光が生み出す景色が移ろう時間、太陽が移りゆく時間が好きだ。だから急いで、でもこっそり布団から忍び出る。息を潜めて、布団から出ようとし、娘の息が乱れるとピタッと体の動きをを止めて、娘の様子を凝視する私は滑稽だ。1人でお風呂に入るたった20分やそこからの体験をこんなに必死に求めていることは、もはや面白いし可愛い。笑 でも、それくらい毎日は選り好みなどできず、絶え間なく娘と一緒で、機嫌が悪ければ永遠に抱っこを求め泣き叫ぶ娘との時間は、控えめに言っても過酷なのだと思う。自分のことなんて考える暇さえないし、寝る時間だって、好きな食べ物だって、全ては子供中心に変化した。もちろん、喜びは大きい。なにせ、愛されているんだ。命懸けでこの小さな人は私を求めている。私がいなきゃ死んじゃうのに、手放しに微塵の疑いもなく、いつでも私を待っている。そんなに求められる経験は、誰しもにとって初めてで、その想像を絶する喜びに疑いの余地はない。でも、そこにある苦労や葛藤もまた、人生初体験のレベルなのだと実感する。そういう拷問が存在したほど、人が一定の時間毎に起こされ続ける夜泣きは、人が死んでしまうくらい辛いことだそうだ。妊娠中、夜に目がさめるのは、その後の育児で夜泣きを経験しても死なないためだと産婦人科の先生に言われたことがあった。私は今疲れている、と私は認めた。疲れてる、眠い、一人になりたい。うーん、我慢しすぎてたと思う。思い返すと、育児の最初の頃の葛藤は、辛いと認めたくないことだった。今でもそれは少しある。こんなに可愛い存在を育てているのに、辛いとかいうなんて人道から外れた気持ちなのではないかと、自分を軽蔑した。泣き止んでくれと願っている私は、泣き響く声を聞きたくないと思っている私は、育児放棄してしまうのではないか。1人で生後間もないほわほわした宇宙人みたいな赤ちゃんと向き合いつづけた日々は、記憶がないほど過酷で、でもこの上なく幸せで、いろんな感情が詰まった極端な日々だった、と思い出す。正味30分にも満たない時間。大自然の川の音を聞きながら、足を放りだして、鳥の声を聞いていると妊娠して、出産して、忙しく子育てしてる全てが嘘だったのではないかと思ってしまう。そして、現実逃避している間に、また現実が少しづつ恋しくなる。もう少しここにいたい気持ちと、もう今すぐに帰りたい気持ちに駆られる。大浴場から部屋に帰ったら、廊下から赤ちゃんの泣き声。案の定娘は大泣きで、一気にド現実のみの世界に舞い戻るのだけど、こういう30分がお母さんを救ってくれるのだと思う。私は逃げたい現実ではなく、帰りたい現実の中で英を抱いている。”

人はずっと何かを考えながら生きている。こういう風に日記みたいにダラダラと起きたことを書いていると、行動をトリガーにその普段の思考が溢れ出してくる。それはもはやその時に思っていたこととも限らなくて、思いだす中で思考が創発されて、感じたことに対して、思っていることや「そういえば」とかを書き留めている感覚。これは枝分かれすることもあって、同じシーンでも書いている途中で、

子育てに疲れているんだなとか、1人になりたいんだなとか、でも家族がいなかったら何もないんだ、お母さんって偉大。それなのに最近感謝できていないな。親は考えてみれば、ほぼ自分自身だ。だからお母さんを嫌だと思う瞬間が、こんなに苦しいんだ。

とか、違う方向に枝分かれしていく可能性もあって、そのシーンで考えていたことももちろんんだけど、書いているうちに、いつも考えている取るに足らない、けれど自分の頭を占領していることや、無意識に自分を取り巻いているものが見えてくる。男性ならそれを解決したいと思うかもしれないが、どうしても解決したいものはもちろんするけど、ここに出てくるのはどちらかというと、思想と思考だ。解決するというよりも、それを知り、そっかそっかをと思ってあげるだけでも十分だと思う。自分を知るために、認知するために私は書き続ける。自分自身を捉え続けるために。

自分を知らないということは、これからの私たちにとってとても危険なこと。この忙しくて、情報が多い世界の中で、私が私自身と仲良くすることが欠けている、と私は思う。テレビがあれば幸せ、昇進すれば幸せ、家が買えたら幸せ、などというみんなが同じ幸せの尺度を持つ時代は終わった。幸せは自分が決める時代、私でいえば100年ライフの今、あと70年近くも生きていく。自分を知ること、自分を好きになること、以上に価値があることが世の中にあるだろうか。だから日常のシーンを追体験して、書くことを通して自分を知っていくという行為は、誰もが自分を探しているこの時代において、「生きること」にほど近いのではないかと思う。

「今」、というくくりの中だけでは見えないものが確実にある。だから回想し、そこにある、というか今だってあるけど見えていない気持ちをみたり、現状を捉え直すストーリーを知ったりするのが、書く効用である。

CRAZY WEDDINGを始めて6年。このブランドは私がこんな風に自分を観察し、人間を見つめるトレーニングを経て生まれたブランドなのだと思う。死ぬ時に自分の人生を振り返って、「この人生でよかった」と人が思えることに、私は賭けたい。だから、結婚式という事業にたどり着いているのだと思う。その原点には、私自身の自分の人生と向き合い、逃げずに理解して、仲良くなってきたという私の半生をかけて繰り返してきた、「書くこと」がある。

今だけを重ねていく人生は、良い出来事と良い感情でないと良い人生にならない。でも、反芻し自分に向き合う人生は、出来事の云々に振り回されずに、いろんな局面から唯一無の自分を知り、自分の人生というたったひとつの物語を生きていくという、人間の生きる目的を助けてくれる。だから書くことは、デトックスや救いを超えて、生きることと同意なのだ。それにこのnoteを書いていて思った。やはり書くことに私は、与えられ続けている。

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