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O mio babbino caro(私のお父さま)③

怠けものの私であったが、
高学年では何度かコンクールにも挑戦し、予選は通過した。
本選で賞を頂いたりもした。

緻密に練習ができるタイプではないが、手が大きかったことと、
たぶんピアノが好きだった。

練習は大嫌いだけど、
こう弾きたい!
というのは子どもながらにしっかりあったと思う。

時々、理想が高すぎて苦しかったりもしたけれど。




父は、戦争が終わり満州から引き上げてきてから、自身の身体が弱いのを何とかしようと、陸上を始めたそうだ。
中距離と投てき。
若い頃は町の大会で優勝を争うまでになっていた。 


私が中学生になった時、ピアノの先生に、「スポーツ部は絶対ダメよ!」
と言われていたが、父は反対しきれずにいたようだった。

私はスポーツが大好き。
先生にナイショでバスケに入った。


1年生のある日曜日、高熱を出し、
部活を休んだ。
なのに先輩から電話があり、熱くらいでサボってないで出ていらっしゃい!と呼び出された。
怖くて有名な目の釣り上がった今でも忘れない、千秋先輩。

ふらふらな状態で学校に行き、パスの練習していたところ、
千秋先輩から豪速球パスが来た。

左手の小指と薬指を骨折。
全治3ヶ月だった。

3ヶ月後、コンクールを控えていた。ピアノの先生はもちろん大激怒。
怒られ、罵られ、これは終わったな…
と思った。

父はその日からしばらくは何も言わなかった。
骨折をいいことにそのままピアノからフェードアウトすることもできたのに、早く弾きたくてしょうがない自分がいた。

2ヶ月経った頃、勝手に固定されてたものを外し、指が曲がったままピアノを再開した。

    ◇◇◇◇◇

中2のある体育の時間、砲丸投げで陸上部の子より記録が出てしまった。
父の見様見真似で投げたらたまたま遠くまで行っただけのことなのに、
陸上部でもないのに、砲丸投げで市の陸上記録会に出ることになってしまった。

父は大喜びした。
選ばれた日から毎夕、近くの高校のグランドに行き、砲丸投げの特訓が始まった。
ビギナーズラックなので
記録が伸びるわけもなく…

大会はもちろん予選敗退。
この時に買ったマイ砲丸、今も大切に持っている。

本当に…私のお父さん、星一徹みたい。
私はよく泣いた。






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