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ちょこっと勉強「大津皇子」①

 これからはまた、ほんの少しずつ勉強していきます。
 二人目の悲劇の皇子ということで、「大津皇子」が紹介されました。


天武天皇と大田皇女(姉)の子供が大伯皇女(姉・斎宮)、「大津皇子」(弟)
天武天皇と鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ(妹・持統天皇)の子供が草壁皇子

 姉妹で帝の奥さんになることは当時の風習として普通にあったことです。権力の元に集うと、たとえ兄弟姉妹の間であっても、争いが起きるのは仕方のないことです。

 姉が生きていればおそらく「大津皇子」が次帝として、東宮の位に立っていたかもしれないですよね。

「大津皇子」の母親・大田皇女は大津皇子が5歳の時に亡くなっているということです。

 妹にも皇子がいます。皇后になりました。

 天武天皇がなくなりました。

「大津皇子」の波乱の人生はやっぱり悲劇の中で幕引きとなります。
私の中では胸糞悪い話ではありますが…。それはこれから少しずつ、歌と合わせて吐き出していきます。


脱線。

 たまたま思い出すことがありました。
 女性天皇は独身であると、聞いたことがあります。

 それは間違いではないことがわかりましたが、正確では無いということもわかりました。
 旦那が死んで、次の帝が立つまでのつなぎとして、未亡人となった皇后がその座についていただけではなかろうか?その時に自分の子供に男皇子がいるなら、次の帝にしてしまえばいい。他の女御の子供にとても優秀な男皇子がいたとしても、権力に物を言わせて自分の子供を後釜に付けることは可能な立場です。


 万葉の世界をひも解いていけば、自然と創作の世界が広がるなと思いました。なぜなら、その世界そのものが物語に富んだ世界だからです。
こういう世界は嫌いだけれど、大嫌いではなく、好きではないけれどちょっと好きかも知れません。

 持統天皇は藤原京を造営したといいますが、もしかしたら、旦那だった天武天皇も持統天皇も、政争に巻き込まれて死んでいった者たちの祟りを恐れていたのでは?


写真は本内容とは関係ありませんが、今日撮ったものです。







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