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③ジム・ブルートンさんの臨死体験

ジムさんインタビュー、とりあえず最終回です!いやー、ジムさん訳しづら〜〜🤣!!!
言い回しが非常に独特なんです。でも実に有意義な内容の詰まった動画です。頑張りましたよ、わたし。

元のインタビュー動画はこちら→ https://youtu.be/gE7o6DDXFFs

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インタビュアー:
ジム、あなたの経験についてもう少し質問してもいいですか?

ジム: どうぞ。

インタビュアー:
〈狭間〉であなたに話しかけてきた声の主が誰か、わかっているのでしょうか?

ジム:
ああ、確かに私よりものごとをよくわかっている存在だね。
面白いことに、みんなとは言わないまでも、多くの人は、それは神だと言うのを聞きたがるし、本当に多くの人が、それはイエスだったと私に言って欲しいんだ。神か、そうでなければイエスだと。

しかし、私はそれを特定する必要性は感じていないんだ。単に真理としてしか認識していない。そして、これが重要な点だと思うのだが、それは私の心に響く真理である必要があった。

「私は神である」とか、「イエスである」とか、単にその存在がそう言っているからというだけの理由で心に響くわけではない。もしそう言われたからそれが真理なのだと考えるとしたら、まったくひどい理由だ。私は、神がそれを望んでいるとは思わない。

自由意志を持つとはそういうことだ。そのために私たちに自由意志が与えられたのだと思う。できるだけ自分のフィルターにかけずに、私たち自身の真理を観て、聴くことができるようになること。そして自分が正しいと感じることを選択すること。

自分で選択するとは、神に言われたからでも、イエスに言われたからでも、ブッダやムハンマドに言われたからでもなく、正しいことをするのが正しいと感じたからなのだ。

それは複雑な数学の問題を解くのと似ている。正しい答えを求めて解くんだ。そして、正しい答を求めて解くということは、ある程度の自己放棄を伴う。エゴではなく、自己への奉仕でもなく、他者への奉仕のために人生を捧げる。

そして、神聖な存在、神と言ってもいいが、それは私たちが私たち自身で発見の感覚を味わうことを心から楽しんでいるのだと思う。

子供にパズルを与えても、親がそのパズルを解いてあげるわけではないだろう?彼らがパズルを解くのを見守り、彼らの思考がどのように働き、パズルを解き、おもちゃを組み合わせたり、人形に服を着せたり、ツリーハウスを作ったりするのを見て喜ぶのだ。私たちは、彼らが発見する経験を通して、彼らを知りたいのだね。だから、ここでもそれと同じことが言えると思う。

それは進化したバージョンの自分自身を見るということかもしれない。でも実際、形而上学的なことを言えば、私たちはすでに神と一体なんだ。ただ、自分が理解し、コミュニケーションできるバージョンの神と話すだけなんだ。私たちはすでに神と一体であるのだから、それ(声の主)が高い次元の自分自身であろうと、最高の次元の神であろうと、ほとんど問題ではない。

実際、神は私たちのもとに降りてきて、私たちのレベルで語りかけてくれるのだ。
〈狭間〉で機械的なモデルが使われたのは、物を作ってきた私に合っているからだ。
私は飛行機を作ったことがあるので、歯車やメカニズムといったものを理解している。それが卵の中に収められていて、これは「未来」が「今」に産み落とされるものだと言ったのは詩的な表現だった。私にとって意味が通るやり方だったんだ。

インタビュアー:
素敵な答えだと思います。ジム、あなたが卵から取り出した選択肢(歯車が表していたもの)を覚えていますか?

ジム:
いや、それは重要ではないと言われた。だがさっき話した2つのことだけ覚えている。そのうちの1つは実現した。それは奇妙なものだったけれど、とてもいいものだったよ。ほんの一瞬だったけれどね。でも、もうひとつはまだ実現していない。それは、遊園地での孫とのシーンなのだが。

そうだね、でも確かに、未来を予想して、どれが未来に起こる確率が高いのか、どれがそうでないかを知る直感が高まった。そのため、自分にとって都合の良い結果が生じる可能性を高めるために何かをする必要がなくなった。

ものごとが起こる流れを導くのは、ほんのわずかなガイダンスや、ちょっとした言葉であったり、少しの後押しであったりする。しかし、そのプロセスをリードするためにこちらから必要な介入はほとんどない。そしてすでにそれが起こるのを予期しているのだから、準備はできている。

インタビュアー:
ある時点で、「誰も救いに値しない 」と〈声〉に言われましたよね。救いとはどういう意味でしょうか。私たちは何からの救いを必要としているのでしょうか?


ジム:
そうだな、やはり、この世に私たちを縛りつけている鎖からの解放を指しているのだろう。悪い選択をすれば、その鎖の重圧を背負わなければならない。窓の外に目を向ければ、たくさんの人が鎖につながれているのが見えるだろう。救いとは、鎖を背負うことから解放されることだ。救いとは最終的に、この世への執着を減らす方向への導きだ。ここは私たちの本当の家ではないんだ。私たちは皆、ここをただ通り過ぎるだけなんだ。

例として、キリスト教の歴史を引き合いに出してみよう。ユダは狂信者だった。そして狂信者たちは、来るべきメシアがどのようなものかということに関して、軍事的な想定をしていた。彼らはメシアがやって来て将軍になり、ローマ人を追い出してくれると思っていたんだ。もしあなたがローマ帝国の支配下に住んでいたなら、そのような予言を信じたくなるのはごく自然なことだっただろう。

ユダはある日、イエスに言った。「あなたは死者をよみがえらせ、盲人を癒し、飢えた人を養うことができます。ローマ人を追い出すことくらい、何でもないでしょう!」と。

イエスは文字どおり、この世は常にくだらないものであったし、これからも変わらずずっと、くだらないものであろうと言った。「私は世界を治すためにここに来たのではない。あなた方を治すために来たのだ。その中にはローマ人も入っている」と言ったのだ。そして何が起こったかと言えば、それから352年後、第一ニケーア公会議でローマ帝国がキリスト教を採用することになったのだ。

インタビュアー:
ワーオ!そんなふうに考えたことありませんでした!

ジム:
そういうことなんだよ。これは世界の本質と救済の意味を物語っている。一度に2隻のボートを漕ぐことはできない。どちらかを選ばなければならない。そして選択は、一瞬一瞬行われているんだ。この宇宙がそうであるように。神が一瞬一瞬、存在せよと意志するから存在するのだ。

インタビュアー:
善悪は私たちがコントロールできない変数だというのはどういう意味ですか?

ジム:
ああ、たいていの人は、善悪は法律によって定義されたものだと、すぐに思うだろう?妻を殴るなとか、子供を殴るなとか、コーヒーの列が長すぎるからと言って人を殴るなとかね。

例を挙げよう。時には善悪を決めるのは、政治家の気まぐれにすぎないことがある。私の言うことが信じられないなら、南北戦争中に奴隷を南部から北部に運ぶ「地下鉄道」に携わっていた人に話を聞いてみればいい。彼らは南軍にとっては絶対的裏切り者の犯罪者だった、しかし今日、彼らが間違っていたと言うだろうか?それがひとつの例だ。

私は、神がルールを曲げる(ものごとのタイミングを操る)のを確かに見てきた。それを見るのはちょっと面白いし、それが起こっているときにその渦中にいるのも面白い。

でもそれは、デートの約束があったからスピードを出したけれど捕まらなかったとか、そういう気まぐれな出来事じゃないんだ。そんなバカなもんじゃない。ただ、タイミングが早まったり遅れたりすることがあるのは興味深い。誰かが何かに気を取られたり、親切にしようと決めることもある。

現実がどのように曲げられるか、そして私たちが意図する生き方と再び調和した結果、どのようにシンクロニシティが増えるかを見守るのは実に興味深いことだ。私にとって、NDEとはそういうものだった。コンピュータを再起動するようなものだ。

インタビュアー:
うーん。ええ、わかります。(このインタビュアーも臨死体験者です)

ジム:
今や君はバージョン2.0になったというわけだ。

インタビュアー:
そう思います。
別のインタビューであなたが言っていた、とても印象的な言葉があります。あなたはこう仰いました。 「確率を現在のリアリティの一点に集約しない状態に近づくことで、私たちは光になるのだ」それはどういう意味ですか?(☜ほらほら!ジムさんの言い回し、やっぱりネイティブにとってもイミフなんだ!ホッとした〜)

ジム:
ああ、私が言いたかったのはこういうことなんだ。2年半ほど前、コロナ禍が始まったときだが、それは大統領選のタイミングでもあったし、ブラック・ライブズ・マターや、#MeToo運動など、社会正義の問題が活発化したタイミングでもあった。そしてもちろん、移民をどう扱うかという問題もあった。
すべてが怒りだった。
すべてが怒りに満ちていた。
誰もが叫んでいて、誰もコミュニケーションを取ろうとしなかった。ソーシャルメディアもそれに拍車をかけた。誰がワクチン接種を受けていて、誰が受けていないのか、どの陣営にいるのか、そしてそれがどのように政治利用されるのか、ということに集約された。誰もがほとんどデフォルトで強制的に、この二元的な考え方に二極化された。
私たちか、彼らか。
ワクチンを打つか打たないか。金持ちか貧乏人か。黒人か白人か、男か女か、そんな感じだ。

それは2つの陣営に分ける言葉であり、非常に二元的な、信じられないほど二極化された環境の中で生きることに巻き込まれてしまうんだ。

しかし、あれかこれかという二極や、善か悪か、男か女か、金持ちか貧乏かといった両極端の間には、大きな灰色のグラデーションが広がっている。そしてそのグレーのグラデーションは、私たちがお互いを見つける場所でもある。私たちが歩み寄りを理解し始める場所になる。
なぜなら、そういう二元的な陣営に分かれているときは、マイウェイか、ハイウェイしかない。私のやり方に反対する奴らは、地獄へのハイウェイ送り、地獄で焼かれろ、だ。

だがグレーのグラデーションには寛容さがあり、愛を育む機会がある。ここが私たちが実際にお互いを発見する場所となる。そしてここにおいてこそ、真実が存在する。真実とは、正しいか正しくないかではなく、その中間にある。

量子物理学で言うところの重ね合わせ、つまり、ある瞬間にたくさんの選択肢が重なって見えるということなんだが、右か左か、上か下か、何かをするかしないか。それぞれの瞬間に、人々は何かしら選択をする。

でも、私が言いたかったのは、選択をぎりぎりまで待って、できる限り無理に選択しようとせず、ただ物事が自然に展開するのに任せ、受容的な待つ姿勢でいるのであれば、その方が望ましいということなんだ。

そうして、無理に選択する必要のないタイプの人生を送る。自然に展開する選択が、結果的に良い選択となるような人生になるのが望ましい。

誰かが本当にひどい事件を起こして、それが新聞やニュースに載ると、多くの人がサタンのせいだと言ったりする。
人々はサタンのせいにしたがるが、サタンは何もしたりしない。それはネガティヴな選択の象徴とは言えるかもしれないが、でも、乗っかってきて口に漏斗を突っ込んで何かを流し込むことなんてことはしない。(←この表現!もうお手上げ!直訳ですまん!)そんなことは起こらない。選択するのは私たちなのだ。責任は我々にある。誰かを責めたい時は、鏡を見てみれば良い。

私が言う「手放す、明け渡しのアート」とは、自然と良いことが起こるような人生を送るこということなんだ。そうすれば、無理に何かをする必要はない。光に向かうとは、そういうことなんだ。

インタビュアー:
ジム、説明してくれてありがとう。そして、臨死体験を共有してくれてありがとう。この会話が持てたことを感謝します。


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いかがでしたでしょうか。
ジムさんのお話には、老子道徳経を思わせるところがあります。て、老子に全く詳しくないんですが😙


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