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①ジム・ブルートンさんの臨死体験

何を隠そう、私の趣味のひとつはyoutube上で海外の臨死体験談を視聴することです。数多くの体験談の中から、最近特に身に染みたものを翻訳して紹介します。他にも紹介したいNDE(臨死体験 Near Death Experience)の動画が沢山あるので、シリーズ化するかもしれません。(キャロルさんのレッスンもまだまだ続くのに、一体どういうつもりだ~!)

元の動画はこちら→ https://youtu.be/O1w0rYE3398


※ジムさんはNBC戦場特派員を務めた経験をお持ちで、またナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーディレクターとしてエミー賞を受賞するなど、なかなか華やかな経歴の持ち主です。臨死体験の書籍も出版されていて、今回紹介する動画の他にも色々なチャンネルでお話されています。

話の前後が多少分かりづらいところがありますが、元の動画においてジムさんのお話がたくさんカットされているようです。ご了承ください。

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こんにちは、私の名前はジム・ブルートンです。コネチカット州に住んでいます。"The Other Side Media NDE"から依頼があったので、今日は私の臨死体験をシェアしたいと思います。
臨死体験というのは広範なテーマですので、ここでは私が体験から学んだ5つの真理、私の人生に影響を及ぼした真理に的を絞ってお話するつもりです。

まずは、この体験の背景となる私自身について。それから、臨死体験そのもの。そして体験から導き出した最も重要な真理といえる5つの基本的なことの順番に話していきましょう。

少年だった1960年代、私は白黒テレビで、動物に関する番組や動物を助ける保護活動などの番組を見るのが好きでした。また1960年代というのは、アメリカとロシアのどちらが先に月に到達するかで大きなレースを繰り広げていた時代でもありました。未来に関するユートピア的なビジョンがたくさんありましたね。2000年には月旅行が出来るようになるとか、皆のガレージに空飛ぶ円盤があるのが当たり前になっているとか、そのような未来像があったんです。

少年時代の私もそんな未来を思い描き、そういう仕事がしたいと考えました。30年、40年先ではなく、今すぐそれがしたいと思ったんです。そこで当時私が「発明」と呼んでいた一連の絵を描き始めました。もちろん、小学4年生の子どもが描くようなものですが、その時に既成概念に捉われず、自分の内側から湧いてくるものをどんどん出していくという土台が出来たように思います。

そんなふうにして、小型衛星のアンテナでビデオとデータを伝達する手段を改良するということをやったんです。基本的には、衛星通信トラックを小型化してバックパックサイズに縮小したんですね。世界で初めてそれを作ったんです。そしてベル研究所で、ダイヤルトーンを発明した人たちと一緒にその機械をテストしました。彼らは最初、「そんなのはうまくいかないだろう」と言ったんですが、私が「試作品を車に積んでありますよ」と言ってテストにこぎ着けたんです。で、うまくいったんです!面白かったですね。

後にこの技術は国際宇宙ステーションで使われることになる生体認証システムに統合されました。このシステムは着用したり飲み込んだりすることさえ出来るというものです。これはエベレスト山で2回テストを行いました。

高校生の時、私は竹から自作のハンググライダーを作りました。それが高じて、第一次世界大戦で使われた飛行機を再現して飛行しました。あの時代が好きなんです。飛行の原理を発見した時代、新しい発明の時代が大好きなんです。飛行を試しては着陸後に納屋であちこち微調整し、更に快適な飛行体験を求めて、改良を加えモデルチェンジしていったものでした。

そんなふうに、古い歴史的な飛行機の複製を作るのが好きだったんですが、私が2回目に取り組んだのは、1933年にフランスで作られて「空飛ぶノミ」と呼ばれていた、まるでディズニーのアニメに出てきそうな飛行機です。

基本的にはソープボックス ダービーのカートに2 つの大きな翼を取り付け、大型バイクのエンジンを搭載し、回転する巨大なプロペラが操縦する私のすぐ目の前にあるような機体でした。本当にかわいかったですよ。最初の飛行機が第一次世界大戦のマッチョな飛行機の復元だったので、今度はちょっとユニークなものを作りたかったんです。

2016年10月6日にテスト飛行をしました。
飛行場を一周して、その後、2回目の飛行の時にエンジンが故障しました。ビンテージ飛行機だったため、対処できる時間があまり無かったんです。現代の飛行機ほど長く滑空できなかったのです。エンジンが止まるとすぐに下降を初め、飛行場に引き返すことができなくなりました。

私は森の奥の、丘陵地帯と岩場の上空にいました。唯一着陸を試せそうな場所は、ボーイスカウトのキャンプ場の近くの、小さな湖の辺りでした。私はそこを目指したのですが、湖岸を通り越し、森の木々に突っ込みました。ソープボックス ダービーのカートと同レベルの機体ですからね、時速70マイルくらい出ていたんです。木の幹に引っかき傷が残っているので、私がクラッシュした場所は未だにすぐ見分けがつきます。

木製の飛行機は翼が折れ、墜落した時にはバラバラのマッチ棒のような状態で、形を残していた唯一の部分は私の背後の部分だけで、そこに私はシートベルトを装着した状態で固定されていました。

幸運にも、ボーイスカウトキャンプ場の湖では退職した元警察官が釣りをしていたんです。墜落事故に遭遇し、けがを負った私を見ても怖気づかないタイプの人だったことは本当に運が良かったです。

彼は911(緊急通報の番号)に電話をかけ、私を支え続けてくれました。私の肋骨は全部折れていて、肺は両方とも断裂していました。右足にも複数の骨折があり、壊れたエンジンのバッテリーが飛び出したせいで、腰には穴が開いていたんです。時速70マイルも出ていたんですからね。両肺とも機能していなかったので息が出来ず、空気を求めてぜいぜいと喘ぐことしか出来ませんでした。

911を呼んでくれたおかげで、30分から45分後にヘリコプターが到着しました。救助隊は私を飛行機の残骸から引っ張り出し、コネチカット州ハートフォードの外傷センターへ連れて行きました。

数時間後、家族が病院に到​​着し、そこで人工呼吸器を取り付けられて呼吸している私を見つけました。肺が機能していなかったんです。私を生かしておくために、体にはいくつもの管が取り付けられていました。動く恐れがなかったため、抑制帯は既に外されていました。

医療チームは家族に次のように告げました。
1日がかりの手術を約1週間続けて行うこと、その内の一部は成功する確率がたった2%であること。施し得る最善の手段は、その間、私を医学的に昏睡状態にしておくこと。
家族はそれに同意し、そのように処置がなされました。ですから論理的に考えて、その1週間、昏睡状態の間に私の臨死体験が起こったと言えるでしょう。実際はどれくらいの期間だったのかはわかりませんが、向こうの世界にいる間、私はとても忙しかったんです。

私の体験は、よく聞くような臨死体験とは異なります。手術台に横たわる自分を見たりだとか、光のトンネルを抜けると既に亡くなっている愛する人たちに出会ったり、美しい景色を見たり、人生を振り返ったり等はありませんでした。私の体験は、むしろテレポーテーションと言ったほうが近いかもしれません。

気がつくと、高層ビルが立ち並ぶ場所にいました。遠くまで見渡せて、すべてが灰色の、コンクリートの廃墟がどこまでも続いていました。建物はみな半壊状態で、黙示録を思わせる光景でした。ニューヨークやロサンゼルスのような都市に隕石や小惑星が衝突したあとの1000年後、といった感じでしょうか。大爆発が起こって何もかもがなくなったような感じです。

そして、まったくの無音でした。とても静かでした。空を見上げると、非常に暗く、重たい雲が覆いつくしていて、今にも嵐になりそうでした。

突然、吐き気が波のように胃に襲い掛かってきて、私は痛みに身をかがめ、腹を押さえました。私は声に出してこう言ったのを覚えています、「これには耐えられない!」
そう言った途端に、左側に何かを感じました。するとそこに、今まで見た中で最も奇妙な彫刻が立っていました。

陰鬱な空の、最も深い闇を背景にしてそこにあったのは、大きな卵の形をした彫刻でした。(この記事のタイトル画)
それは湾曲した金属の帯でできているように見え、その中に小さな渦巻きが見えました。そのかすかな動きが徐々に静かになっていくのが聞こえました。この場所の絶対的な静けさが妨げられたのは、私が言葉を発したからだということがわかりました。そして、どういうわけか、この物体と私はつながっていることが理解できたんです。

腹に締め付けられるような痛みを感じながらも、私は立ち上がって、このモノリスの方へ頑張って歩いて行きました。隙間から中をのぞくと、歯車が見えます。それらは空間に自由に浮遊していますが、目に見えないピボットポイントに固定されており、それがあらゆる方向への広範囲の動きを可能にする軸となっています。これは時計などの構造に見られるようなセクターギアであることに気付きました。

普通、歯車というと丸い円にぐるりと歯がついたものを思い浮かべますが、それとは違い、セクターギアは円の一部に歯があるだけで、通常、前後にしか動きません。したがってそのその運動には始まり、中間、終わりがあります。これがこの話の重要なポイントとなります。

しばらくの間、この一見意味のないような歯車の動きを眺めていると、いくつかの歯車は非常にリアルでくっきり見え、またいくつかは実体のない幽霊のように見えるものがありました。それらがお互いをすり抜けるかのように通過していくのです。そんなことは物理的に不可能です。

私は思わず声に出して「いったい何だこれは?」と言ったんです。
すると体を持たない声だけの存在が、私の意識に直接答えました。「これを体験している間、私と一緒にいるように」と。
そして、「これは〈今〉に生まれゆく未来であり、時間の多次元モデルのようなものです」と言いました。

歯車の動きが止まり、私は卵の側面の隙間から中へと手を伸ばしました。
すると、その声は「これが〈なる〉プロセスです。」と言いました。

そうして歯車を見ていると、頭の中に未来の出来事のビデオフィードのようなものが見えてきました。もう少し年をとった私の姿が見え、私の子供たちが子供をもった様子も見えました。そのような、まだ起こっていない出来事が見えてきたんです。私は手を伸ばして、それに触れることが出来るかどうか確かめようとしました。

映像のいくつかは非常に鮮明で、また他にも幽霊のようにおぼろげなものもありました。映像にかすかに手を触れた瞬間、私は痛みで体を折り曲げました。またしても腹に込み上げるような痛みが走りました。反射的に歯車を引っこ抜き、卵の外に投げ捨てました。するとすべての歯車が狂ったようにバラバラに回転を始めたんです。ひとつの歯車が失われたために、穴埋めをしようと機械を再調整しているような感じでした。

「何が起こったんだ?」と尋ねると、「それぞれの歯車は、あなたの未来における思考、言葉、または行動の可能性を表します。あなたの運命は、あなたが取り除いたものを埋めるため、今、リセットされつつあるのです。」

私は言いました。
「歯車を抜いたことで、私は未来のある瞬間を取り除いたのか?」

その声は言いいました、
「他にどんな理由であなたはここに来たのだと思いますか?」
「何も思いつかない。ここが何なのかも分からない。」
「あなたは〈狭間〉にいるのです。」
「狭間?何の?」
「すべての。過去と未来の間の、不可能な今。」
「まったく意味がわからない」と私は言いました。
「それは到底無理なことです」と声は答えました。
「あなたは少しの間しかここにいません。しかし、あなたは一瞬の永遠の中に立っているのです。あなたは、自分の体が属している世界での自分を、覚えていますか?」

これは確実なことですが、もしその時、誰かがやってきて、私に「あなたの肉体が属している世界について覚えていますか?もしここに長く居すぎたら戻れなくなるぞ」と言ったとしたら、私はきっと「戻れなくなるって?どこへ?」と聞いたでしょうね。「君の家族のところに決まってるじゃないか!」と言われても、「家族って?何のこと?」と答えたでしょう。

私はその時、真に〈在る〉ものであって、人格を持たない存在だったんです。私が自分だと思っていた属性は、私からはぎ取られていました。
私が「覚えていない」というと、声はこう言いました。
「それならば、過去は塵のようなものだということが理解できたでしょう」「オーケー。じゃあ、歯車のうち、触れると気分が悪くなるものもあれば、そうならないものもあるのは何故だ?」
「全ての選択には意図しない結果が伴います。不運なものもあれば、そうでないものもあります。それぞれの選択が引き起こす痛みが、道標となります。」
「気分を良くしてくれる歯車はどこにある?」
すると、声はこう言いました。
「あなたは気分を良くするために、ここにいるのではありません」

すると目の前に新しい歯車が飛び込んできました。そこには観覧車が見え、嬉しそうな私の未来の孫たちの姿がありました。彼らは籠の中から私に笑顔を向けていますが、私を素通りして彼らの世界の映像を見ていたのです。もちろんその歯車を引き抜くようなことはしませんでしたよ。

さらにいくつもの歯車が目の前を通り過ぎて行きました。はっきりとイメージが見えるものもありましたが、多くがぼんやりとしか見えませんでした。しかし、はっきりとしたイメージが見えて意味が明確なものが現れるたびに、私は手を伸ばして、痛みを感じるものは引っこ抜いていきました。私の未来において利益にならないものは、痛みが知らせてくれたんです。

その痛みというのは、将来の行動がもたらす予期せぬ結果によって引き起こされたものでした。私にとって精神的損害となる可能性のある将来の選択です。そうした行動は、罪ではありません。間違った判断です。間違いを犯す可能性は誰にでもあります。

ある時点で、取り除いた歯車が後ろに山のように積み重なっているを見て、もう私には悪い未来がなくなったのではないかと尋ねました。
あるいは、私には全く未来がなくなってしまったのかどうか、と。

「自分の将来から誤った選択をする可能性を排除していったら、今はもうあまり痛みを感じなくなった。こんなことをした結果、もしかして私はもうすぐ死んでしまうのだろうか」

声はこう言いました。
「あなたの運命は、本来あるはずのない未来に合わせて調整されなければなりません。
あなたの呼吸の回数はすでに決まっているのです。あなたの最後の一回を心配します。」
「それは大して慰めにはならないな」「悪い選択を排除しても、間違った選択をしないとは限りません。間違っていることに気づくのは、それが過ぎてからです。何が正しくて何が間違いかは、自分ではコントロールできない変数なのだから、明日何が起こるかという問いに答えるのは無駄です。それよりも重要なのは、すべてがどのようにぴったりと調和し、離れてはまた再び触れ合うのか、その美しさを理解することなのです。」

〈それ〉は基本的に、『大いなる計画』を信頼するようにというメッセージを伝えていたんです。

「では、私の理解不足のために、何を見落としているのだろうか?」と私は尋ねました。私がそこにあるものの僅かしか認識できていない、理解できていないのは明白だったのです。

〈それ〉は言いました。
「目の前にはっきりとあるもの。恩寵。誰も救いに値しません。救いは恩寵によってのみ与えられるのです。それはあなたの生まれながらの権利ですが、私たちを分離させている世界を犠牲にして、あなたによって選ばれなければなりません」

「未来を修正するのは苦痛だ。」と私は言いました。なぜなら、私はこれを道徳心によって選択しているのではなく、それが引き起こす痛みを避けたいという理由だけでやっていたからです。
「私にはこうした未来が、いつ、どこで、どんなふうに起こるかもわからないのだから」
「いつ、どこで、は、重要ではありません。自分を世界に鎖で縛りつけておこうとする強い愛着を取り除くことは、自分の周囲に張り巡らされた鎖の圧し掛かるような重さを背負い続けることほど苦痛ではありません。」

「まるでこの場所は、私がもう2度と人生を台無しにするような選択せずに済むように、たった一つのことだけを行うよう仕向けるために作られたようだ」
「選択肢があるにもかかわらず、それをうまく使いこなせないのであれば、選択肢を少なくすることは慈悲と言えるでしょう。
過去を変えることはできません。しかし、未来により良い選択をすることはできます。すべては相互につながっています。人との関係にもっと注意を払うこと。私があなたに優しくするように、みんなに優しくしなさい。」

私は自分の感じている痛みを思って、こう言いました。
「優しい?これのどこが優しいって言うんだ?」
「あなたはある時点で、何かを祈りました。そしてその祈りに対する答えとして、ここに来たのです。そして今、空から落ちてきた男は、空へ向かって飛んでいった男とはもう違います。」

私は石灰色の空を見上げ、死んだような廃墟と化した街を見渡した。私は卵を振り返り、手を伸ばしてその上に置いた。そして再び、私は声に出して言った。
「この痛みともに、生きていけると思う」

そして、私はそこから追い出されたようです。
病院で目を覚ますと、医師から飛行機事故に遭ったことを告げられ、怪我をした箇所を列挙されました。運ばれてすぐに昏睡状態におかれ、1週間その状態でいたのだと知らされました。ですからおそらくその間ずっと、私は〈狭間〉にいて、歯車を抜く作業をしていたのだと思います。

〈狭間〉から戻ってきて病院で横になっている間、その経験を何度も思い返しました。「これはどういうのとだろう?」と考え続けました。
何らかの東洋思想と通じるものがある体外離脱体験の一種かもしれないと思いました。でも、私の経験にははっきりと名前をつけることができませんでした。その時は、これが臨死体験だということがわからなかったんです。

だから、ただ頭の中で何度も何度も繰り返し、この時点では、これは自分にとってどういう意味があるのか、すべてにとってどういう意味があるのか、と考え続けました。そして私ができる最善のことは、これを5つの最も基本的な真理に集約することだったんです。

この体験から私が持ち帰ったひとつめの真理とは、つまり、最高のバージョンの自分とはどんな自分だろうか?という問いです。
これは、年中、どんな時でも自分自身に問うことのできる質問だと思います。
病室で目を覚ました時、壁に貼られた私の写真が目に飛び込んできました。私を励まして癒すために、私が何者であったかを思い出してほしいという思いで、誰かが貼ったものでした。
その写真は、言ってみればマッチ・ドット・コムのプロフィール写真のようなもので、アフガニスタン北部で部族民と葉巻を吸っている私でした。多くの人に、これはタフなジムのベスト・バージョンだと言われた姿でした。

その写真を見て、もう何世代も前のように感じました。私を知っている人たちにとっては、世の中の基準に照らして、それが一番クールな私の姿だったかもしれなくても。

日が経つにつれ、私は写真の中のその男について違う印象を持つようになりました。自分のベストバージョンはそれではないと思うようになりました。私のベストバージョンは、〈狭間〉にいる、脱個人化された意識的存在であり、すべてを脱ぎ捨て、喜びも悲しみも知らず、〈今〉の中に浮かんでいるあの〈不可能な今〉であり、時間を超えたところで「手放している」状態だと直感的に感じたのです。

病室に横たわってだんだんと自分の臨死体験について把握できるようになってきた時、突然〈狭間〉との会話が始まりました。

「アルコールという表現形態が私の中から取り除かれ、検討の必要性があるとして保留された状態でいる」というのです。そして〈狭間〉は文字通り、私に、それを未来まで携えていきたいのか、それとも過去に置いていきたいのか、と尋ねたのです。

〈それ〉は、もし私がアルコールを自分の人生の一部として保持しておきたいなら、そのままでいることも出来るし、もしそれを過去の物として置いていきたいのなら、私の執着はすべて取り除かれ、私はまったくそれに惹かれなくなると言いました。私は迷わずただちに、「それは置いていく」と言いました。すると〈声〉は「わかりました」と言い、アルコールのイメージは消えました。それ以来、お酒は飲んでいませんし、飲む気もありません。

今でもバーで飲んでいる人たちと一緒にいることはできます。誰かの家に行く途中にワインショップに行ってワインを持っていくこともできます。しかし自分が酒を飲もうとは決して思いつきません。そして、それが私にとって「手放すこと」の力を初めて実感したことでした。

それが2つめの真理につながります。それとは、「手放すための方法とは何か?」ということです。

どんな時も、世界は「次の大きなこと」を追いかけています。「別のアプローチを試してみたらどうだろう?」とか、何かが気に入らない場合はそれを放棄して最初からやり直してみたり。また、誰が誰を知っているとか、成功しているのは誰かとか、そういう話ばかりしています。私にとって、人生は「次の大きなこと」を追いかけることではなく、「手放すこと」です。それらは全く逆です。

それは無執着であり、瞬間ごとに良い選択をするために自分の力を所有することです。これにより、悪い選択をする可能性とそれによる影響を減らすことができます。それはどんな特定の状況とも関わりのない、本質的な理解のことです。それは単に「知っている」という状態であり、それが意味を生み出し、私たちの個々の人生に意味が戻ってきて、私たちそれぞれに独自の目的意識を与えてくれるのです。

あなたは特定の宇宙の中心ではありません。
そしてこれを理解すると、誰かの行動があなた個人とほとんど関係がないことがわかります。

二元的な考え方では、物事を「これか、あれか」に単純化してしまいます。我々vs.彼ら、良いvs.悪い、ワ​​クチン接種済みvs.ワクチン未接種、などという二項対立において単純化するのです。そうなると私たちはこれらの両極を解決するために議論し、闘います。

瞑想すること、そしてオープン・マインドでいることは、非二元的な心の状態をもたらしてくれます。「AかBか、いずれか一方」ではなく、「Aと、そしてBの両方」という観点から考えてください。その単純な視点の変化が、私たち「または」彼らの世界ではなく、私たち「そして」彼らの世界を変えるのです。

手放すには、選択肢が自然に展開するように任せることから始めます。選択する前に、できるだけ長く、他の可能性が完全に成熟するまで待つのです。

真実その3。
先ほど、二元的思考と非二元的思考についてお話しました。言い換えると、線形思考と、非線形思考となります。線形思考とは、ご存知のように、段階を踏んで考えることで、非直線的思考とは、より広範に考えることを意味します。

例えば、「銀行を襲った犯人は誰か?」という問題があったとします。
線形思考だと、ステップ・バイ・ステップのプロセスを通じて答えを追求します。いわば「Go/No Go」の可否判定による意思決定です。物事を明確に白黒つける考え方です。では、主要な前提や手順が崩れた場合、問題解決のプロセスはどうなってしまうでしょうか?しかし、世の中の大半はこのような考え方をしています。

それよりも良い問いかけとは、「なぜ人は銀行を襲うのだろうか?」でしょう。非線形思考は、線形思考のアプローチに対して、外側に展開するスパイラル思考による問題解決を促すことで、理解をもたらします。問題を調べたり、それに取り掛かる出発点を複数用意することで、その問題を通してさまざまな方法が見えてくるのです。ある特定の症状を解決しようとするのではなく、原因を探ることから始めるのです。それはまた、より進化した考え方でもあります。

そこに「在る」ときには、このように考えるのは自然なことなのです。物事を理解するために記憶に頼らないで良い、ということに気づいたとき、あなたはパンくずを追う代わりに、パンそのものを見ることができるのです。

目の前で動いている複雑でダイナミックなパターンを知覚するのに記憶は必要ありません。過去の記憶も、未来への予感でもありません。あなたの直感を使うのです。「命綱なしで飛ぶ(他に頼らず、自分の力で生きる)」のです。

真実その4
自分に誠実であること。

無神論者であっても、人生を自分に誠実に生きれば、スピリチュアルに生きることは可能です。少なくともスピリチュアルに生きるための土台が築かれます。

神を信じていると言うけれども、その発言を裏打ちする選択や奉仕の心を示すような生き方をしていない人が大勢います。その例を見つけるのに遠くを探す必要はないですね。

自分の欠点を正当化したり、自分の下した悪い選択を軽視して無かったことにするのではなく、凸凹を含めて自分という人間を全面的に認める人はどうでしょう?それは謙虚さと言えるでしょう。そういう人には見習う価値があります。(ここで言っているのは他人の身体的安全や精神的健康にと危害を加えない人についてです。)

自分の行動に何か意見された時、それを認め、さらなる努力が必要であることを自分自身に認めるというのは、なかなか出来ないことです。

考えてみてください。
もしあなたが、自分の欠点に取り組む勇気を持ち、成長に取り組む無数の人々の手本となっているのだとしたら。
あなたが思っている以上に、あなたを見ている人たちがいて、あなたが想像している以上に、あなたは人々の役に立っているのです。
自分に誠実に生きるという姿勢は、ソクラテスに通じます。
「汝自身を知れ」と彼は言いました。
だから私は子供たちに、「完璧なガールフレンドやボーイフレンドはどこにいる?」と探す代わりに、「私はどう愛される必要があるのか」と自問しなさいと言ってきたし、生活のためにどんな仕事に就くべきかを問うのではなく、何が自分を幸せにし、没頭できるかを問いなさい、と言ってきたんです。私の人生の目的は何だろうか?人生の意味とは何だろう、と問うのです。そしてあなた固有の興味や能力を踏まえた上で、あなた固有の目的は何なのかという問いについて深く省察するのです。
あなたの心に響くものは何ですか?
一貫した自己妨害のパターンがありますか?
何があなたの長所や短所を引き出しますか?
正直な自己反省は、私たちがより良く何ができるかを明らかにします。そしてそれが、誠実に考えるということです。

世界を救うにはどうすれば良いか、という疑問に対する人々の回答は、その人の誠実さを測る良い試金石になるでしょう。
ある人は平和、ある人は戦争、ある人はフォース・コンプライアンス、ある人はコミュニケーションが、世界を救うためには必要だと言うでしょう。しかし、世界を救うことは、家庭の食卓で、親の膝の上で、あるいは祖父母の足元から始まるのです。そしてそれは、仕事やキャリアに関係なく、他者への奉仕の精神で人生を生きることから育まれます。大切なのはその精神なのです。

人とのつながりを感じられるようなことをし、恵まれない人を助ける。時には陰から気づかれないようににリードし、他の人がそれは自分のアイデアなのだと思うようにする。可能な限りスポットライトを共有する。なぜなら、誰も一人ではゴールにたどり着けないのだから。

受け身になって、人にいいように扱われても構わないと言っているのではありません。時には戦うことが必要な場合もあります。自分のためでなくとも、他人のために戦う価値のある戦いもあります。

世界をありのままに見なさい。
一時的な慰めや気晴らしのための関係性は道を妨げるものと見なしなさい。私たちは皆、この世界をただ通り過ぎるだけだということを忘れないように。

そして最後の真実、その5 「手放すこと」にたどり着きます。

2019年に初めて臨死体験のカンファレンスに行って発見したことのひとつは、共有する体験を持つもの同士が出会うとき、自己紹介はほとんど必要ないということでした。お互いの中に共通する何かをすぐに認識できるように感じたのです。一瞬のうちに、私たちは個人的な会話に深く入り、この地上生活における体験を比較し合いました。
もし長い間会わなくても、私たちはまだつながっている感覚を持っています。そして時には、とても遠く離れていても、お互いの感情の状態を感じることができます。そのつながりを確立しようとする努力も、それを維持する努力も必要ありません。同じ周波数を持つ音叉は相互に共鳴し合うのと一緒です。周波数が同じであれば、どこにいてもその振動は同期するのです。

Life/人生/生命の意味は何か?
それに対する答えはありません。なぜなら、あなたがLifeだからです。
他に何が付け加えられるでしょう?
ただ歩み、そして発見してください。
あなたは、「あなたとはこうである」と言われてきたような存在ではないことに気づいてください。
そしてあなたが死ぬときには、あなたが自分だと思っているすべてを脱ぎ捨てていきます。あなたはそれ以上の存在です。あなたはすべてなのです。
あなたがすべての質問をし終えて、もうそれ以上の聞くべきものがなくなった時、神に至る道が始まるのです。

②に続く



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