【読む映画】『ノマドランド』

車上で暮らす高齢者の詩画的なスケッチ
――だが、見る者が見れば神経を逆なでされる危うさも

《初出:『週刊金曜日』2021年3月19日号(1321号)》

『スリー・ビルボード』(2017、米=英)で、アカデミー賞主演女優賞を獲得した記憶も遠くない、フランシス・マクドーマンド。63歳の彼女の存在感に、圧倒される劇映画だ。

 だがその先、作品全体について語ろうとすると軸が定めにくい。
 というのは、見る者の立場や状況によって、映画から受ける印象や注意を引かれる事柄が、相当に違ってくるだろうと想像できるからである。

 フランシス演じるファーンは、おんぼろのキャンピングカーに身の回りの物を放りこみ、ネバダ州エンパイアを旅立つ。エンパイアはかつて、石膏産業で栄華を極めた企業城下町だったが、不況のあおりで廃墟同然になった。そのうえ人生を分かち合った夫を亡くし、子どももいないファーンは「ノマド」になったのだ。

 原作は『ノマド 漂流する高齢労働者たち』(ジェシカ・ブルーダー、鈴木素子訳 春秋社 2018年)という、重厚なルポルタージュである。

 ここでいうノマドとは「遊牧民」という原義ではなく、2000年代の米国に現れた新たな貧困層のことだ。とりわけリーマンショック(08年)に始まる金融危機で、仕事や預貯金や住居を失い、年金も当てにできなくなった高齢者をさす。もともと高学歴のホワイトカラーだった人びとも少なくない。
 かれらはキャンピングカーやトラックなどを根城に、臨時の働き口を求めて各地を移動しつづける。

 ジャーナリストの著者は、みずからキャンピングカーを購入してノマドの一員となり、3年間で2万4000キロメートルを旅しながら数百人を取材した。「私はホームレスではなくてハウスレスよ」と言うファーンは、その取材から造形された主人公だが、他の登場人物のほとんどは、原作に登場する実在のノマドである。

 監督のクロエ・ジャオは、1982年に中国・北京に生まれ、英国を経て米国に移住した中国系米国人女性だ。長編劇映画は3作目だが、たとえば日没後のトワイライトに浮かぶ荒野の輪郭など、シネマトグラフィの美しさには定評がある。台詞は極力抑え、心象を視覚的に伝えるほうに力点を置く、映画という名の詩画集のような作風が特徴的だ。

 とはいえ本作の場合、テーマがテーマだけに、そうした長所や持ち味が、想定外の方向に振れる危うさがあることは否めない。

 ノマドを、誇りをもって自由に生きる存在として描き、敬意を表するというつくり自体は良い。原作からしても、実際かれらにそういう側面があるのは事実だろう。
 だが、そのように解して鑑賞を終えるのでは済まないような状況に置かれた人びとが、日本にも増えつづけている現実がある。

 一例に、ファーンが最初に向かう現場は、クリスマス商戦で臨時雇いが必要なアマゾンの倉庫だ。入出庫時に空港並みのセキュリティチェックもなければ、同僚と談笑しながらのんびり昼食をとるといった、実際にはあり得ない、ぬるい描写がつづく。
『潜入ルポ amazon 帝国』(横田増生 小学館 19年)を既読の観客なら、倉庫はセットに違いないと思うだろう。しかし、エンドロールでアマゾンが撮影協力していることを知って驚き、作品の評価を改めるかもしれない。

 個々の現場というミクロのレベルではなく、マクロの視点を優先したのだと説明されてはいる。けれど、映画化したのがジャオ監督ではなく、たとえば『家族を想うとき』(2019、英=仏=ベルギー)のケン・ローチ監督だったとしたら、また別の描き方をしただろう。

 もっとも、ジャオ監督はこんなことも語っている。制作動機に、故国の家族に米国の実情を知ってほしい意図もあったのだと。
 周知のように、米国の貧困が1980年代から深刻化した理由のひとつは、基幹産業をはじめとする製造業の海外流出だ。その流出先の1国を出自とする監督にとって、ある種の覚悟が必要な作品だったことは間違いないはずである。

監督・脚色・編集:クロエ・ジャオ
原作:ジェシカ・ブルーダー
出演:フランシス・マクドーマンド、デヴィッド・ストラザーン
2020年/米国/108分

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