【読む映画】『シークレット・スーパースター』

家父長制の抑圧から「ブルカで」脱出する

《初出:『週刊金曜日』2019年8月2日号(1243号)、境分万純名義》

 本国公開から4年になるが、依然としてインド映画歴代興行成績4位をキープ。

 主演は、同成績首位の『ダンガル きっと、つよくなる』で知られるザイラー・ワシームだ。また、同成績3位『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の記憶も新しいメヘル・ヴィジュが、ザイラーと「母娘」になり、前作を上回る情感のこもった名演をしている。

 公式サイトなどで予告編を見ると、他愛ない少女の成長物語に誤解されるかもしれない。
 しかし、今回は助演にまわるアーミル・カーンのプロダクション(AKP)製作であるだけに、ありきたりの娯楽映画をつくるはずがないのだ。
 伏線にあるモチーフは、ドメスティック・バイオレンス(DV)。『ダンガル』に続いて、女性のエンパワーメントをうったえる良作である。

 アドヴェイト・チャンダン監督(ヒンドゥ教徒男性)は、もともとアーミルのマネージャーで、AKP 作品の助手も務めていた。
 それらのなかに、こんにちまで絶大な社会的影響を及ぼしているテレビ討論番組「Satyamev Jayate」(真実は常に勝利する)がある。そのリサーチから本作を着想したそうだ。

 たとえば、ゴルフのチャンピオンになった9歳の少年。酪農を細々と商う家庭に育ち、才能が見いだされてスポンサーを得るまで、動画サイト・ユーチューブ(YouTube)でゴルフを学んだという実話。
 あるいは、寡婦になった専業主婦の母が、タクシー免許を取って自活できるようになるまで、メイドとして働きに出てその間を支えたという娘のエピソード。
「自分が抱いてきたヒーロー(英雄)のイメージが、いかに狭いものだったかに気づいた」と監督はふり返る(『Hindustan Times』2017年9月21日付)。

 本作の主人公インシアは、歌手になることを夢見る15歳。インド西端グジャラート州(注)のバドーダラーという街に、両親と就学前の幼い弟、父方の大おばと暮らしている。

注 現首相ナレンドラ・モディが州首相を務めていた。その間に起きたのが2002年のグジャラート大虐殺である。

 父は、日に17時間という超・長時間労働が常態化しており、国内外の出張も多い。インドでは医師や弁護士と並んで理想的な職業とされるエンジニアであるだけに、プライドも高いようだ。

 もっとも娘の学業成績にうるさいのは「無学な女には、嫁として良い貰い手に恵まれない」と考えるからにすぎない。息子には甘い半面、妻や娘に対する態度はミソジニー(女性嫌悪)に近い。おそらく物理的制約から日本語字幕に反映されない部分も多いが、言葉による虐待からして相当のものである。

 日本の観客の大半は“ムスリムならではの問題”を想像して見始めるかもしれないが、その予断をすぐ捨てるだろう。若年観客を意識して描写は抑制されているが、似たような家父長制暴力に支配された家庭が、この日本にも、どれだけあることかと思う。

 それでも父には見えないところで娘の気持ちを大事にしてくれる母は、どうやって工面したのか、ノートパソコンを買いあたえてくれた。そこでインシアは自作の曲をユーチューブに投稿しようと思いつく。むろん父に知れたら半殺しの目に遭う。
 そこで黒いブルカをまとい、アコースティックギターをかかえた「シークレット・スーパースター」の登場となった。

 ブルカといえばムスリム女性が全身を覆う被り物だが、とくにこの10年余り、欧州では攻撃の矢面にある。刑事罰を伴う、いわゆるブルカ禁止法のフランスでの導入(2011年)をはじめ、内容や程度に差はあれ規制の動きが広がっている。端的な理由は、サルコジ仏大統領(当時)が述べたように“女性差別の象徴”ということらしい。

 イスラームに無知な者ほど見られる典型的な反応で、着衣の強制が人権問題だというなら、逆もまたしかりである。
 その点、本作では、家父長制の抑圧から脱出する道を開くツールにブルカが使われる。ボリウッドの洗練度を実感させる、たいへん愉快な見どころのひとつだ。

監督・脚本:アドヴェイト・チャンダン
製作:アーミル・カーン、キラン・ラオ
出演:ザイラー・ワシーム、メヘル・ヴィジュ、アーミル・カーンほか
2017年/インド/150分

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