見出し画像

それは、きっと、私の場合は
責任を取りたくない
ということ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先日の記事で友人から言われた一言にビビッときたと書きました。
簡単に書くと、
「あなたがその時に思ったこと、感じたことをそのまま伝えたらいいんじゃないか」
という一言。

いま、訪問診療のサポートという形で働いていて、患者さんにとっては診療の時間。
限られた診療という時間の中で、PTとしての意見を表明すること、つまりそれは診療の時間を使うということ。

そんなに固く考えなくていいんだと思う。
さらっと伝えればいいんだと思う。
でもそれが、さらっと意見を表明するのが何より苦手で。

「こういう客観的評価から、こういう状態だと考えられるから、こういうサポートがあるといいのでは」
みたいに固い伝え方をしないといけないと感じてしまう。
そしてそのためにはそれなりの時間が必要だと考えていて。

何でそうやって固く考えてしまうのかなと考えてみたら、それは責任が伴うことだからなんじゃないかと思った。
本人・家族はもちろん、他職種に対してPTとしての評価を伝え、提案をする。
その発言の責任は私で、それに伴って生じるリスクを先に考えてしまう。

病院で働いているときは役割が明確で。
PTとしてこの人に関わってほしい、という存在意義が明確で。
PTとして与えられている時間も明確で。

それと比べて今はPTとして雇ってもらっているけど、他職種とフラットな環境で訪問診療のサポートをしていて。
PTとしてどこまで意見していいのか、そもそも求められているのか、正解が分からない。
正解が分からないとうまく口に出せない。

余計なことを言っていると他職種に思われたくない、余計な時間を使っていると思われたくない、流れを邪魔したくない・・・と。
完全に人の目を気にして動けていなかった。

ある占いのブログで、
望んだ未来になっていない現実は、深い部分でその未来を阻止しているから
という言葉があって。

あー、なるほどなと。
PTとして今の職場に貢献したいという気持ちを持ちながら、PTとして意見を伝えることの責任を取りたくないんだなと。
PTとしての役割が、持ち時間が明確ならいいんだけど、とても曖昧な環境の中で、限られた時間を使うこと、前例にないことを提案すること、それはネガティブに捉えられてしまうのではないかという不安から保守的になっているんだなと。

でも、1年間今の職場でやってきて、ずっと思っていることは同じで。
そろそろ不安に立ち向かってもいいんじゃないかと思い始めて。
でもそれには責任が伴うわけで。
責任を取る、という覚悟がどうしてもまだ、決心がつかなかったりするわけで。

そんな中、この前、偶発的に貢献できそうな事案が目の前に転がっていて。
「私でもよかったりしますかね。。?」
と恐る恐る聞いてみた。
「いいね!そうだよね、それがいいよ!」
と思ったよりも好リアクションを頂けて。
結局、その事案は別の話が進んでいたことが後から分かり、流れたんだけど。
それでも、さらっと一言伝えてみるという効果を実感できたのでした。

性格的に「ちゃんとした形」「明確な役割」などがないと不安になるのだけど、目標を掲げてそれができるよう下地を整えるだけでなく、動き出してしまって事実から目標に近づけるような進め方もありなんだなと実感した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なんにせよ、やはり望んだ未来を阻止し続けたのは自分だと思い知らされたわけで。
本当にわずかでいいから、やりたいことや自分の意見を表明するようにして、一歩ずつ未来を開いていきたい。
そう感じた1週間なのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?