「自分の想いを伝えたい」そんな思いに気づいた日
最近、ちょっと足踏みモードだなと、なんとなく下向き気味だったのですが
今日、ちょっと上を向けそうだな、と感じたのでそんなことを書いてみます
ただ疲れていた
視点を変えようとなったきっかけはたくさんあるのだけれど
やはり一番ドスンと来たのが、つぶやきもしたこちら
そっか、ただ疲れているのだなと思えたら、ぐるぐるしていた思考がすーっと止まって
「進めない自分の理由探し」をしていたけれど、ただ疲れていたのなら、休めばいい
と思えました
多様な言葉と余白の必要性
そうやって、ぐるぐる思考が止まることで
noteをはじめとした多くの言葉たちの中から今の自分が欲していた言葉たちをぐんぐんと吸い込める感覚があった
そして、なんといっても、プリキュアの映画を見たのも外せない
長女が生まれてから彼是何年見続けているか分からないので、昔のプリキュアとかでてくるとそれだけで涙が出そうになる
(実際、少し出ていて、次女が映画よりも私の顔を見続けていた。
注)プリキュア映画はみんなでライトを振る場面があるのですが、その場面で涙したため、表情が丸見えだった笑)
瞑想もできたし、なんというか余白をしっかり味わえた日だったのだ
半年後の自分を想像してみる
また、もやもやしていた原因の一つに満月があったかもしれない
というのも、満月だ、半年後の自分を想像してみよう!と意気込んでみたものの、全然クリアにならなかったので、一層自分を追い込んでいたのもある
でも、今日改めて自分と向き合ってみて、決めた
半年後の自分は
自己表現をして、自分のステージに立っている自分になっていよう
と
とても抽象的だと思う
もっと具体的な自分を想像しようと探し続けていた
でも、今はこの表現が一番しっくりくると気づいたのだ
では、なぜ自己表現をしたいのか、なぜ自分のステージに立ちたいのか
それは、
自分の想いを伝えたいから
これに尽きる
では、なぜ自分の想いを伝えたいのか
それは、
最適解を探るのに疲れたから
疲れたという表現がベストかは分からないけれど、最適解というものは存在しないのではないかと思うようになった
今まで、自分の想いを伝える時、その想いは世の中で正解なのか?という問いがあった
私の思い上がりではないかと
でも、思い上がりでもいいではないか、そこに自分の想いがあれば
そう思えるようになったのだ
他人の想いをくみ取りやすい(往々にして、それは頼まれたわけではなく、勝手に感じ取って、勝手に反映させているだけなのだけれど)自分にとっては、多少思い上がりで動いたほうが、ちゃんと想いを伝えられるのだろうという考えに至った
自分の想いをはっきり伝える人に対するもやっと感
前職や大学の同期たちの活躍をみて、時々もやっとしたことがある
それは大抵、「自分はこれ専門にやってます!(ドヤ!)」というニュアンスを感じた時だった
当時、私は「人という複雑な対象を相手に、1つの武器だけで立ち向かえると言い切れるなんて、なんか違う気がする」という思いがあった
今でも、根本的に私の考えは変わらないけれど、私のもやもやは彼らの考え方というよりも、彼らの姿勢に向けられていたのかもしれない
「自分はこれをやりたい、これが大切だと思っている!」と自分の想いをはっきり伝えるその姿勢
実は私はうらやましかったのかもしれない
私もそんな風に想いを伝えたかったのだと思う
今日はまだ気づきの段階で、ここから実際にどうやって動くかが大切だと思う
自分の想いとはなんなのか、どうやった形で想いを届けていきたいのか
なんとなく湧いてきたイメージを徐々にクリアにしていきたいと思う
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