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夢を追い続けるということ〜中学時代編〜

みなさんこんにちは。イラストレーターの桜田ななです。

私は将来、一流のイラストレーターとして書籍の表紙絵や、大手ゲーム会社のカードイラスト、Vtuberのキャラクターデザインをしたいと考えています。就職する頃には、一人でフリーランスとして絵で食べていけるレベルであれば良いのですが…そうなれるとも限りません。よっぽどの幸運が無い限りそれは難しいのでは無いかと思います。

でも、チャンスを生み出すことはできる。そのためにまずは「行動」が大事だと考えました。絵の仕事につくための実績作りにコンテストに参加するということを最近はじめてみました。今はコンテストに積極的に参加し、作品をあげていますが、

実はこれまで、中学一年生〜高校二年生にかけてあまり行動はできていませんでした。

意外と何もしていなかったのです。

今思えば、もっとSNSを活用して広い世界を見たり、コンテストに挑戦していれば良かったなと思っています。

当時はデジタルイラストとツイッターを中学二年生の冬からはじめて、ただひたすら好きな二次創作のイラストをアップしているだけでした。ツイッターのフォロワー数は毎年300人ずつ増え、コメントをもらうのは珍しく、いいねは1~3程度。SNSで発信する行為そのものが初めてで、慣れない中絵師活動を続けていました。(ここから先はいい話と暗い過去の話を混ぜています。知りたく無い方は飛ばしてOKです。でも私のことを「なんでもうまくいっている人」と思っているのであれば、以下の文は読んでいただきたいと思っています。)


中学時代のお話

中学入学して、5月ごろ、私は学年である程度名前が通るようになっていました。絵が上手い子がいる、と。廊下を歩いていただけで、名前も知らない他クラスの生徒から、「あ!ななさんだ〜〜!」と声をかけられるほどでした。有名人のようなものです。ここで私は小学生までの、ただ好きで描いているという意識から、初めて、自分は絵が上手いんだと自覚するようになります。学校行事ポスターに選ばれて、また名前が通ったりして…(「剣道部のくせに絵が描けるとか…」といった感じで、美術部の一部の人に敵意を向けられることがあったり、話したことも無い相手にぶっ倒す的な発言を聞いてドン引きしていた)


起立性調節障害で不登校に

中学二年生の夏、私は病気になりました。

「起立性調節障害」

というものです。血圧の調整がうまくいかず、朝は起き上がれず、立ち上がっても貧血のようにしゃがみこんでしまう状態でした。しかし夜は活動できるので、見た目で判断することは難しく、周りの理解が得られにくい病気でもありました。私の中学校は幸い、理解のある先生と生徒に恵まれ、辛い経験が少なく済みました。この病気の原因は精神的ストレス、もしくは体の発達についていけなくなったのか…だそうですが、どうして自分がそれになったのかはよく分かりませんでした(一年先に兄がその病気になっていたので、遺伝かもしれない…??)精神科病院に通うようになり、血圧の検査と補中益気湯などの漢方薬を貰い続け、主に中学二年生~高校一年生にかけてお世話になりました。


こうして、私は普通に学校に通学することができなくなってしまいます。


忘れられないお話

はじめ、病気だと知る前に、私の異変に気づいてくれた先生がいました。学校から母へ一本の電話が入りました。

「最近、ななさんの様子がおかしいんです」と。ぼーっとしていて心が死んだような姿をしてからでしょうか、それを二年後に母から聞かされ、そんな風に気づいてくれた先生がいたことにびっくりしました。お礼を言いたい気持ちでいっぱいでした。しかし、もう母はその先生がどんな人だったか覚えていないそうで…。感謝したいのに今もできなままです。

自分の体調では朝礼に間に合わず、親に車で送り迎えしてもらい、とりあえず出席日数のための通学。

血の気の引いた青白い顔で学校に行き、体育はできず、剣道部も顔を出すことが無くなり幽霊部員に。

不定期の登校で一年近く続きました。剣道部の友達や、先生、元クラスメイトなど、たくさんの人が心配したと思います。その中でも、印象に残っているのは親友のRちゃんです。仲良くしてくれたRちゃんは自分が休んだ場所のノートを見せてくれて、写させてくれたり、テスト対策の時に助けてもらったりしました。本当に優しくて、18になった今でも親友だと思っています。


自分から感情が消えた

病気がひどい時は、

感情が無くなりました

今思うと怖いです。親も相当心配したと思います。普通は怒ることがあっても、感情は無くなって何も思いませんでした。

鬱病だと思ったほどです。どん底でした。当時聞いていた武田鉄矢三枚おろしで取り上げられていた「おしゃべりな腸」という本で、感情は腸からできていると言っていました。まさに内蔵、腸が動いていないのだと感じていました。

起き上がれない、立ち上がれない、起立性調節障害知らない人にこの時の感覚を伝えるとすれば、それは「足にボトボト…と重い石が絡み付いて溜まっていく…」という感じです。一日中貧血状態で過ごす、といった感じです。


優しい親友

ある日、私の期末テスト対策ために、放課後残って親友が学校のコピー機を使って私にノートをプリントして渡したいと先生に聞いたところ、拒否されました。(理由は忘れてしまいました…)彼女はおっとりとした可愛い子ですが、この時は「ななちゃんは病気で不利なのに、それは酷い」と怒ってくれました。ですがその時の私は何もかもどうでもよく、面倒だと感じ「別にいいよ。しょうがないよ…。ダメなものはダメだから」と言っていました。

家に帰って学校の出来事を話した時、彼女の優しさで父が涙がぐんでいるのをみて、私も涙が溢れていきました。



中学三年生になると、症状が少し改善し、それなりに学校へ行けるようになります。学校のイベントでポスター募集などに熱心に取り組んでいたり、文化祭のポスターに選ばれるためにアナログイラストで燃えに燃えていたりしました。


剣道二段を取らないか?

小学生の頃、絵ばかり熱中して運動全然出来ませんでした。小学生四年生から剣道がきっかけで運動が出来るようになります。(今も逆上がりと二重跳びだけは克服できず…)剣道は小学四年生から中学三年生まで続けました。

三年生の四月、剣道部の顧問の先生から電話があり「剣道二段審査があるが、参加したければ応募する。どうする?」と言われました。無理にとは言わないとの事でしたが、私はできるはずのチャンスを逃すのが嫌いでした。今取らなけれなチャンスを1回分逃すことになる…。ずっと一緒だった同級生は今回の審査で二段を取るという事もあり、無茶してでもいいから、チャンスを無駄にしたくないという意識が非常に強く「やります」と返事をしました。まともに剣道をやっていたのは半年も前の事でしたので、親には「落ちる気で受けなさい」といわれ挑戦することになりました。

審査の前日、剣道部に顔を出し稽古をできる範囲で行いました。一番の不安要素は「形審査」日本剣道形を覚えるのに自信がありませんでした。最終的には一夜漬けで頭に叩き込み、二段持っている父に相手をしてもらいました。

剣道二段は初段を取ってから一年経過すると取れるようになります。試験は筆記、試合形式、の二つを通過して最後に日本剣道形の合格を貰い剣道二段を認められます。

手応えは……ありませんでした。日本剣道形、最後の技があやふやで、自分がミスをしたと感じていました。完全に頭が真っ白になって……………

そして結果発表……私は


二段に合格しました。


信じられなかったのですが、本当に取れてしまって、両親もびっくりでした。無茶でも参加して正解でした…。


こんな感じで中学時代は学校の行事でいっぱいでした。SNSは気まぐれで触っている程度で将来は漠然とイラストレーターになりたいとだけで、これといった活動はしていませんでした。

そして高校受験で角川ドワンゴ学園N高等学校に進学します。

高校生になってイラストレーターになるために本気で動き出します。ようやく……………って感じですね。

長々と中学時代編を書いていましました。次回は高校生のお話をしたいと思います。ここまで読んでくださってありがとうございました✨

Twitter pixiv HP

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