草間彌生展「わが永遠の魂」国立新美術館

 作品を見ていたら、生と死が表裏一体なのだということを漠然と感じた。「我が永遠の魂」という作品群は一つ一つ独立したタイトルが付けられているのだけれど、生のモチーフも死のモチーフも似通っているように見えて境目がどんどん曖昧になっていった。

 一方で過去の作品であるソフトスカラプチュアでは生きるための本能である性や食といったものが強迫観念として捉えられていて、有り体に言ってしまえばまぁ気持ち悪かった。特に女性のハイヒールに男根を模した彫刻が施されていたものに関しては生理的な嫌悪感を抱く。足と男根を絡めたモチーフはいくつか表れていたけれど何を象徴しているんだろうか。足元から崩されるような、信頼で成り立ってるこの世界が浸食されているような違和感が気持ち悪くて仕方なかった。マグリットの違和感をもっとフィジカルな方向に推し進めたような感じだろうか。

 ちょっと参考になったこととしては、ありえない組み合わせによる違和感というのはやはり人の心を動かすなと。プラスかマイナスかは別として。そもそもドットのモチーフがそもそも違和感を感じさせる。いたるところに存在するこのモチーフは圧倒的にポップネスなはずなのにグロテスクさを並列して兼ね備えている。よくわからない感情になる。どう見ればいいんだ。あとは円の完全性の組み合わせがまたギャップを喚起するんだろうか。気持ち悪いけど綺麗って感覚はこの辺りにあるのかもしれない。

 あと蓮コラを作ったやつは本物の天才だと思う。2chで一時期流行った蓮のぶつぶつとした部分を女性の肌に移植した画像で、見るだけに絶対に鳥肌が立つ。何度見ようが絶対にだ。検索するのはあまりおすすめしない。このドットというポップさと気持ち悪さを併せ持つモチーフを人体に重ねた上にそのからとり出せるという要素を付け加えたことで、その異形さを一層強めている。異様に気持ちが悪いけれど、人の感情を揺さぶる力があるという点あれはアートだと思った。

 そして圧巻は無限の鏡の間。運良く一人きりになることができたのだけれど、心底、宇宙だと思った。あれはもう紛れもなく宇宙。しかも精神的な。だからどういう感情になったとかでもなく、ただただ宇宙にいた。不思議な感覚で、思考が停止して無限に流れて無限に止まった時間の中でただ立ち尽くすしかなかった。鏡に映る自分をなんとかして消したいと思った。生と死を超越したところにある精神は無限に広がっているし、なんだったら自己の存在すらもほとんどなくなるというような気がした。インスタレーションは作品と一体化できる気がするからやっぱり好きだ。

 あとは座るところ少ないとか、写真撮るの禁じられすぎとか、見る側の自意識が透けて見える気がしてめちゃくちゃ嫌だとか、カップルどうにかして視界から消えてくれとか、なんか日本で作品を見ていると周りのお客さんに対して同族嫌悪のような感覚に陥るなとかいろいろ考えてた。

 アートは楽しい。

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