『児玉まりあ文学集成』、構造主義を思わせた、よかった

 三島芳治『児玉まりあ文学集成』読んだ。一巻買ってよくてすぐ二巻三巻も買った。よかった。

 なんか文学理論っぽいなーというか構造主義っぽいなーと思ってたら十九話(三巻)で露骨に構造主義っぽい話やりだしてハッとした。物語論。それも、ジュネットじゃなく、プロップとかグレマスとかそっちのほう。
 しかし「世界の説明」「自分の説明」「時間のふしぎ」という3分類はちょっとどうなんやと思った。わたしなりに言いかえるとそれぞれ「認知」「メタ認知」「世界」になるけど、これそもそも位階のちがう尺度がまざってる気がしてならん。わたしはメタ認知は物語内容のほうには基本的に入れたくない。わたしは保守的なのでそれは物語言説のほうやと思ってしまう。もちろん物語言説そのものが主題化されることはあるにせよ。

 わたしが物語内容を限界まで絞るなら①無→無、②無→有、③有→無、④有→有になる。物語外的(ジュネットの言う「語り」の範囲になるであろう)文脈を前提としてよいなら⑤無、⑥有も入る。
 「今や王国は失われた。」は③有→無で歴史視点、変化(なくなる)、「私にとっては最初から何もなかったのだ。」は⑤無でメタ認知、みたいな。

 まあそれはさておき、構造主義的やった。構造主義っていうのはつまるところ「われわれにとってのすべてとは意味であり、意味は差異の体系によって生まれている」ってことやと思う。『児玉まりあ文学集成』は露骨にそういう意味・差異がバンバンきてた。われわれがそこに生きる物語とはすべて物語についての物語である、的な考えを感じた。
 ありがちなメタフィクションひけらかす系やとメタフィクション構造そのものにとらわれていくけど、これはけっきょく最初から最後まで原物語的な何かを大事にしてて、そこがすごいよかった。そこに落ち着いていく、その落ち着き先を意味をもって見せるための構造。あと単純にマンガとしてうまかった。うまい。いい。


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