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2019.5.23 坂本龍馬暗殺の謎

皆さん、こんにちは!

今回は、明治維新の話題では切り離せない坂本龍馬の暗殺について書いてみようと思います。

龍馬は土佐藩を脱藩した後、幾度と無く命を狙われました。

その中でも、慶応2(1866)年1月23日に起こった有名な「寺田屋事件」。

夜中の3時のこと。

お風呂に入っていた龍馬の妻・お龍(おりょう)は、ふと、外の異変に気付きます。
外には、龍馬の命を狙う役人が大勢いました。

濡れた体に帯を着けずに着物を引っ掛けたお龍は、2階で寝ようとしていた龍馬のもとへ駆け込み、「あなた、逃げなさい!」
と、龍馬を逃がそうとします。

刀で襲ってくる役人たちに、龍馬は持っていたピストルで応戦します。

この時は、左指を負傷しながらも役人たちが怯えている間に逃げ切ることができました。



そして、慶応3(1867)年11月15日
龍馬が暗殺された日。

舞台は、京都の醤油商である「近江屋」。

この日は、旧暦で龍馬の誕生日でした。

龍馬と一緒にいたのは、大親友の中岡慎太郎と護衛役の山田藤吉。

山田は暗殺の犯人を部屋へ案内している際、後ろから斬られました。

2階で襲撃を受けた龍馬は、刀で頭を切られて昏倒の末に息絶え、即死同様でした。
発砲の痕は、一発も残っていませんでした──ピストルを持っていたにも関わらず…。

中岡は致命傷を負うも生き永らえ、ある人物に事件の詳細を伝えますが、その2日後に息絶えました。

この事件で疑問に残る点が幾つかあります。
なぜ、龍馬はピストルを使わなかったのか。
なぜ、当時の侍は皆、必ずとどめを刺していたにもかかわらず、中岡はその場で殺されなかったのか。
なぜ、龍馬の暗殺だけが、現代に至るまで迷宮入りしたままなのか。

通説では佐々木只三郎が首として暗殺したことになっていますが、この通説も明治2(1869)年に当時、見廻組隊士だった今井信郎が自供した記述をもとにしたものです。当の佐々木は前年の鳥羽・伏見の戦いで敗死しており、まさに死人に口なしで事の真相は分かりません。

ただ、個人的に気になるのは、大政奉還直後に龍馬が暗殺された背景には、幕府に代わる新しい政権樹立のため薩摩、長州、公家らの思惑が入り乱れていたのと、維新で活躍した当時の下級武士たちがどのようにして莫大なお金を得ていたのか?という点です。

その出処をたどっていくと、そこには明治維新の28年前にお隣の中国で起きた、大戦争から繋がっていたことが見えてきます。

次回は、明治維新より少し遡って見ようと思います。

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