佐々木宏人という人について

40代最後の誕生日を目前にして、今まで自己紹介的な記事を書いていなかったことに気づきました。有名人なら誰か他の人が書いてくれるんでしょうが、私のような中途半端な立ち位置の人は自分で書かないと謎の人のまま終わってしまうので、自叙伝的に書いてみようと思います。今後加筆するかもしれません。

私は1969年(昭和44年)愛知県海部郡弥富町(現弥富市)の助産院で生まれました。弥富というと日本一海抜が低い地上駅と、金魚の生産量日本一でその筋の人には有名な街です。実家は15年ほど前に廃業してしまいましたが明治45年から続く諸戸薬局という薬局で、父は薬剤師、母は店の手伝いという典型的な自営業の家庭でした。屋号が佐々木でないのは父方の祖父が戦病死しており、祖母が実家に出戻っていたためでした(祖母の旧姓が諸戸)。当然祖母も同居しており、一年後には妹も生まれて5人家族でした。なお、父と母は小中学校の同級生で母の実家は徒歩3分という至近距離にありましたが、母方の祖父も私が生まれる数年前に亡くなっており、父以外は女性ばかり、いとこも全員女という女系家族に近い状態でした。

幼少期は実家からすぐの南部保育所(移転して今もあります)に通い、町役場の隣にある桜小学校に入りました。坊主頭になるのが嫌で(当時田舎ではそういう理不尽な校則が当たり前のようにありました)地元の中学に行くのを避け、受験をして私立の東海中学校に入学、エスカレーター式に東海高校に進学。キャラの濃い人が多いことで有名な学校で、非常に刺激になりました。卒業後は駿台予備校で1年浪人した後、名古屋大学法学部に入ったのですが、駿台の2年目の授業料が免除になったので、東大を目指して一年間仮面浪人をしました。しかし、受験に失敗したため諦めて名大に骨を埋め、新卒で株式会社ナムコ(現バンダイナムコスタジオ)にサウンドクリエイターとして入社。正社員として約15年間勤めて退職し、フリーの作曲家になり、現在に至ります。

運動は大の苦手でしたが、勉強はそこそこできる子供でした。誤解されやすいですが、協調性は強い方で我は通さず、すぐに折れます。争うことが嫌いなので。だから紛争解決は得意です。ただ、物事を俯瞰で見る傾向があって、矛盾を感じると指摘しなくては済まない性格で…要するに子供の頃から説教おじさんでした。きっと周りの大人たちからは煙たがれていたと思います。嘘はつくのもつかれるのも苦手で、いわゆるドッキリ企画みたいな番組は生理的に受け付けません。損得勘定はしますが、損すると分かっていても楽しかったり、喜ぶ人がいれば行動を起こしてしまうことがよくあります。「自分だけいい思いをしたい」という気持ちがないのです。人の嫌がることや面倒臭がることも平気で引き受けたりします。目の前に困っている人がいると放っておけません。

子供の頃は動物と特撮ものが大好きで、仮面ライダーの放映時に親がもらってきたダルメシアンに「ライダー」と命名したり、小学校二年生の時はスーパーカーブームにはまり、小学校四年生でYMOに出会って衝撃を受けたり。中学高校はずっと音楽一筋でしたが、大学ではちょうどバブル期のデートカーブームの洗礼を受けて車が好きになったり…時流に流されやすくてわりとミーハーでした。大人になってからはあまり趣味がないですが、強いて言えばラーメンの食べ歩きが好きです。あと犬が大好きで愛犬の「たなか」を世界で一番愛しています。

興味のあるなしがはっきりしていて、スポーツは全般的に興味がありませんが、音楽は大好きでカーペンターズやテレビから流れる歌謡曲が大好きでした。叔母(母の妹)から電子オルガンをもらったことをきっかけに小学校二年生でエレクトーン教室に通い、そこでコードやベースといったポップスの基礎的な部分を学びました。教室はすぐにやめてしまうのですが(そしてまた入り直したりを2回繰り返すんですが)、小学校四年生から高校二年生までずっと吹奏楽を続けていて、クラシック的なことの表層部分を自然に覚えました。また小学校三年生の時にサタデーナイトフィーバーを発端としたディスコブームがあって、ディスコサウンドが好きになりました。とくにお気に入りだったのは親が家でよく流していたアバでした。そんな中でいきなりYMOという宇宙人のようなグループに出会って音楽以上の何かを感じ、すっかり人生を変えられることになります。

たまたま中学一年生の夏にデパートの楽器売り場でシンセサイザーに触って感銘を受け、その日はカタログだけもらって帰ったのですが、毎晩のようにカタログを読み続け、とうとう親に頼み込んで一番安い機種を買ってもらいました。そこからはシンセサイザーにのめり込んでいきます。名古屋のヤマハは今でいうビンテージの名機が普通に置いてあってしかも試奏自由だったので、学校帰りによく通いました。当時はまだインターネットのない時代でしたが、学校と自宅の間に全国展開している大型の書店、レコードショップ、楽器店がいくつかあって情報収集にはこの上なく便利だったのです。そして中学二年生の年末にYMOが解散してしまい、なぜか「自分がYMOの後継者になる」と勘違いしてしまい、自己流で作曲を始めることになります。

その頃の話は今後このマンガで出てくるかもしれません。

当時はまだ贅沢品だったパソコンを父に貸してもらい、夜な夜な曲とも効果音とも区別のつかない音を作ってカセットMTRに録音して、誰に聴かせるわけでもなく楽しんでいました。徹夜で打ち込んだデータがフリーズで飛んでしまい、キレたこともありました(おかげでオートセーブがない時代にこまめに手動セーブする癖がつきました)。息子のあまりの集中力に父も感心したらしく、すごく協力的で欲しい機材などはわりとなんでも買ってくれました。あまり仲が良くなかったですが、今にして思えば父の理解があったおかげで今の自分があると言っても過言ではないです。高校二年生の秋、まだ新品の流通在庫があってビンテージシンセなんて言葉がなかった時代に高価なProphet-5の中古を買ってくれましたし。

1年目の浪人時代はさすがに音楽活動を中断していたのですが、大学入学直前に父が突然死し、精神的に荒んでいた時にたまたま友人から学生劇団の音響の手伝いを頼まれます。「気分転換にやってみるか」と始めたら意外に楽しくてはまってしまい、最初は人の作ったリスト通りに音を鳴らしていただけだったのですが、交渉して自分の作った曲を流すまでになります。予備校と大学に律儀に通いながらサークルまでやっているのに模試はそれなりの成績をキープしていましたし、ちゃんと単位も落とさずに取得していました。また、発表の場があると頑張れるもので(当時は今のように動画投稿サイトなんてないので)、気を良くしてどんどん曲を作っていました。

就職活動の時期になると周囲の人たちがどんどん内定をもらう中、お構いなしに音楽を作っていたのですが、定期購読していたサウンド・アンド・レコーディングマガジンで偶然ナムコの求人広告を見て「サウンドクリエイター」という仕事を知りました。そこからファミ通などを買ってゲーム会社の求人について調べまくり、何社かサウンドクリエイターの募集を見つけてとりあえずデモテープを送りました。しかし、落ちてばかりなのでいろいろ考えた挙句、少し前に作ったストック曲を送っているのが悪いのではないかと思い、クオリティーを上げた最新の曲を作ったところ見事に合格しました。同期入社にキリンジの堀込兄がいて寮も一緒で部屋に遊びに行ったりしました。

このへんの経緯についてはこちらの動画でも一部語っています。

そこからナムコのゲーム(エレメカやメダルも含む)を中心にシーグラフ出展の映像作品やワンダーエッグのアトラクションなどいろんなものに音楽をつけてきました。当時ゲーム業界はちょっとしたバブルで欲しい機材がなんでも買ってもらえたので、フェアライトの最新機種であったMFX3を使ったり、Pro Toolsも94年からすでに使用していました。その傍らまにきゅあ団やOMYといったユニットで活動したり(両方とも最初はインディーズでしたが最終的にはメジャーデビューしてSPA!やフライデーといった雑誌で取り上げられたりしました)、アスク講談社の「YMO Selfservice」という98年度の通産省マルティメディアグランプリ最優秀賞受賞したCD-ROMでYMOの音色を再現するというコーナーを手伝ったりと、精力的にこなしました。今は不景気で珍しくなってしまった海外レコーディングもユーロビートの殿堂として世界的に有名なロンドンのPWLで経験しました。

そんな活動の中で技術的なことだけでなくて予算組み、スケジューリング、ブッキング、プレス対応、ライブなどA&R的なことも学び、後の「アイドルマスター」のサウンドプロデュースに生かされることになりました。ちなみにまにきゅあ団やOMYでレギュラー的に使っていたルイードやO-GROUPは今やアイドルのライブで使われることが多く、不思議な縁を感じます。会社での仕事に不満はなく、むしろすごく楽しかったのですが、社屋の移転を機に通勤が困難になり、半年間の上司との交渉の結果退職し、フリーランスになって現在に至ります。

今はゲーム、アニメ、アイドルなど歌モノを中心に作っていて、クライアントとは音楽制作会社を通さない直接取引がほとんどです。そのため作曲だけの受注は少なくて音周り全般をグロスで受けることが多く、音楽プロデューサー的な立ち位置で活動していますが、一番やりたい業務は作曲なので「作曲家」という肩書きにしています。なお、仕事は社会貢献だと思っているのであまり選り好みしないようにしていますし(でも、なぜか好みの仕事の依頼が多いです)、基本的に言い値で受けていてギャラの交渉はあまりしたことがありません。そこに精神的パワーを割くくらいなら作品の質を上げる方に使いたいので。

本音を言うと、一番やりたいのはバンド活動です。子供の頃からあまり夢や希望を持たず、世の中に流されながら現実的に生きてきたのですが、fairly hairy situationを結成して初めてちゃんとした希望を感じました。現在は限りなく趣味に近いですが、いずれは事業化したいと思っています。

以上、長文で失礼しました。ここに書いてあることは全てありのままの事実で嘘も脚色もありませんが、佐々木宏人という存在はもしかしたらフィクションかもしれません。自分でこんなことを言うのも変ですが、実在していなかったりして。


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