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10年前のあの日のことを、人生のどの場面よりも覚えている

特に企画にも何にも出すわけではないけれども、3月11日を迎えるたび「震災のとき何してた?」と聞かれているような気分になる。しかし、夜中に眠れなくなって適当にこのワードを振ると、朝を迎えるくらい延々とエピソードを語り続けてしまうし、Twitterでトレンドにあがれば毎年同じTLが発生する、恐ろしい話題だ。「あの日」の一言で言い表せるほど、ものすごい出来事だった。

おそらく今日テレビを観ると延々当時の映像が流れるだろうし(映像を持つ者が後世に伝えるという役割を果たしているのは分かるのだ、「特別な日」に流さないでいつ流す、というのは分かる)、まあ気分が塞ぐ。

映像は観たくない、けど震災について想いを馳せなければなるまい、そう思う方がいるなら、被災した県のコミュニティFMを聴くことをオススメしたい。確か3年ほど前の今日、岩手県一関市のコミュニティFM局、FMasmoでは被災した方へのインタビューを再放送していた。復興に向けて動いている方の力強いメッセージがあり、なんだか心温かくなった記憶がある。今年は特別番組を組んでいて、「あの時感じた、人と人とのつながり」をテーマにメッセージを募集しているらしい。おそらく他のラジオ局でも(正直界隈とかにはあまり詳しくないけれど)同様の構成をしているところは多いのではないだろうか。地域外でもradikoや専用アプリ等で聴取できたりする。便利な世の中になったものだ。とにかく、映像でダメージを受けないで震災について思いを馳せたいときに、ラジオをというものは便利、という話。

上記とは全く関係ないのだが、個人的なエピソードでどうしても一つネットに書き残しておきたいことがある。
3月11日の夜、余震が続く中、私の住む家では午後8時45分頃までスマホ(当時の最新機種はiPhone4だった)に電波が届いていた。とはいえ電気は止まり、充電と情報を天秤にかけて電源は入れてあった。
そこに、知らない電話番号から着信が来た。
おそらく知らない人だが、取らないのも不誠実だと思い、私はそれを受けた。性別は忘れてしまったが、60代くらいだったと思う。「〇〇?〇〇さん?」と全く知らない苗字と名前を言われ、「違います、こちらは××です」と答え、「え?違う?」みたいな感じで切れてしまった。その後何度かかかってきたが、「電話番号が違うようです」としか答えられなかった。会話の内容よりも覚えているのは、周囲のざわめきだ。東京では帰宅困難者が多数発生しているとニュースサイトで見ていたので、当時はその駅一つからかけてきたのかなと思っていた。ようやく繋がった相手がよくわからん田舎の人間だった発信者の方の落胆は計り知れないが、一瞬でもその空間が繋がったのが、なんだか不思議だった。あの人はちゃんと本来の電話相手と連絡が取れたのか、再会することができたのか、10年経った今でも気にかかっている。書いておいたら当時のことを思い出してくれるかもしれない、と思ってここに放流しておく。

それでは、また次の記事で。

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