「東大安田講堂強襲」と新左翼の略史

先日のゲームマーケットでついに出た「東京安田講堂強襲」である。

前作である「東大紛争1968-1969」は戦略級としてデザインされており、東大闘争だけではなく日大闘争を含めた歴史としての学生運動が描かれていたが、今回はタイトルにある通り1969年1月18~19日の二日間に於いて発生した、いわゆる安田講堂事件がシアターとなった戦術級としてデザインされているのだが、戦術級と言うわけで登場するユニットには、東大全共闘(+東大青医連)と共に、東大本郷キャンパスに籠城をした新左翼セクトが登場する。

今回はそうした細かいところまできっちりとデザインされた「東大安田講堂強襲」を、もっとより実感を持ってプレイできるよう、安田決戦でのポジションを含めて僭越ながら簡単に概説させていただこうと思う。恐らく

これだけ知ってたら世間的にはヤバい人認定

は間違いないであろう。ようこそ、「こちら」の世界へ。

※以下、文中敬称略。

日本共産党

なにはともあれ、ここから語らねばならない。戦前から非合法組織として結党された日本の前衛党の先駆けであり、戦後の新左翼党派の源流の大半は日本共産党に辿り着く。学生組織は民青(日本民主青年同盟)。蔑称は日共、代々木(党本部が代々木に有ることから)。かつては報道でも普通に「日共」と呼ばれていた時代もあるが、基本蔑称だ。

共産党は戦後、徳田球一を書記長として「再建」されたが、国共内戦を毛沢東率いる中国共産党が勝利し、共産主義国家である中華人民共和国が成立したこと、また朝鮮半島が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国によって南北に分断されたことにより、やがて朝鮮戦争へと繋がる緊張状態を迎えたことにより、それまで「日本の民主化・非軍事化」を目的としてきた連合軍総司令部の指導方針は「逆コース」を描くことになる。これにはアメリカ対日協議会の意向が強く働いており、マッカーサーらはこの方針に反意を示していたと言われるが、結局アメリカ国務省の執拗な転換要求に応じたものである、というのが現時点の有力説である。

この最中1950年、スターリンによって組織されたコミンフォルム(コミンテルンの直系)が機関紙に「日本の情勢について」と題された論文を発表、野坂参三による「平和革命論」を批判すると言う事件が発生する。これに対して徳田球一は「“日本の情勢について”に関する所感」と言う論文を発表しコミンフォルムと対立。しかしその後、中国共産党も機関紙「人民日報」紙面にて日本共産党を批判すると、これに対してスターリンや中共による国際批判を受容する宮本顕治が、当時主流派で有った徳田派と野坂論文をまとめて批判すると言う内部対立が発生する。このことから、徳田派は論文題名より「所感派」、宮本派は「国際派」と呼ばれるようになった。

この「逆コース」や、それに伴う「レッドパージ」によって共産党幹部への逮捕状が出され、公職追放令が発動されたことに対応するため、所感派の指導により一時中央委員会を解体、非合法活動に移行することとなる。これがいわゆる「山村工作隊」や「中核自衛隊」と呼ばれた組織を用いて行われた日本共産党(所感派)の武装闘争路線なのであるが、まぁ要するに赤色テロルそのものなので離党者も相次ぎ、有権者からの支持も失って行くことになる。1952年にはあの「破防法」も成立、以後現在に至るまで日本共産党は公安当局の監視下に置かれることとなったのである。

1952年にはサンフランシスコ講和条約の発効により日本が独立を回復、連合軍総司令部による公職追放令は解除されたが、当時北京に逃れていた所感派の幹部である徳田球一と野坂参三の間に対立が深まり、1953年には徳田球一が北京で客死する。こうしたことを受け共産党は、1955年に第6回全国協議会(6全協)を開催、武装闘争路線の放棄を表明し、宮本顕治率いる国際派が共産党内のヘゲモニーを握ると、1958年には第7回党大会において宮本が書記長に就任すると、それまでの所感派の指導によって取られていた党綱領や指導方針はすべて「所感派が勝手にやったこと」とされ、以後日本共産党指導部は6全協以前の姿勢について一貫して無関係であると述べている。

そしてこれが、日本の新左翼運動の導火線に火を点けた。

なおゲームには民青は出て来ない。これはヒストリカルな理由によるもので、1969年1月10日に行われた「東大七学部学生集会」に於いて、加藤一郎総長代行と民青系・ノンポリ系学生との間の「確認書」合意に基づき、民青は既にバリケード封鎖を解除しているからである。これによって全共闘側は少数派に落とされ、政治的には民青側のほうがうまく立ち回った。もっともそれによって買った恨みも骨髄であったと言う。

共産主義者同盟

共産同。通称「ブント」と呼ばれ、これはドイツ語の Bund が語源であり、「ブンド」と読んでしまう人もいるが、「ブント」が正しい。学生組織は社学同(社会主義学生同盟)。ブントの成立は、共産党が武装闘争路線の放棄を表明したことによって起きた「第一次ブント」を母体としているが、その多くの依拠は共産党の路線変更によるものである。即ち所感派主導で行われた武装闘争路線の継続、「暴力革命」を標榜した明確な過激派であり、いわゆる「反代々木系」の二大看板の一つ(もう一つは革共同)である。

ブントはいわゆる「60年安保闘争」時に新左翼陣営としてのヘゲモニーを獲得していたが、結論として日米安全保障条約は締結・発効されたことから、安保闘争敗北と総括後に1960年「戦旗派」「プロレタリア通信派(プロ通派)」「革通派(革命の通達派)」の三派に分裂、その後さらに四分五裂の状態に陥るが、その中でも分裂していなかった共産同関西地方委員会、マルクス主義戦線派(マル戦派)と社学同マルクス・レーニン主義派(ML派)が合流して1965年に統一共産同を結成、翌66年にはマル戦派も合流して「第二次ブント」が結成されたが、その性格は「第一次ブント」とは全く異質なものである、と言うのが定説である。

第二次ブントは70年安保闘争や三里塚闘争、また学生闘争や全共闘運動の尻馬に乗って党勢の拡大を図った。羽田闘争期には「三派系全学連」(社学同・マル学同・解放派の各全学連に、ML派・第四インターの学生組織)を組んで共闘していたが、東大闘争・安田決戦の頃には社学同は全学連組織を保持しておらず、いわゆる「三派共闘」と言う形でML派・第四インターと共闘関係に有った。

ゲーム内では5ユニットとそこそこの勢力だが、史実と違って拠点防衛で時間を稼ぐことに専念してくれれば良いが、史実通りに安田講堂に拘るようなことが有ると厄介な事態を招くかも知れない。

因みにあの「連合赤軍」や「日本赤軍」などの母体の一部となった「赤軍派」は、山程存在した共産同の分派の一つである。

ML派

そんな中でも、安田講堂決戦で名を馳せたのがML派である。先に述べた通り、ML派は元々ブントの学生組織である東京社学同内に出来た分派であるが、「第二次ブント」結成移行は共闘関係にあり、こと安田講堂決戦に於いては工学部列品館でのML派 vs 一機の攻防戦は、東大当局側が都市ガスの接続を切らなかったことで火炎放射器まで登場する有様となり、名うての一機を苦しめることとなる。これは「東大安田講堂強襲」にもしっかり出てくるし、なぜ火炎放射器が工学部関連施設でしか使えないのか、と言うヒストリカルな理由の一端である。

なぜ社学同が東大闘争にしゃしゃり出てきたのか、と言う点に於いてはやはり「党勢拡大」が主な理由だったそうであるが、そのために理学部一号館を空砦にして安田本丸での籠城を主張したと言うのだから、何と言うか随分と自己チューですね。まぁ、あそこほどではないですが。

ちなみにこの安田講堂事件で検挙・起訴された学生の中でもっとも重い刑罰である「懲役五年」の判決を下されたのも、列品館部隊の一員である。その理由は起訴罪状に「放火」が上乗せされたから、だそうだ。

革命的共産主義者同盟

通称「革共同」。共産党の6全協による路線転換は固より、ソ連で1956年に発生したフルシチョフによる「スターリン批判」、またソ連が衛星国の労働者蜂起を弾圧した「ハンガリー動乱」を機に、「ソ連=スターリン主義」と言う前提に立った上でスターリニズムを批判、代替する前衛党の建設を目的として、「日本トロツキスト聯盟」を前身として1957年に結党した。学生組織は「マル学同」(マルクス主義学生同盟)。なお、上坂すみれの「革命的ブロードウェイ主義者同盟」は革共同のオマージュである(と思われる)。

ところがこの「革共同」は、早くも1958年7月に「第一次分裂」を起こす。新左翼党派の特徴と言うのは、とにかく分派が激しく、自分たちこそが真の前衛党でありそれ以外はクソだと思っているのが常なのだが、安保闘争の総括の結果としての分派を選んだ第一次ブントと比べると進行が早い。

第四インター

蔑称は「四トロ」だが、対外的には蔑称で呼ばれ書かれることのほうが多い。なぜなら「だいよんいんたー」は長いから。

革共同の「第一次分裂」によって主流派と袂を分かった、太田竜率いる党派で、この当時第四インターナショナルの加入戦術に日本社会党を加えることを画策していたが却下されたことで路線対立が表面化して、学生組織の一部を引っこ抜いて作った「日本トロツキスト同士会」に、「第三次分裂」によって残された西京司ら革共同関西派が合流して、「革共同第四インターナショナル日本支部」を名乗る。この「第四インターナショナル」と言うのがいわゆる革共同の前身である「日本トロツキスト聯盟」と関わりが有って、要するに彼らは反スターリニズムとしての革命理論としてトロツキーが唱えていた世界革命論を標榜していた。つまり彼らはトロツキストなのである。だから「第四インター」の蔑称は「四トロ」なのである。

東大闘争期はML派の項で述べた通り、社学同・ML派と共に三派共闘関係に有ったが、ゲーム上唯一「他セクトと混ぜて配置して良い」と言う扱いには、四トロのセクト性が反映されている側面も有る。史実では中核派と共に法学研究室に配置されていた。

中核派

正式には「革命的共産主義者同盟全国委員会」。蔑称はいっぱい有り過ぎて書けない、文字通り新左翼の代表格であるが、この「中核派」と言う名前は結構変わった経緯で付けられている。

革共同の第一次分裂から半年くらいしか経っていない1959年1月、反スターリン主義を公式化した理論的指導者である黒田寛一が、民青の情報を公安に渡そうとしていたとして未遂に終わっていたことが発覚、革共同第一回党大会において黒田は除名処分とされた。この黒田の後を追って、当時党内に「革命的マルクスグループ」を組織していた本多延嘉らが革共同から離脱して結成されたのが「革共同全国委員会」、つまり現在の中核派の元であるわけだが、これが革共同の「第二次分裂」であり、残された関西派が太田派と合流して第四インターとなるのである。

実は中核派と言うのは学生組織である「マル学同」が、革共同全国委員会の分裂、つまり革共同の「第三次分裂」時に指導組織の分裂に伴って名乗ったのが「マル学同中核派」だったことに起因する。学生組織から上部組織へと通称が流れた例は中核派が唯一であるが、実際往時の中核派は新左翼党派としての動員力・戦闘力が図抜けた存在であった。日本の新左翼運動は、60年安保闘争より始まり70年安保闘争までの期間に興隆したが、その主な担い手が学生であったこと、その学生組織から職業的革命家として専従するようになったことから、ごく自然に「革共同全国委員会」もまた「中核派」と言う呼称を受け容れている。この辺は立花隆の「中核vs革マル」に於いて、当時書記長を務めていた本多延嘉本人が述べていると言う。

ゲーム内でももちろん新左翼側としては最大勢力を誇り、史実では安田講堂の2Fと上層階に配備されていた。数を味方に付けられれば(かつ法研を早めに捨てる覚悟が出来れば)ML派と中核派の使い方は明らかにゲーム展開を優位にできるだろう。

そして後述する革共同の「第三次分裂」こそが、日本の新左翼史に於いて破滅を決定的としたのであるが、それはこの当時活動家であった彼らには認識されていなかったでろう。

革マル派

正式には「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」。宿敵である中核派からは「反革命カクマル」と呼ばれ、他の新左翼党派からも「日和見主義」「アリバイ闘争」と名指しで批判される新左翼界の鬼っ子

いわゆる「第三次分裂」において本多派と黒田派が分裂して黒田派が「出て行った」格好になっているため、全国組織も「革マル派」と呼ばれているのが普通。宿敵である中核派は革マル派を「反革命分子」と規定しているため「革」と言う字を纏うことさえ認めず「反革命カクマル」と機関紙に記述するのが伝統である。一方の革マル派も、中核派に対しては「ブクロ派」(かつて公然拠点が池袋に有った)「ウジ虫」(白いヘルメットがうじゃうじゃとデモに湧いて出るので)とボロクソに言い合う不倶戴天の敵

大衆運動に随伴し、産別戦線などでも猛威を奮った中核派とは違い、あまりそうした運動に加担せず、従って戦力も落とさず、革命党としての党建設と組織作りを主体とした活動方針であることから、中核派だけではなく他の新左翼セクトとも相性が悪く、特に解放派は中核派並みの敵対勢力であるが、その理由は言わずもがなの内ゲバによる殺し合いに起因する。

安田戦では法文二号館を担当することになっていたが、決戦前夜に主力を引き抜いて「敵前逃亡」を行ったとされている。実際には法文二号館も戦力はアリバイ的に残しており、ただ組織的な抵抗は見せずに投降したと言うことも有って先述の「日和見主義」「アリバイ闘争」と言う評価を浴びることとなったのだが、実はブントも政治局は撤退を命令していて、社学同の独自判断として安田に残ることとした、と言う証言も有る。社学同よりもさらに自己チュー甚だしいセクトである。

社青同解放派

現在では中心組織である「革命的労働者協会」(革労協)と共に「解放派」と呼称される。元々は社青同(日本社会主義青年同盟)の分派であり、学生組織は「反帝学評」(反帝学生評議会)。後年内ゲバでやらかしたので、後に革共同革マル派とはバッチバチの関係になる。

「60年安保」より後に結党しており、ブントや革共同などの共産党系セクトに比べると歴史は10年程度浅い。その起源は、日本社会党の構造改革論が社青同に持ち込まれ、社会主義協会派が構改派(共産党の構改派ではない)から実権を奪うなどの対立を尻目に組織を拡大し、1965年に正式に「社青同解放派」を結成するに至ったものである。巷間に言われる「解放派=革労協」と言う認識は実は真ではなく、総じて社会党左派の部分集合では有ったが、そもそも「社会党左派」自体が一枚岩ではなかったし、方や極左に近いものから中道左派まで有ったのだから、社青同解放派も内部対立が絶えなかった。

これまで述べてきた新左翼セクトが総じて共産党を「日共」とさえ呼ばず、代々木系と呼んできたのに対し、解放派はそうした潮目からも無関係であり普通に「日共」と呼んだ。それも蔑称だが、社会党・共産党に替わる真の前衛党たらんとした反代々木系とは、多少意識の位相に違いが有る。

実は東大闘争において、学生組織である「反帝学評」は一定のプレゼンスを保持していたと言われるが、あまり文献には出て来ない。ゲーム内でも2ユニットと非常に小規模だ。恐らく史実では安田講堂に居たと思われる。

四人用ルールへの提案

さて、「東大安田講堂強襲」は警視庁側・全共闘&新左翼側の2人用ゲームとしてデザインされているが、バリアントとして各陣営に2人ずつの計4人でプレイするルールを考えてみた。

<全共闘&新左翼側>
プレイヤー1:【全共闘・三派共闘】東大全学連・東大青医連・社学同・ML派・第四インター
プレイヤー2:【革共同・解放派】中核派・革マル派・解放派

<警視庁側>
プレイヤー3:1・7・8機(前線指揮所兼務)
プレイヤー4:2~5機

<手番実施フェーズの消化順>
1・7・8機→全共闘・三派共闘→2~5機→革共同・解放派の順

<全共闘&新左翼側の武装チット補充>
・プレイヤー1・2で交代でダイスロール
・チット袋から引くのはダイスロール「しなかった」方から

<警視庁の「前線指揮所」>
・2~5機手番実施時に、1個機動隊に付き1度だけ「前線指揮所」に通信し、8機車両手配など要請可能。
・カルチェラタントラック進行時に本郷キャンパスから引き抜く1個機動隊は「前線指揮所」プレイヤーが決定する。

<第4ターンの日大工兵隊・バリケード補修>
・相談して良い。

こんな感じで回してみようかと思っている。決戦は次の日曜日だ!



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