響 / Sam

生きていることの懐かしさを味わいながら。

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最近の記事

ゆとりある会話を楽しめない人

コミュニケーションにおいて他者への尊重を欠いた自分本位な人が嫌いだ。会話中、無自覚にも自分のことだけを考え、関心のある話題や自分が話せる内容の時のみ、生き生きと話題を奪い取るような人。 食卓で母が軽井沢の蛍の話をしだしたとき、軽井沢ってキーワードを聞いた瞬間に、父は「夏休みの軽井沢いついく?」と話の流れと関係がない、自分が関心ある話に持っていこうとした。彼らは相手の話題を平気で横取りして、罪悪感を抱かない。機能的な情報を好みがちで、日々感じた情緒的な気づきや、人生の余白を彩

    • きっとわかりあえないから。

      会話には、情報媒体である自分自身を切り売りする性質を持つ。特に情報共有型の会話では、自身が過去に見聞き感じた事柄を、言語という輪郭を付けて他者に受け渡すことになる。 共有を重ねると、誰に何を話したのか、つまり誰に何を「渡したのか」を忘れてしまう。渡すたびに自分の中に大切にしまっていた”言葉”の引き出しが空になっていく。他者はそんな事情を気にもせずにさらに情報を求めてくる。そして忌々しいことに彼らには渡したうちの僅かな”言葉”しか残らない。 だから、たまには人と交流せず、ひ

      • 同じ話を何度もする人

        同じ話を何度もする人は、他者にあまり敬意がないように感じてしまう。目の前にいる相手は誰でもよくて、その話をする自分が重要なんだろうと。同じ話を繰り返す人は、罪悪感なく饒舌に、何かのスイッチが入ったように、出来上がったストーリーを機械的に語り出す。その時間は自己完結した話者中心世界であり、聞き手は不在だ。聞き手は分別の負担を強いられ「その話は以前にしていたよ」と口を挟む不粋さを飲み込まざるを得ない。 そうした会話には2つの問題がある。ひとつめは情報創造性の欠如だ。会話の醍醐味

        • イスラームの世界に惹かれて

          初めてのコーラン最近YouTubeでコーランを聴いて寝ることがある。コーランとはイスラム教の聖典だ。初めて聴いたのは2年前、ふらっと行った代々木上原・東京ジャーミィの礼拝に参加したとき。アラベスク模様の美しいモスクの中で始まった読誦に、祈る教徒の方々の姿に圧倒された。ドームに響く音律、一瞬で神秘的な空間に包まれて、自分は一体どこにいるんだと感覚が揺らいだ。仏教の読経とは異なる音でありながら、なぜか身体的に心地よさを覚える不思議な時間だった。 ▼世界で最も美しいコーラン朗読

        ゆとりある会話を楽しめない人

          自分の輪郭を知る安心感

          自分自身の魅力の大きさは、環境や時期、心身の状態、他者との関係性によって左右されるもの。魅力には輪郭があり、目に見えない。他者からは本来の大きさより大きく見えるときもあるし、自分の目では小さく見えたりもする。輪郭を見誤ると天狗になる。身分不相応な振る舞いや発言をし、差分だけ何らかのしっぺ返しを食う。輪郭が不確かだと不安にもなる。必要以上に自分を卑下し、掴めるチャンスを失うこともある。 つまり自身の実像を正確に測るには限界があるのだ。確かめるには、自分より“大きい”か“違う”

          自分の輪郭を知る安心感

          井の中で歌って死ぬ蛙

          なんかさ、ふと人生の先が見える感覚に陥って沈む。公私満足だし将来の不透明感も少ないんだけど、反面その透明度が窮屈というか、閉塞というか。冒険の道筋を描いた地図を先に見てしまった感じ。ドラマ性に欠ける。もちろん今の安定すら今後も絶対じゃない。だから単なる驕りかもしれないし、そもそもドラマ性がなくともそれが「十分な幸福」なんだと受け入れるべきかもしれない。 個人レベルでちょっと仕事ができるとか、社内評価が高いとか、記事に載ったとか、賞を取ったとか。それ自体は素晴らしいんだけど、

          井の中で歌って死ぬ蛙

          心のブラックボックス

          人は誰しもブラックボックスを抱えて生きるものだと思っていた。誰にも見せない自分だけの箱を心に秘めているから、社会と上手く付き合えていけるのだと。 箱は、ストレスを投げ込んで客観視したり、悲しみを置いて時間とともに蒸発させられる場所。 楽しかった思い出もいつでも引き出せて、感情が立ち止まったり、消えていってしまっても、触媒として変化がない場所。 社会と円滑に付き合うために、表面に出さず殺した感情たちが供養される場所。 相手が望む以上に溢れてしまった愛情、日を見ずに終わっ

          心のブラックボックス

          東京にもう飽きてしまった

          人生に飽きた。毎週末同じことの再生産。 ずっとずっと、誰かが作ったコンテンツを消費する側。 身の丈の範囲で、東京で楽しみたいことは大体やった。行きたい店は行った。欲しいものは買った。食べたい物は味わった。新しい場所も訪れた。でも刺激が足りない。「確かめる」作業に終わって、充足感がない。東京で新しい何かが生まれ、気になるたびに追いかけるけれど、結局消耗するだけ。自分には何も残らない。 仕事は順調。できて当たり前。相応の努力もする。でも一個人では世の中になにも残していない。誰

          東京にもう飽きてしまった

          好みのお店の条件

          未熟さは大いに残るものの、店の「顔」を見て美味しい店かなんとなくわかるようになってきた。外食経験の積み重ねからか、好みが明確になってきたのか、良さそうだなと思える店がわかってきた。 良い店の条件は、個店であること(オリジナリティ、ユニークネス)、内装が美しいこと、接客がいいこと、適度な賑わいないし全くの静かであること、何より美味しいこと、その美味しさも大衆的でなく店らしさが表れていること、メニューに妙があること、値段相応感であること、凡俗でないこと。あと個人的に足すなら老舗

          好みのお店の条件

          思春期と大人の間で。

          男友達とよく深夜に出歩いていた。 職種柄、仕事は遅くまで終わらない日々。まともに遊べる時間は週末だけ。その週末すら休息を抜けば実質1日。憂さ晴らしを込めて、夜に時間を求めた。別にキャバクラも風俗も興味ないし、飲兵衛でもない。僕らはただ深夜の街を、ずっと話しながら歩いた。 夜の賑わいが静まった銀座、省庁の明かりが灯った永田町、若者がいない竹下通り、虫の音が響く深夜の代々木公園。そして疲れたら、遠慮もせずに「帰るか」と呟く。タクシーを捕まえてお互いを見送った。 ある夜、

          思春期と大人の間で。

          未熟な大人による優しさ搾取

          普段聴き役に回ることが多い。聴く方が新しい情報が得られて楽しいからだ。ただそれは関係性と会話が健全に機能している場合。ただ同調と共感を求める相談型の会話では話が違う。大切な人ならいいが、そうでもない人で、特に男から「それ」が続くのは嫌気が刺す。情報を排泄する側は楽だが、受け止める・いなす側にもエネルギーが必要だと想像力が足りてない。可愛い赤ちゃんをあやすのは厭わないが、大の大人の甘えは、自分で歯食いしばれとしか思わない。 リモートで対人接触機会が減ってから、自分の寂しさ

          未熟な大人による優しさ搾取

          20代後半がアフターコロナで気にする7つのこと(前半)

          世界恐慌の再来新型コロナに対して一人間として出来るのは感染予防策、周囲の大切な人のケア、正しい情報収集、祈りしかないと思う。むしろ直感的に気にしているのは、アフターコロナの世の中の動きが自分の生き方にどう影響するか。現在20代後半の自分は、2008年のリーマンショック時に中学生。経済なんて何も気にしてなかったし、幸い家庭には実質的な影響はなかった。けれど今は、年齢的にはキャリア形成の分岐点でもあり、プライベート的にもライフステージが揺らぐ年代。そんな中、IMFは世界恐慌以来の

          20代後半がアフターコロナで気にする7つのこと(前半)

          心地よく身分相応に生きる

           心身が健康なうちに、自分が大事にしている考え方を整理する。きっと業務で死んでいた過去の自分が見たら「できないわ」と思うかもしれない。それでもなお、追求すべきあり方として備忘録までに。 割り切る、等身大を切り取る力自分の等身大を見失ってはいけない。「限りを知る」こと。たとえば在宅勤務は覆らないのだから、与えられた環境でどうポジティブに生きるかを考えた方がいい。マスクがドラッグストアになくたってオンラインにはあるかもしれないし、モニターがなくて作業しづらいなら支出調整してお金

          心地よく身分相応に生きる

          閉じこもり生活が楽しい理由

          コロナ禍で閉じこもり生活が続くが、あまり辛くない。なぜ一人でも楽しいのだろう?と考えたところ、自分自身の中で「情報入力・分析のエコサイクルと、内省的な性質が上手く機能しているから」という結論に至った。 分解するとこんな感じ。 まず、世界から受け取る情報量が多い。自身の知識や視点の多いから、同じように街を歩いていても「あの街路樹は◯◯だ」「あのビルの形面白い」「この店って確か有名な…」みたいに、景色の解像度が高い。感受性が〜と言われたらそうだが、アートやセンスだけで語られが

          閉じこもり生活が楽しい理由

          会話という情報の膨張

          情報には弾力があって。会話は、情報と情報の行き交いであり積み重ねであり広がりだ。xyz軸に分けられる。「話が弾む」という言葉があるように、それぞれの情報がうまく重なり合ったり、反発するようにして高さを作ったり、話題が幅を広げてたりすると、話は「膨らんだ」ことになる。質量こそ伴わないが、輪郭はない空間的なもので、体積はある。膨らみは楽しさに比例して膨張するものの、終わってみると散り散りになってしまう。具体的な情報は思い出せない。しかし心にはどうやら染み渡っていて、ふとしたときに

          会話という情報の膨張

          心臓音に想いを馳せて

          2018年の春、瀬戸内海の豊島に行った。 美術館マップを開いて一瞬で「ここは行こう」と決めたのがクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓の音アーカイブ美術館」。世界中の人々が記録した心臓音を聴くことができ、また自分の心臓音を録音できる場所。 美術館は、島はずれの茂み道を抜けた海辺に小さく構えていた。受付は1人だけ、右手にボルタンスキーの書籍、個室の録音ブース。左手にはPCブース。ここで時系列・録音場所別の心臓音一覧が聴けた。左手奥には、真っ暗な部屋の中で、一つだけ吊るされた大

          心臓音に想いを馳せて