私が"私"として生きるために
私は正直、自分が嫌いだ。
何が1番嫌いかというと、
「自分に正直ではない」というところ。
「私が私らしく生きれていない」と感じたきっかけ
人間関係については
相談をたくさんしてしまう
私は困ってて相談できる内容であれば相談する。
けどその相談相手は絶対1人ではなく、5人くらいが私の中ではベストだと思っている。
なぜかというと、1人や2人に聞くとその2人が同じ意見であっても、3人目は違う意見かもしれない、と思うし、2人に聞いて両方違う意見だった場合、3〜5人目の意見がどっちに傾くか、というところが気になってしまうから。
だから、最低でも5人に相談して意見を聞く。
もっといえば、男女で考え方が違ったりするので、できれば半々くらいの人数で聞くようにしていたりしている。
それに、できるだけ多い方がひとりひとり言っていることが同じであればあるほど信憑性が出てくるので、「信憑性がある」と思えるまで色んな人に相談していた。
そんな中で出た意見を私の中で踏襲しながら、
色々考える。
それが私の悩みの相談スタイル。
もちろん言えない悩みは言わないでしまっておいて、自分の中でずーっと考えることもある。
先程タイトルに書いたように、大概私が人に相談をする時は、「人間関係」であることがほとんど。
色んな人がいるからこそ人間関係は悩むもの。
だからこそ、その分「色んな人の意見を聞いてみよう」と私の中でなり、色んな人の話を実際に聞いて「そういう人もいるんだ」と思う時もあるし、「それはないんだな」って思う時もある。
要するにそれって、
私の頭の中で行われる「多数決」みたいなもの。
「多数決」をしたところで
その多数決を行ったところで、「そうだよね」と共感できる意見がくればいいが、共感できない意見が来た時、これもまた違うとちょっと思ってしまう部分もあったりする。
これは心理学でもよく言うと思うが、女性の愚痴や相談というのは「共感して欲しい」の塊であるということ。
まさにそれなんですよね。
でもそれではせっかく意見を聞いて多数決をとったところで、何にもならないじゃないか、って話なんです。
自分について
もっと深く考えてみた
同じ相談内容で色んな男性が相談に乗ってくれて、そこで共通で言われたことがある。
「で、お前はどうしたいの?」
これ。
女性側に相談をしたら、これはほぼ絶対と言っていいほど言われないワード。
けど、男性に相談するとほぼ100%言われます。
(女の子に言われる時は大概ネチネチとめんどくさいなと思われて呆れられた時くらいしか言われない、、)
これがその「女性の考え方」「男性の考え方」という性別の考え方の特徴であるのか、性格なのかはわからないが、ここで相談したときの大体の流れを紹介すると、私の周りの女性はみんな一緒に怒ってくれたり、「うざいね!」って言ってくれたりして共感をしてくれるが、男性は「うんうん」と聞いてくれて、「それはダメだね〜、、で、お前はどうしたいの?」っていう感じで来る。
そう言われると、
「あれ?私はどうしたいんだろう」と
よく分からなくなることが多い。
そりゃそう。
私の中で結論がハッキリ出てないからそう思ってしまうし、ハッキリしないから相談をしている、なのにその質問をされたら困るに決まっている話。それに、私の中でハッキリしていたら相談なんてしないと思う。
でもこれを私の中でもっと考えた結果、今回のテーマにあたる、「私が"私"らしく生きれてない」と思ったきっかけになった。
「私」がない理由
「普通」を探しがち
私は「普通」を探してしまう癖がある。
「私はこう思うけど、これは普通なんだろうか」
「私のこの行為は普通なのか」
ざっくりだとこんな感じです。
別に自分の意見なんてあくまで「自分の意見」であるのに、他人がかかってくると他人のことを考えすぎて、「私が変なんじゃないか」とか、「これは大丈夫なのか」とか、、
そんな感じで不安になる。
その不安を解消するために、きっと色んな人の意見を聞いて、自分の中で「そうなんだ」って確信に持っていきたいだけなんじゃないかなと思った。
恋愛面は特にそう。
経験が浅いし、どんなのが普通であるのか全くわからなくて、相手に「それは普通じゃありえない」とか思われたら嫌だとか、そんなことばかりを考えてしまって、私は色んな話を聞いたりする。
自分の意見や考えがない
あまりにも「普通」を目指しすぎて、先程の悩み事の件のように、「自分がどうしたいのか」というのが明確にない。
いかに普通になれるか、というところばっかり気にしてしまっているばかりに、自分の意見や考えというのはそういう場合はないに等しいのではないかと思った。
なぜなら、他人の気持ちを優先してしまうから。
なんかそう書くとすごく綺麗事のようにも聞こえてしまうかもしれないが、私の悩みは大概「相手にこれを言ったら(したら)どう思うか」が気になるという内容が多い。
恋愛相談もそうだし、彼氏と別れる時もそう。
自分自身の答えは出てるのに相手がどう思うか、できるだけ傷つかないようにどうにかできないか、などを考えてしまうと同時に考えてるうちに自分の気持ちがわからなくなっていく。
このままの方が平和なんじゃないか、とか。
でもそれが自分のことだけを考えるなら離れた方がいいに決まっていることだったりもする。
なぜそうなのかというと、私は自分が傷つくのはもちろんダメージはあるが、それ以上に私の言葉や行為で人を傷つけてしまう方がダメージが大きく感じるからだと思う。
人付き合いの相談をした時
先日人付き合いの相談をした時に感じたことがあった。
「私は友達の考えに染まっているのか、、?」
っていう感情。
その人付き合いの相談をした当初の私の気持ちをざっくり言うと、「ずっと一緒にいたいけど、私は傷ついてる」という感じ。
その率直な気持ちを友達に伝えると、
「自分を傷つけてくるやつは、一緒にいてもいいことないから切り離した方がいい」
という考えが100%。
それに付け加えて、友達はこう言う。
「こっちがこうしてんのに、それに対して何も無いのはおかしい。私はここまでやってるのに、、」
みたいな内容。
確かに私も心の中でそう思っていたが、
「そうされる、ということは私にもどこか悪いところがあったのかもしれない」
「私にも何か非があるに違いない」
という気持ちもあった。
ただ、この感情は自分に対してマイナスな感情で、この気持ちは自分を追い込んで行っていた。
だから、そんな感情がある、という事を伝えると「そんな風に考えちゃダメ」「そういう付き合い方はよくない」と言われる。
これ、かなりの人に言われました。
だから、私の中で
「人付き合いは自分にとっても相手にとってもウィンウィンじゃないとダメ、成り立たない」
「ストレスが溜まってしまうだけだ、、」
と思った。
きっとこの考え方は間違っていないし、
合ってもいないと思った。
なぜなら、「個人的な」考え方であるから。
私はそんなことを考える余裕もないくらい、ひとりで考えて、考えすぎてつらくなっていた。
だから、「そうなんだ、自分にとってプラスに考えなきゃ」と思ってプラスに考えた。
ここでふと思い出した。
私と以前にお付き合いしていた、私の性格を2週間で怖いくらい見抜いてきた彼が
どうせ付き合うなら、
お互いプラスになる関係がいいと思わない?
いつかはお別れする日がくるんだから
それは普通に別れる時かもしれないし、
死ぬ時かもしれない
それはわからないけどね
と、マイナス思考の私に1度だけ言ってきたことがあった。
それに加えて、「プラスのところにマイナスきたらマイナスになっちゃうでしょ?だからプラスにいこうよ」と彼は言っていた。
この言葉、彼の言ったその時のことを鮮明に思い出せるくらい、私の中では衝撃的で、今でもすごく印象に残っている言葉。
私はこの言葉をその時はすっかり忘れていた。
確かに、友達であろうが恋人であろうがお互いプラスになる関係の方のが1番ベストな関係であり、ウィンウィンである関係で、支え合える関係、時には切磋琢磨できる関係なんだろうな、と思ったし、何より自分が辛いことを我慢してまでこの人と付き合う必要はない。
辛い気持ちのそのまま付き合い続けるのは「マイナス」に繋がる、ということでもあるのかなと感じた。
結局これって
私の意見ではない、というところ。
ただ、決定権やどう言うかとかそんなのは私の勝手だし、ほんとに「私次第」。
しかし、私はマイナスにしか考えられない。
だから、プラスの思考を持ってる人にプラスの意見をもらい、自分をプラス思考の考えを思い込ませる。
経験しない限り、
それしか私にはできない気がした。
でもこれ以上自分を傷つけないためには離れないといけないのかもしれない、でも離れたくない、、だからプラスにならなきゃ、自分軸で考えなきゃ私は絶対に離れられない
という気持ちになった。
これは自分を守るために人の考えを自分に洗脳させる、といった方が正確だろうか、、。
ただ、「思い込み」ができるのは「共感出来た」考え方だけ。「確かにな」って言葉が出てこないものに関しては私は思い込ませることができない。
こうして"私"は消えていく。
自分のnoteを読み返すと時間が経てば経つほど、私の中身が行ったり来たりしている気がした。
きっと正確には
「人に嫌われるのが怖いだけ」
私は以前にもこんなnoteを書いていた。
(この時期の話はどっちも酷い話、、)
この時も言っているが、私は基本的に「承認欲求」で生きているのかもしれない。
私と長く付き合いがあって私のことを必要としてくれた人、認めてくれた人というのは、私の中で好印象になりやすい傾向にあって、私は「認められた!嬉しい!」という気持ちになりがち。
思い返せば、私は小さい時からそうだったのかもしれない。
親と喧嘩になったとき、何度か「私なんていらないんでしょ」と言ったことがある。
なぜかというと、よくお父さんに「橋の下で拾ってきた」と小さい頃に言われていたから。
だから、「そんなよその子なんていらないんでしょ」という意味合いで言っていた。
だから、私はずっと親に嫌われてる、邪魔扱いにされてると思っていた。
その反面、両親とも弟はすごく必要とされているように感じていた。
弟はこの目で産まれているのをしっかり見ているし、弟よりも私のことの方が怒る回数が多い。
The昭和な父には怒鳴られ、裸足で外に出されたり、ケツにモミジ作ったりな感じで、怒られない日はないくらいだったし、私からしたら怖いし顔色伺いながら聞いたり、物事を言ったりするようになっていた。
だから、そんな私が「親に認められた!」と思ったある出来事があったときがあって、それはほんとに嬉しかった。
やっと親に認めて貰えた、と心から喜んだ。
それに今出は父も丸くなったし私も大人になったしで怒ってくることはなくなったが、父への恐怖感は完全に消えている訳ではなく、今でも目を合わせるのが怖いなと思う日もあったり、「今日は大丈夫そうだ」と思う日もある。
でもそんな風に思っていても、
私は父にも母にも弟にも嫌われたくない。
自分にしかいない「家族」だから。
自分が仮に3人より前に死ぬことになったら全力で泣いてもらえるくらいの人になりたい、と思っている。
私は学校で「ぼっち」だった
私は小学校から中2くらいまで休み時間はぼっちで過ごしていた。
休み時間は机と椅子を下げても、私は1つずつずらして、自分の席に座れるくらいのスペースを確保して椅子に囲まれながら絵を描いていた。
そんなある日、授業内で「ペアになって〜!誰とでもいいよー!」という時があった。
私はそういう時いつも溢れて先生とペアになるか、支援学級の子とペアになるかのどちらかだった。
その「ペアになる」授業のときは、自分が「友達だ」と思っていた子が違う子のところに行くのをいつもひたすら見ていた。
その度、現実を見ている気がして、「そっか、、」って悲しい気持ちになった。
この時の私は本来なら休み時間一緒に遊んでる他の子が「友達」であることに気づいていなかった。
それが「普通」であることに気づけていなかった。
3年生か4年生くらいの私は母に「クラスに友達いる?」と聞かれた事があった。
「いるよ」と答えると母は「いつもその子と休み時間遊んでるの?」と聞いてきた。
「遊んでない」と答えると母は「それは友達って言わないよ。普通、友達っていうのは毎日一緒に遊んでる子のことを言うんだよ」と言ってきた。
そこで私は「普通の友達」を知り、同時に「友達がいない」ということを初めて気づかされた。
そこから私はクラスに友達をひとりでも作るようにした。
その為には「嫌われないようにしなきゃいけない」という気持ちが強くありました。
だからハブられてるのも、嘘つかれてるのも気づけない時もあって、真面目に「そうだったのかな、自分が悪かったのかな」と思って過ごした時期もあった。
ある時は友達が私の好きな人を知って「あの人にさなのこと聞いてみたけど、あんなやつむり、キモイ、ブスって言ってたよ〜可哀想すぎる、、」と言われたこともあった。
それも本気で受け止めてしまったが故に、私はそこで容姿に自信がなくなった。
あるきっかけでその子たちが私に嘘をついてからかったりハブにしたりしていることを知ったその当時の好きな人は私のことを助けてくれました。
(あの頃の青春、、)
そこで「私は悪くなかったんだ」と思えて少しほっとしましたが、それらのことは今でもこうやって鮮明に思い出せるくらい脳裏に刻まれています。
だから
私は人に嫌われるのが怖い。
普通の友達がいなくなるのが怖い。
私の容姿はキモいから、
その分中身を磨かなくてはいけない。
人の気持ちを人一倍考えなくてはいけない。
そんな気持ちが奥底にあるからこそ、人と何かを決める時も「私と意見が合わなかったらどうしよう」って思ってしまい、「この子ならこれ選ぶかな」と考えて優柔不断になり、「決めていいよ」って委ねる結果になる。
「さなちゃんどっちがいいの?」って聞かれたら、その子が選びそうな方を選んだり、「いや決められない!優柔不断だから!」って答えたり「私ならこれかな」って言って、「じゃあそれにしよう」って言われと、「大丈夫かな」って心配になるから、私はいつも任せてしまう。
人とたくさん話した後も、「こんなこと言っちゃったな」とひとりで反省会をするのがいつもの日課。
思い返しては反省、モヤモヤしたら相手に謝る。
これを正直に言えば、「もっと軽めに考えていいんじゃないの?」と言われるのが関の山。
でも私はこんな人生を生きてきてしまったからには、この人生で色々学んでしまってるが故に根本的な部分から変えることはかなり難しいだろうな、と思っている。
人生において、傷より、経験より大きな何かのきっかけがないと人は変われないと思っている。
でも自分で「変わろう」と暗示をかければ表は変わることができる。
すっごいプラス思考じゃなくてもいい。
中学の頃、今まで貰ったこともなかったのに1年で賞状を何回か頂いたのをきっかけに部長やったり、副委員長やったり、ボランティア活動もしたりしてた自己肯定感爆上がりのあの時代ほどでなくてもいい。
少しでもプラスになりたいから、私はプラス思考に考えて生きることがベストだし、それが癖づいてくれて根本的なものになれたらいいなと思っている。
でもそれは
無理矢理自分を変えるための手段であるが故に、「あまりよくない」と思う人もいるかもしれない。
それに私は仕事は臨機応変に柔軟に考えられるが、厄介なことにそういう自分自身の決め事や自分の考えについてはちょっと頑固。
仕事についても元々はちょっと頑固な面があって、「絶対これの方がダサくないな」と思ったら、お客さんの言うことなんて無視して1案作ったこともたくさんある。
でも、どれも正解も不正解もなくて、自分自身のことは自分でこれがいいと思ったら、それが正解かもしれないし不正解かもしれない。
デザインに関してだって、私の案がお客さんに正解として選ばれるかもしれないし、選ばれないかもしれないし。
それに、この「人に相談して踏襲して考える」というのは、人によっては「人任せ」と捉える場合もあるかもしれない。
けど、これは「人任せ」にしているのではなく、私の中の1つの「人生の学び」や他の人の経験や意見を聞く、といったことと同じだと捉えて欲しい。
正当化してるとも言われそうな気もするが、私はそっちの方が色んな人の意見も聞けて、自分の身に起きたことだけを経験値として積んでいくよりも「そういうこともある」「そういう考えもある」と思って理解をしておいた方が心が広くなる気もするし、心が広い分、色々豊かになれて自分の気持ちに余裕ができる気がする。
なんだか長くなってしまったし、上手く書けてる気がしないが、私はまだまだ幼い考えを持ってるなって痛感することもたくさんある。
だからこそ、考え方も大人になるためにこれからも自分自身を磨きたいなと思う。
相談をする度に色んな考え方をインプットして、心や考え方のアップデートをしながら、これからの人生にいかしていきつつ、私探しをして、いつか自分らしく、"私"として生きていきたいな、と改めて思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?