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頭痛が痛い。腹痛が痛い。精神...。

クソ暑い。脳が熱暴走です。今日はこれから出所祝いしてもらいに都心に出るのですが、このままだと暴言の一つや二つ吐きそうなので、頭の中を整理するためにこれを書きます。面白くもないし、気の利いた事も言えないので、この文章はスルーでお願いします。

さて、人間の精神というものが、そもそも「病気」という考え方は、突飛なことでもなく、岸田秀なんかも分かりやすく解説しています。

猫は暑いと思って土間のコンクリートで涼む訳ではなく、本能的に体温調節しているだけです。
蟻んこが、人間に踏みつぶされる事に遺恨が生じれば、人類はあっという間に蹂躙し尽くされるでしょう。昔、手塚漫画にそういうのがあった。

人間が万物の霊長と錯覚できるのも「精神」があるからで、生命の中でこれを持つのは人間だけ。
つまりは自然存在の中で人間は「精神」という病気を抱えているという考え方です。

その立場から言うと精神病とか、精神失陥とか、そういう単語は、「病気の病」のような二重形容の響きがしてならないんだなあ。

人間に精神という病気がいつ生じたかは分かりませんが、人間はかなり昔から、この「精神」と向き合って、この謎を解き、人間の存在価値を見出そうと試行錯誤をしてきました。

古代ギリシャの暇人は、実存とは別の本質というものがあると考え、全ての実存の根源が、火であるとか、水であるとか、種子であるとか、なんだかんだ考え、その集大成がプラトンのイデア論。

実存は本質(イデア)のコピーで、例えば何かを「美しい」と感じるのは、イデアのコピーでもある人間が、美しい実存の中に「美」のイデアを見い出すから。だいたいそんな話です。

プラトンの弟子、アリストテレスは実存世界の常識を持っていたので「そうかもしれないけど、学問はそればっかだと深まらないから、本質を考える学問と実存を考察する学問に分けましょう」ってな感じで、実存の学問として論理学や自然科学や社会学を哲学と切り分ける訳です。

そっから、ヨーロッパの人は多分考えるのが面倒くさくなり、本質は「神」ってことでいいじゃん。この世の全てが「神」の思し召しってことにすれば楽でいい。でキリスト教の時代になる。

一方でアリストテレスの作った実存の学問は、少しつづ進化をしていく。そのうち「神ってなんだか不条理だよね」と疑問が生じてきて、ルソーという人でなしが暴れたり、遂にはニーチェみたいに「神は死んだ」とおおっぴらに言う梅毒の男が出現し、サルトルというシュッとしたヤツが「実存主義だぜ」とキメ台詞を吐く訳です。マルクスも似た感じたけどドイツ人だから「立てよ労働者諸君。唯物論なのだ!」かな。

ここに至るまで2000年くらいかかってますが、ギリシャ人が本質の議論に明け暮れていた頃。インドにめちゃめちゃパンクな人がいました。

「全ては実存。実存は消えゆく。実存の苦しみに効く薬はないから、大人しくクソして寝てろ!」

ブッダです。あまりにもパンクすぎて、弟子たちは色んな形で彼の考え方を表現しようとしたため、誤解や誇張混じりで仏教は出来上がり「結局お釈迦様って何が言いたかったの?」となる人もいますが、ブッダのテイストは深いところで、ちゃんと受け継がれているから、寺院に行けば「寺ってなんだかパンクじゃね?」と勘の良い人は気づくはずです。

あ~。なんだか落ち着いたので、行きます。まあ僕の排出物みたいな内容ですから、読んで損したと思われるでしょうが、初めにスルーしてと書いてるからご了承ください。

酒が飲める飲めるぞ。酒が飲めるぞ♪♪

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