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台風が近づくとテンションが上がる問題

感受性が摩耗していなければ、自然の脅威は防衛本能を刺激するので、アドレナリンが分泌されて、興奮状況になるだろう。だから驚くには値しないし、それ自体は人類共通と思われるので、The Japanでもないのだが、これを大っぴらに口に出すと「被害を受けた人に対して不謹慎」という声が上がるのがThe Japanかなぁ。

そもそも、僕は「他人の不幸」を見て興奮するとは言っていない。にも関わらず「こんな事を言うヤツは人間のクズ」くらいに捉える人も多かろう。

一事が万事説

という推論だ。たった一つの事象を取り上げて、全人格を否定する。
これと似て非なる慣用句に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というものがある。これはアプローチが逆なんだな。大雑把に考えるとして、坊主は袈裟よりも、より大きな範疇といえる。だから「袈裟憎けりゃ坊主まで憎い」というのは、表現としてやや微妙に感じるだろう。

よくある性格診断というのでも、設問は幾つもあって、ある程度多角的な要素からラベリングを行う。
例えばこんなやつ。

シンプルな事象だけで「こういう人」と断じる推論は、主に個人の経験則に基づく。ただ、経験則自体を否定する事はできない。
何故なら人は日常的には経験則に従って生活しているからだ、なんでもかんでも論理性に基づいて行動していては、時間もかかるし、多分脳みそがキャパオーバーするだろう。

まあ、横文字で言えはヒューリスティックというヤツだな。

ヒューリスティクスまたは発見的(手法)とは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、回答に至るまでの時間が少ないという特徴がある。
出典元:「ヒューリスティクス」Wikipedia

問題は、経験則と論理性を分けて考える事ができず、ごっちゃになっている事だ。
そして、経験則で導いた結論を、さも論理性の結実のように上書きする行為がまかり通る。

では論理性とはどういうものかというと、アリストテレスの論理学を紐解けば、「質と量の違い」に基づいた、大前提-小前提-結論という三段論法には、まず定言、仮言、選言の種別がある。
基本である、定言的三段論法は、全称肯定文(A)、特称肯定文(I)、全称否定文(E)、特称否定文(O)この4つの組み合わせ(256通り)からなり、そのうち正しい結論が導かれるのは24通りだ(弱い5つも含む)例えば、

大前提:全ての生物は死ぬ
小前提:全ての人間は生物である
結論:全ての人間は死ぬ

これは全称肯定文三段によって構成された論理で、AAA型の正しい命題である。昔の人はbabaraと暗記した。母音だね。

あ~。暴走した。すいません。

詳しく知りたい方はググってみて下さい。でも分かったでしょ。論理とはめんどくさいんです。だから普段は経験則で問題なし、ただ経験則と論理性は別だという事は分かっておいた方が良い。
そして経験則は「認知バイアス」が、かかりがち、という事も認識しておくとなお良い。

認知バイアスとは、認知心理学や社会心理学での様々な観察者効果の一種であり、非常に基本的な統計学的な誤り、社会的帰属の誤り、記憶の誤り(虚偽記憶)など人間が犯しやすい問題である。転じて認知バイアスは、事例証拠や法的証拠の信頼性を大きく歪める。
出典元:「認知バイアス」Wikipedia

だからね。例えば、個人の経験則で「配慮を欠く発言をするヤツはクズ!」という推論があったとして、それが経験則じゃなくて論理的にどうこうと語るのはヤバい。

そういう人に「論理的じゃないよ」とツッコミを入れると、たいていは「みんな言ってるから、偉い人も言ってるから」と「世間」をもちだすんだな。そういうヤツは。(これは僕の経験則だけどテヘペロ)

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