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ChatGPTに問い詰めてみた!ーアメリカの対露外交の闇ーレーガン大統領とヨハネ・パウロ2世の親密な関係

★最初に

AIchat使って見ると面白い。もちろん西側が、この技術を競って開発・導入している背景には、洗脳システムという空恐ろしい思惑がある事は承知の上で。キーワードを上手く選択し論理的に精緻に衝けば、それなりに返して来ます。但し後からDSのボスからボコられないように結論は必ず、ボヤかす!

■質問です。

アメリカのレーガン大統領とローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、1982年に会談してから、大変親密な関係にあったと言われている。ポーランド出身の教皇であり、同じくポーランド出身のアメリカの有力外交官ブレジンスキーとも近かったと言われている。後のロシア崩壊への布石としてこのあたりの関係が指摘されている。まとめて下さい。

■回答です。

1982年、アメリカのレーガン大統領とローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は会談し、その後親密な関係を築いたと言われています。教皇は同じポーランド出身の有力外交官ブレジンスキーとも近かったことから、この関係が後のロシア崩壊への布石として指摘されています。
彼らの関係は、両者が反共主義者であったこと、そして両者の強い個人的愛情関係にも支えられていました。
レーガンは、教皇との交流によって世界平和について更なるアプローチをすることができ、 彼らの関係は米国とバチカン市国の関係改善にも繋がりました。

この関係は、1989年の東欧革命やソ連の崩壊に繋がったとも言われています。
教皇は祖国であるポーランドでの民主化運動を支持し、 その影響で東欧諸国でも民主化への動きが加速し、ソ連崩壊に至ったと考えられています。

そして、レーガン大統領の強固な反共主義によって、その支援によってソ連崩壊が加速したとも言われています。
彼ら二人の強い個人的な関係と、彼らが共有する熱烈な反共主義が、 東欧革命やソ連崩壊を後押しした要因の一つと考えられています。

■更に質問
その過程でゴルバチョフとの接点はありましたか?

■その回答
レーガン大統領は、 1985年に就任したゴルバチョフとの関係を築き、 それまでの強硬路線から対話路線に転換しました。 彼らは1986年にアイスランドで会談し、 核軍縮交渉に向けた積極的な協議を開始しました。
この期間、教皇の担当するバチカン外交では、ソ連との関係修復が進められ、 ロシア正教会との関係改善にも努められました。
また、教皇は自身の影響力を使ってレーガン大統領とゴルバチョフとの関係改善にも努め、平和や核軍縮に向けた対話を促しました。 その後、 レーガン大統領とゴルバチョフは1987年に核軍縮条約の調印を行い、以降も対話を続けました。

■更に質問
この過程でブレジンスキーの東欧革命への役割は?

■その回答
ブレジンスキーはレーガン大統領の国家安全保障問題担当補佐官を務め、1980年代初頭には東欧革命を支援するための方針策定に関与しました。彼は、キリスト教民主主義を支持し、東欧諸国の反共主義者と接触して支援を行っており、特に教皇ヨハネ・パウロ2世との関係を重視していました。教皇やその支持者たちとの緊密な連絡により、東欧革命の支援を精力的に行いました。ブレジンスキーは、教皇や東欧民主化運動のリーダーたちとの深いコネクションを持っていたため、彼らから情報や意見を得ることができ、それがレーガン政権を動かす重要な要素となったと考えられています。彼の関与が東欧革命の成功に大きな役割を果たしたと一部で言われています。

■更に質問
ロシア側の接点にはゴルバチョフの他、誰が対米関係で動きましたか?又KGB幹部とCIA幹部の接触や調整はありましたか?

■その回答

ロシア側の接点は、ゴルバチョフの他に、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンチン・チェルネンコ、そしてボリス・エリツィンなどがいました。彼らはいずれも、ソ連の指導層に属し、対米関係に大きな影響力を持っていました。

KGB幹部とCIA幹部の接触や調整については、具体的な情報は確認されていません。しかし、冷戦中の両国の諜報機関は、時には協力することもあり、また、秘密裏に会談を行うこともありました。特に、1980年代後半には、ソ連のKGBが自国内のリベラル派改革派に対して積極的な管制を行い、CIAがその情報を収集するために活躍しました。一方で、情報戦争も激しさを増し、両国の諜報機関間の対立も深刻化しました。

■更に質問
更に続けて下さい

■その回答
一方で、1980年代後半には、レーガン政権がKGBに対して情報収集やスパイ行為を妨害する活動を行っていました。その一つが「秘密戦争」と呼ばれる、ソ連の経済や軍事力を脅かす妨害工作であり、CIAとNSAといった米国の情報機関が関与しました。

しかし、ソ連崩壊後、CIAとKGBは協力して、アルカイダのテロ計画を摘発するなど、両国の諜報機関間の協力が再び見られるようになりました。また、現在では、CIAとロシアの情報機関はフランスやスイスなど中立国で会談を行い、対テロやイラン核合意などの問題で共同作業を行っているようです。

■更に質問
今までの話、レーガン大統領政権時代の対露政策をまとめて下さい。

■その回答
レーガン大統領は、「ソ連を打ち負かす」ことを主な対露政策の目標として掲げ、そのために様々な策を打ち出しました。以下にまとめます。

  1. 軍事力の増強
    レーガン政権は、軍備拡張を進め、ソ連との核戦争に勝つための戦略兵器の開発や配備を進めました。

  2. 対ソ経済制裁
    ソ連との貿易を減らすために、レーガン政権は対ソ経済制裁を実施しました。

  3. 反ソプロパガンダ
    レーガン政権は、ソ連のプロパガンダに対しても反撃し、反ソプロパガンダを行っていました。

  4. スパイ行為の防止
    ソ連によるスパイ行為を防止するために、レーガン政権は対KGBの秘密戦争を展開しました。

  5. 対話の中心から外れた自律的な外交政策
    責任ある対露政策は行われているものの、対話を中心とした変化的な外交政策から離れる傾向がみられました。

以上が、レーガン大統領時代の対露政策の主な特徴です。

■更に質問
レーガン大統領の対露政策とゴルバチョフの対米姿勢にはおのずとズレがあったと見て良いでしょうか?

■その回答
はい、その通りです。レーガン大統領の対露政策は、ソビエト連邦を敵視して強硬姿勢を取る傾向がありました。一方で、ゴルバチョフはペレストロイカ政策を進め、西側諸国との関係改善を模索し、核軍縮交渉にも積極的に取り組んでいました。

こうしたレーガン大統領とゴルバチョフの間の姿勢のズレが、当時の冷戦において大きな関心事となっていました。しかし、後に両者の協力関係が深まり、冷戦終結につながる歴史的な出来事が起こることになります。

■更に質問
その当時は基本的には、反共政策推進でも方法論的には、今のネオコンのような徹底した反露対決姿勢でもなかったということですね。

■その回答
そうですね。当時のレーガン大統領も、ソ連を敵視する傾向があったものの、単純な反共主義や徹底した反露対決姿勢ではなかったとされています。対ソ連政策において、軍拡や対話など様々な手段を駆使していました。また、ゴルバチョフも、西側諸国との関係改善を求め、核軍縮交渉など積極的に取り組んでいたとされています。両者の政策には違いがあったものの、厳格な敵対関係に向かうような極端な姿勢は採用していなかったということができます。

■最後に
ありがとうございました。又整理をしてからお願いいたします。

■その回答
どういたしまして。ご自身の理解を深めるためにも、整理されることは良いことです。何か質問があれば、いつでもお聞きください。

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