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スイスの移民は時計産業にどのような影響を与えてきたのか


 

目次

 

序章 探究をするにあたり

一節 疑問の発端

二節 疑問

 

第一章 時計王国スイス      

一節 スイスと時計

二節 スイスにおける時計

三節 現在のスイス時計の立ち位置

 

第二章 人材の流入  

一節 スイスの起源

二節 スイス時計の起こり

三節 ブレゲ

四節 パテック

五節 I W Cとジョーンズ

六節 ウイルスドルフと腕時計

七節 スウォッチ

 

第三章 結果と考察

一節 まとめと考察

二節 戦略的永世中立国

三節 スイスの移民と今後の展望

参考文献

 

 

 

序章

一節 疑問の発端

 

私は高校三年間をスイスで過ごした。レザンという標高2000メートル近い山の山頂付近にある、村としては大きな部類に属する村であったのだが、外国に国籍がある者の割合が六割以上というなんとも奇異な環境であった。田舎といえば保守的というイメージの強かった私の目にはどこか現実離れしたように映った。サッカーのW杯でイタリアが勝った際には改造した車でイタリア国歌を大音量で流しながら一晩中村を走り回った者もいた。そんな負の側面がある中でも、彼らは様々な面で共存しており、村の高いところに比較的高所得者が住み、低い所には低所得者が住むというおかしな慣習もあるにはあったが、彼らは対立する様子はなく、むしろ表面上は暖かなものがあった。スイスの移民との結びつきの強さはどこから来るのだろうという疑問が湧いた。今回のスイスの時計産業を移民という観点で分析しようと思いついたのも、私が以前スイスにて経験した移民との共存に寄るところが大きい。

 

 

二節 疑問

 

商品の価値というものは何で決まるのだろうか、デザイン、性能、特殊性、他者からの評価おそらく全てが要素として当てはまる。人間というものは何かに価値を見出す際、または何かを購入する際には、自らの感性を意識するであろうが、そのブランドの価値を当然意識する。無数にある時計の中から自らの趣向のみで一つを選び出すことのできる人間などそういまい。それは人間が社会的な生き物であるからで他者からの評価なしでは何も決まらなくなってしまう当然ことだ。故に商品の購入においてブランドというものは大きな意味を持つ。こと時計に関しては現在趣向品としての様相が強くなりつつある。長い年月を誠実に時計に向き合ってきたという信頼こそが値段となって現れてきたのではないか。そして何が彼らの誠実性となり、情熱となったのか、それは競争なのではないか。そしてスイスの移民たちは、どのような影響を時計産業に与えたのかをこの探究にて明らかにしたい。

 

 

 

 

 

 

第一章 時計王国スイス

一節 スイスと時計

 

スイスには優れた産業が多数存在している、加えてそれらの産業は昨日一昨日の産物ではなく長いスイスの歴史の中で培われた技術であり英知の結晶である。彼らの作る製品は尊敬され一種のブランドとして確立されるほどである。なぜ彼らは国土の八割が山脈である不毛の土地に高度な産業を築き上げる事ができたのか。それは彼らの努力と、自由と独立ひいてはスイスという共同体への帰属意識に対する執着心の賜物であった。その執着心こそが中世時代に軍事力を傭兵という形で海外へ送り出すことしか能のなかった後進地域を、現在のような世界最高峰の技術先進国にまで押し上げたのだ。そして、時計産業は常にスイスの発展ともにあったといっても良い。実際にスイス時計産業はオメガやロレックスなどの著名なブランドを多々輩出した。

 

 

二節 スイスにおける時計

 

私はスイスに住み、旅をしてきたが本当に時計の数に驚かされる。私の住んでいた村のコンパクトなお土産屋のショーケースに大量の腕時計がアーミーナイフとともに並んでいる。このような光景は他の国々では決して目にしなかった。またチューリヒ空港のショップにもかなりの数の時計が立ち並んでいた。お土産用の安価なものから、一流のビジネスマンがつけても見劣りしない高級志向のものまで幅広くあった。特に空港の時計は面白く、私のような若者が手を出せそうで出せない価格設定のものが一番多い。具体的には400スイスフランから1000スイスフランほどである。(1スイスフランは150円−160円)ロレックスなどのハイブランドは独自の店を構えているために雑貨屋などには並ばない。反対にツェルマットやベルンなどの観光地では比較的廉価な時計がショーケースの大部分を占めている。(30スイスフランから150スイスフラン)ロレックスなどのハイブランドもあるにはあるのだが、所謂お土産さんと言われるものが大多数を占めていた。そしてデザインもスイスの国旗がどこかに描かれているものが多く、スイスそのものがブランドとなっている事が伝わってきた。このデザインは、廉価な観光客向けの時計だけではなくおそらくビジネスマンなどを対象とした比較的高級趣向の紳士時計などにもこのようなデザインが採用されており、陳腐に見えずむしろ高級感を醸し出していた。


 

三節 現在のスイス時計の立ち位置

 

時計王国スイスは伊達ではない。それを表すが如く多種多様な時計が存在する。高価なものは日本円にして億の単位で売買される時計が存在する一方、観光客用のものとなると一万円を下るものも大量にある。同じく時計の生産国である日本とスイスの差はこのバリエーションの多さにあるといっても良いであろう。日本の時計産業は技術力で一時は技術力だけで見ればスイスを凌駕しスイス時計を危機に陥れるに至っていたが、現在の日本に俗にいうハイブランドと呼ばれるメーカーは少ない。おそらく唯一と言っても良いグランドセイコーであるが値段という面ではパテックフィリップ、ブレゲなどのスイスにおけるトップクラスのメーカーには及ばない。

 

 

 

 

 

 

 


 

第二章 人材の流入

一節      スイスの起源

 

スイス建国の際、彼らは神聖ローマ帝国、すなわちハプスブルグ家からの独立を完遂する。いくたびものハプスブルグ家からの派遣軍を撃退したことはウイリアムテルの物語を通して神話となった。この事がのちのスイス人に与えた影響は大きく、現在に至るまでに誰からも支配されないというスイス人の強い動機の一つとなっている。中世では主に傭兵を各地に派遣し彼らの存在感を高めた。時には敵味方に別れて同じスイス人同士で殺し合うこともあった(フランス革命時)彼らの仕事ぶりが評価される一因ともなる。ちなみに現在でも慣習に基づきヴァチカンの警備はスイス人傭兵が担っている。そんな国是として専守防衛に全てを捧げてきたスイス人でもあるが、領土拡大に熱意を持った時期もあった。しかし彼らは1515年のミラノを巡る戦い(マリニャーノの戦い)で敗北してしまった。このやはり地の利を活かした戦いが性に合っているのであろう。この敗戦の後スイスの拡大政策は終焉を迎え中立の道を模索始める。翌年にはフランスとフリブールで永久平和に署名した。このことはスイスの拡大政策を今日に至るまで諦めさせ、専守防衛に撤しさせた。このことが産業発展の契機となった。

 

スイスは独立以来複雑な欧州情勢に向き合い多くの小国が簡単に大国の思惑次第で消滅する中で自らの立ち位置をよく考え、時には欧州各国にとって都合の良い国を演出する事により、自らが生き残る道を模索してきたと言える。スイス人のアイデンティティーは権力に対する独立の精神である。つまり何者にも支配されない、あくまでも独立を保つというところにある。故に防衛と親和性が高く現在は永世中立国を謳い専守防衛に徹している。この要素がスイスという土地において時計が発展する土台となるのであった。スイスの時計産業の発展において彼らの中立かつ独立を守るという強い意志によって時計産業は守られ、発展し近年世界屈指の時計産業国へと成長させたと言える。

 

 

二節 スイス時計のおこり

 

スイスの時計の起こりは意外にも西欧諸国と比べると早いとは言えない。そもそも時計の起こりとはキリスト教の修道院たちの礼拝の時間を知るためのものであり、13世紀後半には最初の時計ができていた。スイスの時計産業は16世紀のジュネーブから端を発する。その際の時計産業の中心はフランスのブロアとパリ、南ドイツのアウグスブルクとニュルンベルグであった。ニュルンベルグでは錠前工が片手間で時計を作り始め1565年には既に時計工ギルドが結成された。主にアラーム付きの首掛け時計が生産された。パリは1544年に時計職人ギルドが結成された。1597年に時計職人ギルドが結成されたブロアでは小型時計が作られていた。一方スイスは時計製造などやっておらず、代わりの産業として宝飾細工があった。特にジュネーブの職人達の作品は貴族の間で高い人気があったため、時計など作る必要が無かったとも言える。

 

スイスの時計の歴史は16世紀のスイスの移民であるユグノー達に帰結する。それ以前の産業は宝石職人たちによるものでありアクセサリーをヨーロッパ中の王室に輸出していたわけであるが、宗教改革によるプロテスタントの台頭により事態は一変する。当時ジュネーブにはカルヴァンが居住し、彼の推し進める宗教改革の枢軸都市であり、プロテスタントのローマと渾名されるに至っている。カルヴァンは贅沢を嫌っており、宗教改革の一環として市民に宝石の装飾品を身につけることを禁じていた。そんな彼らが既存の権力と強い結びつきを持っていた宝石職人達を見逃す筈もなく、彼らは軒並み失業することになった。一方、フランスの時計職人の多くはユグノーと言われるカルヴァン派のプロテスタントに転じた。1562年から1598年にわたってユグノー戦争を戦い、アンリ4世のナントの勅令にて新教徒の信仰の自由を勝ち取ったが、1572年にはカトリーヌドメディシスによるサンバルテミーの虐殺において2万人のユグノーが殺害された。厳しい迫害や弾圧に耐えきれずに多くのユグノー達がカルヴァンの拠点を構えるジュネーブへと逃げてきた。

 

文献によるとユグノー達はかなりの知的集団だったことが窺える。哲学書を読み、聖書を読むことができた事に加えて高度な数学を扱えたという。彼らは商売熱心であり、ヨーロッパ中の商業拠点に緊密なネットワークを持っていた。たくさんの文献において彼らが当時最先端の知的集団だったことが記述されていた。最先端の知識と教養を兼ね備えていただけに、時計職人達は腐敗したローマ・カトリックに嫌気がさし、こぞってプロテスタントであるカルヴァン派に転じたのであった。そんな高度な知的集団であったユグノー達がジュネーブに殺到し、そこで生活の基盤を作った際に様々な産業が誕生、発展した。その中の一つが時計だったわけだ。

 

ユグノー達が持ち込んだ時計の製造技術は失業中の宝石職人に広がることとなる。手の器用さやエナメル加工の技術をすでに身につけていた元時計職人達にとって時計製造は雑作もなかった。時計は実用性があるとカルヴァン主義者に認められたため、1610年には最初の時計職人のギルドがジュネーブに結成される。すぐに飽和状態となったため、入会規制が厳しくなり多くの職人達はジュネーブで時計職人になることを諦め、新天地を目指しスイス各地に散らばったのであった。ユグノーの時計職人達は実業家としての側面も持ち合わせており、冬場何もしていなかった農民達を雇い入れた。スイスの降雪量は凄まじくそして長い冬の間を室内で過ごすため、内職として瞬く間に各地へ広がった。スイスの国土の58パーセントがアルプス山脈、11パーセントがジュラ山脈となっている。このような地形がスイスの時計産業発展の一因となった。秋に部品を買い入れ豪雪の影響で農作業ができない冬に引きこもり備品を組み立て、春になると街に降りて商人に買い取ってもらう。このような農民たちと一体化した仕組みをユグノー達は作り上げた。

 

 

三節 ブレゲ

 

時計好きであるならば誰もが目を輝かせて然るべき名前であると言われるブレゲ。現在Swatch傘下のスイスを代表するブランド名であるが、その創業者にして時計界のレオナルドダビンチと謳われた人物がいる。その名はアブラアム・ルイ・ブレゲ。時計の歴史を彼なしでは語れない程に様々な技術を開発し、天才と名高い人物である。彼の顧客リストにはマリーアントワネット、ナポレオン1世、ロシア皇帝アレクサンドル一世などが名を連ねた。

 

そんな輝かしい実績を時計産業史刻んだ彼であるが、その生涯は波乱に満ちていた。1747年、一大時計産業地であったスイスのヌーシャテルに生を受けた彼は、15歳の時にベルサイユの時計職人のもとに年季方向に出る。修行を終えるとパリにブレゲ時計工房を開き、ルイ16世の王室に腕時計を供給し続けた。航海術や天文学、生物学にまで興味を広げた彼は時計技術の上で様々な発明を成し遂げ、獄中のマリーアントワネットが処刑されるまでこの地で時計を作り続けた。マリーアントワネットに「時間も費用も一切の制限を取り払い、複雑な機構のすべてを盛り込んだ世界最高の時計を作って欲しい」と依頼され制作した時計は、復刻版にもかかわらず日本円で50億もの価値があると推察されている。本物は盗難に見舞われ、未だ消息がつかめていない。完成まで44年もの歳月がかかったためマリーアントワネットは完成の日を見ず処刑されてしまった。そのためブレゲは故人を惜しみマリーアントワネットとこの時計に名前をつけた。

 

そんな彼にフランス革命という大きな転機が訪れる。ジャコバン派の頭であるロベスピエールは恐怖政治を展開、司法手続きが簡略化された結果、ギロチンによる処刑が常態化する。フランス王室と強い繋がりのあったブレゲの身も危険晒され1793年8月には息子と妻を連れスイスへと脱出している。そのちょうど一年前に当たる1792年8月10日にはパリにてスイス人衛兵の大逆殺事件が起こっており、チュイリー宮殿にてルイ16世とその家族を民衆の手から守らんとしたが敗北し、スイス人傭兵の部隊786人が全滅する。最終的に数千人のスイス人が死亡した。この悲劇は当時のスイス国内に衝撃を与え翌朝の朝刊の表紙に大々的に報じられた。この際、殺害された786人を弔うためにこの嘆きのライオンが造られたのだと2022に私をジュネーブに案内したガイドは語った。

ジュネーブはすでにフランス勢が食指を伸ばしており、危険だと判断したブレゲは友人の勧めもありヌーシャテルに移り最終的にはルロックルにとどまり小さな工房を構え、イギリス王室、ロシア王室に時計を供給し続けた。ブレゲは二年間流浪していたがこの期間に機会時計製造業において重要な発明をいくつか残している。

 

1795年にはパリに復帰しても問題ないと考える。当時のヴェルサイユの時計産業は崩壊しており、ブレゲは歓迎された。ブレゲの力があれば復興できると信じていたからであった。当時ナポレオンは徴兵制に加え軍備を拡大、世界制覇の野心を抱いていた。陸海軍にとって時計は必需品であり、これに協力すればかなりの財が築ける筈だったが、ブレゲはこの話をすぐには引き受けなかった。工房を再建し、恐怖政治時代に被った損害を保障するように求め、さらに速やかなる事業再建のためと称し職人には徴兵免除を要求した。その後、ブレゲ二年間の追放中に考案していた新しい時計を次々に開発し、1823年に大金持ちの77歳としてこの世をさり、家族に事業を引き継がせた。

 

1870年ごろブレゲの孫に当たるルイ=クレマン・ブレゲは当時の工房長であったイギリス人エドワード・ブラウンに同社を売却した。その後様々な各企業の手に渡ったが1999年にSwatchグループに買収された。現在に至ってもブレゲの意思を忠実に守っており最低でも百数十万、最高価格で奥の単位に達する時計をごく少数だけ製造し続けている。2010年度の総売り上げは、スウォッチグループ全体の収益の16%を占めている。

 

ブレゲはスイスという時計産業が発達した場所に生まれながら、フランスを主な活躍の場とした時計職人であった。この彼の人生は外からの新たな刺激によって発展するスイス時計産業を象徴している。加えて彼らの顧客はあくまで外国人であり、スイスの時計職人たちの目が外に向けられ、その重要性に気がついていたことを示唆しているのではないか。スイスの時計は圧倒的に輸出がメインであり、外国の流行や情勢を把握し、需要にあった時計を作ることでスイスの時計産業は今日まで続いてきた。現在もスイスで製造される時計の約95パーセントは輸出される。この現状は移民によってもたらされたからではないのか。彼らは内輪で技術を磨き続け切磋琢磨し続けたが、その目はいつの時代も外側に向いていた。その象徴がブレゲなのであり、スイスという共同体の宿命であるとも言える。

 

 

四節 パテック

 

現在、パテックフィリップという時計はスイス時計産業の顔として誉れ高い。しかしこの時計企業を創設し、発展させた人物はスイス人でもなければスイス生まれでもない。ポーランド貴族であるアントワーヌ・ド・パテックは1830年に帝政ロシアの圧政に対するポーランド動乱に参加する。鎮圧されてしまい彼は安住の地を求めジュネーブにたどり着く。そんな彼は生きていく為に事業をしなければならない。そうして彼は生きていくための糧として時計産業に足を踏み込んだ。時計に関しては当時完全な素人であった彼にさえ成功できると予測させるほど、スイスの時計産業は熟していたのだ。

 

1839年5月には同じくポーランド移民の時計師、フランソワチャペックとともに「パテック・チャペック社」を創設。1844年には彼らの高い時計に関する評価によりパリの展覧会に出品しフランス人のジャン・アドリアン・フィリップと出会う。フィリップは当時、若干28歳の天才と有名な時計職人であり、1841年にリュウズで巻く方式の時計を開発していた。その為、パテックはフィリップに目をつけ口説き落とすことなる。パテックはチャペックの代わりに彼を技術顧問として招き入れ、同時にパテックと同じくポーランドから亡命してきた弁護士、ヴィンセント・ゴストカウスキーの3人によって新たにパテック社がジュネーブに創設された。1845年5月1日のことであった。1851年1月12日にパテックフィリップ社と改められた。貴族出身であるパテックのビジネスの才能と天才的なフィリップの活躍により1851年にはロンドンで開かれた第一回万国博覧会に出品する栄誉に預かった。特にフィリップに至っては工作機械から自分の手で作るほどの熱の上げようであった。彼らは完璧主義者であった。彼らの時計に対する完璧を求め続ける姿勢、情熱は現在まで引き継がれている。「外側と同じように内側も美しい時計をつくには一切の妥協も許さない時計作りが要求される」と現代の経営者も語る。閑話休題、そんな彼らの時計はロンドンでの万国博覧会にてビクトリア女王はパテックフィリップの時計に感激し、自らのために同社の時計を購入した。加えてこの点来館で金賞を獲得したパテックフィリップは瞬く間に王侯貴族の心を捉え彼らにとっての理想の時計として広まった。

 

ジュネーブは現在世界有数の時計産地であり歴史的に見てもそうである。そんなこの都市で製造された時計を証明するためにこのジュネーブシールというものが存在する。このジュネーブクオリティー検定に合格した時計にはムーブメントに公式の牽引が刻まれるようなった。ジュネーブスタンプと呼ばれるこのマークはジュネーブの紋章を採用している。時計の精度は測る基準として*クロノメーターと呼ばれる認定資格がある。一定以上の水準に達したものにのみ与えられる資格であるが、ジュネーブクリティーの審査はスイス・クロノメーター精度基準よりも厳しい。加えてジュネーブの高級時計作りの伝統を維持するのにふさわしい時計にふさわしいことを示す幅広い基準が設けられており、現在それが刻まれているのはバセロン・コンスタンチンとパテック・フィリップだけである。

 

初めにジュネーブにてギルドが結成された当初、若い時計職人がギルドに加入するためには少なくとも五年の年季方向を必要とし、さらに一年から四年の見習い期間を経なければいけないというかなり過酷なものであった。それを経た後、親方からジュネーブの時計師として認められた者にのみジュネーブの時計を作ることを許された。二百年にわたるギルドの制度が続いたことで品質が高まりムーブメントに刻まれたGeneveという文字は工品筆の証となったが、ジュネーブ以外の土地で作られたものにもこのマークをつけた偽造品が出回るようになった。そのためジュネーブクオリティーという新たな基準を設け認められたものにジュネーブ州のマークを刻んだ。これの基準に合格した時計はまさにスイスの顔と言っても差し支えないが、最も刻まれた時計を輩出しているのはパテックフィリップである。移民である彼らが、スイスに他の競合を押し除け今の地位に手に入れるに至ったのは、彼らの努力であり、柔軟な発想である。パテックは時計職人をスイス人に拘らず、能力を重視し、その情熱で持ってフィリップを口説き落とした。そして何よりも彼らの時計に対し究極を求める姿勢こそが、今日のスイスの高級時計産業の発展を支えている。常に現状に満足せず妥協しない事によって停滞を許さない姿勢は、スイス時計のイメージとなる。

 

 

五節 IWCとジョーンズ

 

IWC、インターナショナルウォッチカンパニーの略称であるが、実にスイスの時計メーカーらしくない名前だ。ボストンからスイスにやってきた時計職人フローレンス・アリスト・ジョーンズは、アメリカ市場向けに低賃金労働者を用いた時計を量産したいと考え、1868年にIWCを設立する。スイス時計の産業化に挑戦したと言って良いであろう。スイス時計はあくまで職人一人一人の手によって造られる工芸品であった。ジョーンズは有名な時計産業地であったジュラに着目する。しかし、彼の工場は年間一万個という当時としては桁違いの生産数を目指していたため、暮らしを脅かされると危惧した為産業化に尻込みしてしまう。そこで次にシャフハウゼンに注目する。シャフハウゼンとはライン川上流にある街でハインリッヒモーザーという人物が優れた水力発電所を設立していた。スイス時計メーカーとしては珍しくチューリヒ近郊でありドイツ国境に沿ったこの町に現在も拠点を構えている。モーザーはシャフハウゼンを工業都市にしたいという野望を持っており、I W Cのように電力を必要とする企業を誘致する動きを見せていた。しかし、ジョーンズの目的であったアメリカへの時計輸出は頓挫することとなる。ジョーンズの動きに気がついたアメリカの時計メーカーは連邦政府に働きかけ輸入時計や部品に報復関税をかけたのである。ジョーンズは経営危機に瀕し、経営陣との間に軋轢により1876年に失意の中アメリカに戻っていった。I W Cの工場の運営権はジョーンズからシャフハウゼンの実業家であるラウシェンバッハ家に譲渡され、その後百年に渡経営者を転々としながら2000年に世界有数のラグジュアリー製品グループ、リシュモングループの傘下に入った。彼のビジョンは綿々と受け継がれた。

 

驚くべきことにこの時計メーカーは現在、高級時計メーカーとして名を馳せており、経営者が移り変わることで価値の減少や喪失が起こらなかったのである。第二次世界大戦中にはドイツ軍の偵察用時計、戦後にはイギリス軍用時計を作っていることからもわかるように技術力を保ち続けた。またスイスで唯一「オルロジェ・コンプレ」というどんな技術的トラブルにも対応可能なオールラウンドの時計職人を育成する企業である。そしてさまざまな最新技術を用いてスイス時計産業を牽引している。このことはいかにスイスの時計産業が移民からもたらされたものをうまく活かしてきたかを象徴していると言って良い。近年の発展はドイツ人実業家であるギュンター・ブルムラインによるところが大きく、彼はI W Cの他にもジャガー・ルクルト、ランゲ・アンド・ゾーネを主要高級時計ブランドへと発展させた。

 

シャフハウゼンは北側にドイツ国境、南側にライン川が広がり古くからオランダ、ドイツへの物資輸送の要所となっていた。加えてライン川はドイツ、オランダを経由しロッテルダム周辺にて北海に注がれる。まさにスイス産業の動脈のようなものだ。そもそもスイス時計産業はスイスのフランス語圏が主要であり、ドイツ語圏であるチューリッヒ近郊のこの地に拠点を構えるのは異例であった。理由はジョーンズがライン川の水力により発電された電力でアメリカ式の大掛かりな大量生産方式を取り入れようとしたからであった。アメリカ式の時計生産方法は精度の高い交換可能な部品を大量生産させるものでありスプリングフィールドにあった国営兵器工場の製造法から派生したものであった。というのも南北戦争時、故障した銃を一々工場に戻していては広い国土であるゆえに修理に時間がかかり過ぎてしまうことから生まれた手法である。実際にジョーンズは南北戦争に従軍しており、アメリカ議会図書館の記録保管所には当時若干20歳であった彼の従軍中の写真が残っており、ポケットウォッチを胸に掲げている。彼は入隊時に時計職人を称していた。

 


南北戦争従軍時代のジョーンズ

彼は戦後アメリカの時計製造会社に就職し、工場の監督にまで上り詰め、1867年にパスポートを使いスイス渡る。アメリカ式の製造法と手工業技術に秀でたスイス人労働者を融合させる試みであった。

 

ジョーンズがI W Cをさった1876年、フィラデルフィアで開かれた万国博覧会に出席したスイスの時計製造行者達の間に衝撃が走る。アメリカの時計製造の水準が驚くべき水準に達していたのだ。アメリカの競合に遅れをとった事に危機感を抱いた当時、スイス時計産業代表として万国博覧会に派遣されたロンジンの技術開発主任ジャック・デビットは時計製造工場を見学した。そして彼は、ボストンのウェルサム、シカゴのエルジンを見学した報告書をまとめた。アメリカの企業は製造過程を合理化し、完全に相互性のある部品を製造することによって美しく正確な懐中時計を作ることに成功していた。極め付けは生産量の多さによりスイス時計よりも圧倒的な安さを実現していたことだ。スイス人はもっと技術力を磨かなくてはいけない、そう結論付けたデビットは誤差の小さい部品を大量に製造する必要性を主張した。そうすることによって毎回違う規格の部品を作るのではなく、どんな時計にも使える部品となるからだ。スイス人はアメリカの製造法を再現した、これはすでにジョーンズが考案していたものであり、I W Cの事例があった。スイス人はメートル法を採用し、ねじ山を標準化までしてアメリカの強豪に食らい付いていった。そして1893年のシカゴ博覧会では再び首位に返り咲くことになる。ジョーンズはその先見性によりスイス時計産業が大いに発展し、19世紀後半のスイス時計産業の危機を乗り越えることに貢献した。彼は早くからスイス人の持つ技術力とアメリカの合理的な製造システムを組み合わせることの有用性に気がついていた。このことがスイス時計産業に与えた影響は大きい。

 

 

六節 ウイルスドルフと時計

 

ロレックスは現在最も有名であり価値のあるブランドである。それを示すようにインターブランドというブランドコンサルティング会社会社のインターブランドでは世界4位の高級品ブランに位置付けられており、年間収益は50億ドルと凄まじいものがある。彼らは高級時計を大量生産しているのだ。

 

ロレックスの創業者であるハンス・ウイルスドルフは1881年ドイツ、バイエルン州に生を受ける。12歳で両親を失い孤児になるなどあまり恵まれた幼少期ではなかったが、19歳の春には貿易会社に就職しスイスの時計産業の中心であるジュラに派遣された。そこでスイス、ドイツ、フランスなどの時計を輸出した。語学の才能に恵まれた彼は、イギリスとの間の貿易事務を任されることになる。そんな中で時計を商うことに可能性を見出した彼はロンドンへと旅立った。1905年にイギリス人投資家とともに、時計商社ウイルスドルフ&デイビス社を設立する。懐中時計が廃れる日もそう遠くないと考えた彼は自社で売るべき商品は腕時計と定めた。彼が懐中時計は廃れると推察した理由として、1902年に終戦したボーア戦争を通してイギリス軍の間で腕に時計をすることが広まったから、男性用のベストの人気が落ちているから等の諸説がある。腕時計の開発には腕の動きの振動に耐えうる高性能のムーブメント、埃や湿気からムーブメントを守る堅牢性に加えて洒落たケースを開発する必要があった。当時の腕時計に対してウイルスドルフは次のように語る。「腕時計は衝撃や埃に弱く、一度これらに侵されると、二度と正確な時間を刻まなくなるというのが普通であった。そのため腕につける時計は流行の一つであり、やがては消え去ってしまうものである、と考える方が受け入れやすかった。」この記述からいかに腕時計開発に挑戦する試みが先鋭的であり挑戦的なのかが見て取れる。当時、ブレゲの製作した時計でさえ振動により1日最大2時間のずれが生じていた。彼は初めに手首に装着可能な小さな時計が作れる会社を探し、スイスのビエンヌにあるエグラー社に白羽の矢がたった。エグラー社は唯一腕時計に使うことが可能な直径23ミリの小型のムーブメントの開発に成功しており、懐中時計より10ミリほど小さい直径である。

 

1908年、ウイルスドルフはロレックスというブランド名を時計につけた。HORLOGERIEとEXAUISEからとったものであるが、彼の語感のセンスが遺憾無く発揮され、どこの国の言葉でも発音しやすいL O R E Xとなる。ウイルスドルフはまず腕時計が時計として認められることを目指し、精度の確保に力を入れた。その結果、1910年にはスイス・ビエンヌの精度検定所で腕時計としては初めての最高品質であるクラス1を獲得した。1914年イギリスのキュー天文台で行われた精度テストにおいてもクラスAを獲得した。今まで懐中時計でしか至らなかった耐久性を小型時計にて実現することに成功したロレックスは、1919年にロンドンを離れジュネーブへと移転した。イギリスの高い税率が直接の原因になったようだが、以前から製品はスイスで作っていたため、元来スイスに拠点を置くことを理想としていたという。次にウイルスドルフは衝撃や様々な異物から完全にムーブメントを守るケースの開発に着手し、完全防水防塵を達成したオイスターと呼ばれる時計ケースを開発する。これだけで終わらないのがウイルスドルフのすごいところであった。1927年ロンドンの記者であるメルセデスグライツが女性として初めてドーバー海峡を渡ることに挑戦した。そのことを知ったウイルスドルフは彼女に腕時計を提供した。15時間かけてドーバーにグライツが到着した際に時計が正確に時を刻み続けていたことは翌日のデイリーメイル紙に大々的に記載された。


 


これだけの偉業を成し遂げたわけだが、未だに彼は満足していなかった。腕時計の手巻きの際に埃や水が入ってしまう事に注目しパーペチュアル(永遠)と呼ばれる機構の開発に注力する。この機構は手巻きが必要ないために、理論上は腕時計を持ち主が外さなければ永遠に動き続ける。1933年にはこの技術で特許を取得する。立て続けに腕時計の技術力を進化させたロレックスはその実用性という面で注目され、プロフェッショナルに選ばれる時計として知られるようになる。1960年にマリアナ海溝への潜水に挑戦したトリエステ号に乗船したジャック・ピカールの腕には、ロレックスが巻かれていた。多くの冒険家やスポーツ選手が使用した。近年ロレックスの人気の要因はブランド性によるところが多いが、実用面こそがロレックス本来の価値である。

 

彼らの発展と世界大戦を切り離すことは決してできない。そもそもウイルスドルフが腕時計に注目した理由の一つは、イギリス人がオランダ領の南アフリカに攻撃を仕掛けたボーア戦争によってイギリス軍内にて需要が増えたことが挙げられる。そしてその後に第一次世界大戦にてその需要は爆発的に増加する事になる。第一次世界大戦はおよそ1000万人の死者に加え、アメリカから持ち込まれ西部戦線の塹壕内にて毒性の増したスペイン風邪により世界中で亡くなった3000万人の人々の命を引き換えに科学技術はめざましく発展した。騎兵は機関銃に薙ぎ倒された事により戦車に取って代わられた。飛行機は爆弾や機関銃が備え付けられ、戦闘機や爆撃機に姿を変えた。今までとは比べものにならないほどの正確な大砲が作られ、塹壕が作られた。そんな中戦闘の形態が姿を変えるのは必然的だった。ナポレオンもブレゲに時計を作らせていたがそれは社会的シンボルの要素も強く、ナポレオン軍の時計は実践的に活用する余地はなかったと言って良い。それは軍隊が密集していたため連絡を取ることが容易であり、指揮系統がはっきりしている事で軍団の長に指示を下すとその配下の将校たちにも続々と指示が伝わるからである。しかし第一次世界大戦になると状況は一変する。第一次大戦において総攻撃の際に事前の援護として砲撃が行われ、その後に突撃が行われることが一般的だった。それは塹壕を用いた要塞の防御力が異常に高いために、突撃を敢行すると塹壕に閉じこもった兵士たちに到達する前に機銃掃射にて全滅させられる為である。攻撃する側が防御する側よりも被害が出てしまうのは避けられないとしてもその被害を少しでも抑えて攻撃を成功させることが必要だ。事前に要塞に対して攻撃を加え破壊し、防御力を削ることで味方の被害を軽減する。砲撃、突撃は細かく時間によって決まられた。

 

それまでは軍団の指揮から末端の部隊の指揮までを掌りタイミングは各指揮官が判断していた。そのために国家は将校の教育に莫大な資金を投じてきた。また、ナポレオンの軍団が強かった一因には戦略の良さもあるが、ナポレオンの戦略がよかったのもあったが、配下の元帥たちがうまくナポレオンの意図を汲みとり、攻撃するタイミングから戦闘の判断に至るまでの決断を下していたことも大きいと言える。しかし第一次世界大戦において密集することは同時に砲撃や機関銃の餌食になることを意味する。そのために部隊は広がり、連絡が儘ならないため攻撃の際は時間を指定することで、より有効的な攻撃を敵に与えることができる。広い範囲に展開した軍が纏まって軍事行動をするのに腕時計が活躍した。また、大砲の炸裂から音が聞こえるまでを測定し敵がどれくらい接近しているかがわかる。このように、腕時計は戦略的に大きな価値を持った。

 

第一次世界大戦にて爆発的な腕時計の需要に伴い、一般大衆の腕時計に対するイメージは一変した。それまでの腕時計は看護婦が患者の脈拍を測る為に利用されていたことから、女性的であるというイメージが強かった。しかし第一次世界大戦にて軍にて使用された事により、戦争終結時には男のシンボルに生まれ変わる事になる。女性の社会進出が進んだ現在に至っても腕時計の購入者は男性が多く、社会的なシンボルとして重要な価値がある。

 

第二次世界大戦で各国の時計産業は手榴弾や対空砲などの兵器開発にリソースを割かれることとなり本業である時計開発は滞った。その中でスイスの時計産業は戦火を避けたために順調に発展しフランスやドイツ、イギリス、アメリカなどの競合と差を開いていく事になる。

 

 

七節 スウォッチ

 

2022年の春、私はかねてからの憧れであったマッターホルン登山を終えたあと、ツェルマットに訪れ歴史的な趣のある街並みに感激しつつそぞろ歩きと洒落込んでいた。するととある時計店に大行列ができていた。私は当時ミリタリーオタクであり、軍需品として使用された経歴のない比較的最近になって時計業界に参入したスウォッチになどには微塵も興味がなかった。だが行列の真相に興味があった為ドイツからやって来たという夫妻に声をかけてみた。それほどの行列だったのだ。するとスウォッチがオメガとコラボし、ムーンウォッチことオメガのスピードマスターを元に太陽系の惑星をイメージした11種類が発売されことがわかった。オメガのスピードマスターとはN A S Aが公式に採用し1969年、アポロ11号の月面着陸において宇宙飛行士が着用していた時計である。私はその前日にV I C T O R I NO Xという長年スイス軍にアーミーナイフを納入してきたブランドの腕時計を購入したことから貯金が底をついてしまった為に購入できなかった。そんな苦い思い出のあるスウォッチであるがこの時計が現在のスイスの時計産業に与えていた影響は計り知れないものがあった。

 

ロレックスがスイスにもたらした腕時計と二つの世界大戦によりもはや並び立つものがいなくなったスイス時計産業であったが、日本は対抗していくこととなる。日本とスイスの時計産業での競争はオリンピックにて端を発することとなる。

 

オリンピックは国家の威信をかけた戦争の要素があると言われる。国家間の競争を戦争からスポーツに昇華したものと解釈されることがあるが、何も熾烈な国家間の競争は白熱するアスリートたちの間だけでなく、その水面下でも行われていた。1896年にアテネの地の祭典にて用いられたストップウォッチは5分の1秒目盛の精度であった。故に他の選手たちより5分の1秒早くなければ順位は変わらないのだ。1912年、第5回ストックホルム大会まではこれを越す制度のストップウォッチは登場しない。ドイツ系スイス人の創業したブランド、タグホイヤーは1916年100分の1秒まで制度をあげスポーツ時計界に革新をもたらす。ホイヤーは1920年アントワープ、1924年パリ、1928年アムステルダム、と公式計時記録担当を歴任する。1965年には1000分の1にまで制度を上げる事に成功している。それ以降、1932年ロサンゼルスから1960年のローマまでオメガが独占した。このようにオリンピックの公式時計は代々スイス企業の時計が用いられた。そんな中とある企業がスイスのこの一強を引き摺り下ろそうと画策していた。

 

1964年の東京大会公式時計担当の栄誉を勝ち取らんと、1960年後半に打倒オメガを掲げセイコーの開発が始まった。当時のセイコーはストップウォッチを販売していたが、評価は到底スイス製に敵わないというものだった。実際に同じレースに4つのセイコーのストップウォッチを使用すると0.6秒から0.8秒の誤差が出ていた。機構そのものに問題があることが判明したためムーブメントそのものから着手するという徹底ぶりであった。1961年夏頃から始まった開発は問題解決に数ヶ月を要し、試作品の実験を繰り返すことでようやく十個中十個のストップウォッチが誤差なく作動するに至った。1962年9月に国際陸連会議にて国際競技に使用できる水準であると認定される。翌年の6月に英国王立物理研究所の検定にて合格し、ストップウォッチとして完璧なものができたことが証明された。高精度のストップウォッチは技術的に難しいと言われ、それを短期間のうちに成し遂げたことはかなり異例だった。このことは日本のスポーツ業界を大きく変える事になる。それまで五分の一秒の規格でよしとしていたものをより高精度なストップウォッチを要求するようになった。このことは日本全体に精度の追求を意識させる事になった。オメガは1963年に高性能のスピード計測と写真判定機能を組み合わせた「オメガフォトスプリント」発表する。しかし、最終的に東京オリンピックではセイコーの開発した電子時計システムが正式に導入される運びとなった。スイスの独壇場であったオリンピックの競技時計担当に一石を投じる結果となった。スタート用ピストルとゴール前のスリットカメラが時計を経由し接続されピストルを引いた瞬間に計測が始まるというものであった。加えてこの時計の単位は100分の1秒に達していた。1972年、スポーツ計時の専門機関の設立を目的として、オメガとロンジンを中心としてスイスタイミングが設立される。なんとしてでもオリンピックの計時担当を死守したいスイス時計産業の執念であった。

 

オリンピックの計時に使われる時計というのは最先端のテクノロジーであり、いわば公式に選ばれる事により技術力を証明できるのだ。その技術力はゆくゆく市販の時計製造の技術に応用されるという見方があった。いわばオリンピックの計時に未来がかかっているのだ。しかし、当時スイス時計産業が最も恐れていたのは1969年にセイコーが発売したクオーツ腕時計であった。クオーツを使った機構は1952年のヘルシンキ大会によってオメガによって登場する。セイコーがクウォーツを使用するようになるのは1964年の東京大会であった。彼らの目論見は成功し1972年ミュンヘン大会から、1988年のソウル大会までスイスタイミングが担当する。しかし、1992年バルセロナ大会では再びセイコーに奪還される。この熾烈な競走の中、技術はめざましい勢いで発展し、1992年の冬季オリンピックでは13000分の1ミリを計測できるスリットに加えせ1000分の1秒の精度で測定できるシステムをオメガが開発するに至った。そんな中迎えた1993年12月、1996年のアトランタオリンピックの公式時計が発表される。それこそスウォッチだった。スウォッチといっても実態はスイスタイミングが主導するS M Hグループに属していた。しかし、彼らはあえてスウォッチの名前を出した。このことはS M H、スイスマイクロエレクトロニック総連合というなから分かる通りスイスの電子産業を牽引してくという意志を感じ取ることができる。そのS M Hが日本製クオーツに対抗するためにスウォッチは生み出された。

 

1969年にセイコーから発売されたクオーツ時計は今では時計史上未曾有の革命として刻まれている。日本から機械時計を作る企業が消滅するほどで、またスイスの時計産業を文字通り壊滅させた。1974年にスイスの腕時計生産量は960万本あったが1983年までに450万本に、業界全体では9万人が失業、時計関連企業は1970年時に1620社が存在していたが、1980年時点で560社にまで減少する有様だった。ゼンマイがなくなった代わりに電池を動力とするも、クオーツ時計の性能は凄まじく、今日に至っては年差10秒にまで至っている。なんと一年でたった10秒しか狂いが生じないのだ。そしてスイス産業を突き放す事になったのは、それまでの安価な時計は相応に性能の問題があったわけだが価格が安かろうと高かろうと制度が保障されていたのだ。故に何本も時計を持つことでファッションに合わせて、その日の気分で腕時計を選べるようになったのだ。日本企業は時計のファッション性を強調し注力する。しかし、この概念を世界に浸透させたのはスウォッチであった。結果、1983年に製造が開始されてから9年で一億本を売り上げる事になる。

 

時計市場を日本メーカーに一掃されたスイス企業の抵抗はあるにはあったが根本的な解決位には至らなかった。1979年には世界で最も薄い時計が発売される。厚さは1mm以下にまで圧縮されたのだが価格は高く耐久性に難があったため実用的ではなかった。後にスイス時計産業の救世主となるハイエクはSSIHと呼ばれるコングロマリット*の建て直しに注力する。1980年、遂にSSIHは12月分の給料が払えなくなるところまで追い詰められ、繋ぎ融資を銀行に請う事になった。銀行はSSIHに対し独立系コンサルティング会社に依頼し再建を図るよう要請したことでSSIHとハイエクは邂逅する。ハイエクはレバノン生まれの起業家でアメリカからスイスにやってきた。彼は、ハイエクエンジニアリング社設立しその頭角を表していくこととなった。彼はドイツのフォルクスワーゲンの合理化に着手、その後チューリッヒ市庁の再建、スイス郵便電事業の再建に携わる。彼は再建屋と呼ばれ、2010年に82歳の生涯を全うするまでの間S M Hの会長を勤め上げる事になる。その死に対し時のスイス大統領ロイトハルトは「われわれはハイエク氏に多くを負っている」と功績を称えるほどであった。


ハイエクはS S I Hの立て直しに着した際、人材を一新、製品を合理化したがそれだけでは日本企業に及ばないことが判明した彼はとある決断をする。高精度のクオーツで、防水性を兼ね備えしかも誰にでも買える値段の時計を作るという今までのスイス時計産業では考えられなかった方針である。かつてのスイス時計産業は職人による精緻な作業によって世界を席巻したが、最早手段を選んでいられなかった。スイスに縁がない故の執着のなさであり、英断であった。この賭けに失敗してしまったら多額の開発費用が無駄になるだけではなく、スイス時計産業はより一層悲惨な状況下に置かれる事は避けられず、スイス時計の滅亡につながる事になる。反発はあったが「ノン・ウォッチ」というプロジェクト名のもと極秘裏に開発は進行した。そして1981年には正式にスウォッチという名前が決定された。スイスの時計という名前の意図が透けて見えるが、それだけに彼らの意気込みと肩にのしかかった責任が伝わる。しかし、開発された時計はおおよそスイスらしからぬものであった。プラスチックケースを素材としケースに直接ムーブメントを組み込む方式が採用された。裏面にラバーシートを装着し特製のグラスをケースに溶接する事で防水30メートルを達成する事に成功する。しかしこの方式では電池の交換はできるのだが蓋を開けて修理をすることができない。ほとんどの時計は各種アフターケアのサーブスをしている。パテックフィリップは永久時計という、修理し続けることで永久的に使い続けられることを売りに付加価値を生み出し現在の時計業界の地位を確立し、以前にも触れたがI W Cは時計職人一人でオールマイティーに修理を担当できるオルロジェ・コンプレと呼ばれる職人育成プログラムを実施している。おおよその企業ではアフターケアに力を入れてきた。それは時計の価値を保証し、長期にわたって使えることを担保する事こそが時計の価値に直結したからだ。スウォッチはこの不文律を無視する事になる。クオーツの精度は日差、1秒に設定された。

 

1983年3月にスイスでデヴューしたスウォッチは、プラスチックの特性を生かすことでカラーリングに様々な種類を用いていたが安物のプラスチック時計というイメージとなってしまった。後にスウォッチのディレクターに抜擢されるイタリア・デザイン界の大御所アレッサンドロ・メンディーニは初期のスウォッチのデザインに関して「スイスには時計製造の技術はあっても、デザインはない」と辛辣なコメントを残している。平凡なデザインとは裏腹に、春夏コレクション、秋冬コレクションとファッションの新作発表に合わせて新製品を発表する事ことで徐々にスウォッチをファッションとみなす意識を植え付ける事に成功した。加えて彼らの戦略としてシーズン毎に商品を一新する事による限定性により消費者の購買意欲を引き立たせた。発売から一年の間に欧州各国、米国、濠州、香港に市場を拡大した。1985年には日本に上陸を果たしたが広まるまでにかなりの時間を要する事になる。

 

この頃ハイエクは次の段階に移行しようと画策していた。スイスにはこの頃ティソとオメガを主力とするS S I Hと、ロンジンを中心にA S U A Gという2つのコングロマリットが存在していた。1930年台から脈々と受け継がれてきたこの二つのグループをハイエクは一つに統合し、S M Hを設立した。オメガとロンジンという当時最先端の技術力を持つ二つのメーカの統合を持ってスイス時計産業が結束した瞬間であったと言って良い。そして新生S M Hグループの一員としてスウォッチ社が設立される。レバノン人の手腕によりスイス時計産業が一つにまとまった瞬間だった。

 

後にスウォッチ現象と呼ばれるブームを巻き起こした発端となる事件がある。1990年ミラノにてスウォッチオークションが開かれた。スウォッチは当時プラスチック製の廉価な時計で修理すらできない時計というイメージが強く高い価値があるはずもなかった筈だが季節毎に一新する方式により価値が生まれた。加えて有名なアーティストがデザインし非常に少数だけ販売されるというケースのモデルがあった。その中で120個のみの生産数のキキ・ピカソというというフランス人アーティストを起用して制作したモデルが4万7000ドルで落札された。日本円で550万円にも上るがこの時計はフランスの芸術センターのイベントの際に配布した物であったために単純に比較することはできなかったが当時のスウォッチの現在レギュラーモデルが5,500円程であったために単純に千倍の高値となった。さもスウォッチ全体のモデルに価値があるように演出したかったのか、それともたまたま思わぬ形でこのような事態が起こったのか真偽の程は不明だが、結果としてコレクターが増え、市場に強い衝撃をもたらした。私自身は現代アートに関して無知であるためその凄さは知らないが、歴代の現代アートを代表する面々が名を連ねているそうだ。1986年にはキース・ヘリング、1987年には横尾忠則、1990年にはミモ・パラディノ、1992年にアメリカの現代抽出画家サム・フランシスがデザインを担当した。

アーティストたちは時計を新たなキャンバスとしたのだ。

 

その後もクロノグラフに加え防水200メートルの当時としては高性能の時計を発売し話題を生んだ。プラスチック時計の技術力の証明となったこの二つの時計をめぐりイタリアではスウォッチマフィアと呼ばれる集団が組織されヨーロッパ中で買い漁った。

 

そしてハイエクの実績として最も特筆すべき点は機械時計の復活である。1989年から電池の手に入りにくい中東やインドに向けて実験的に試作されていたが、1992年、地球サミットの開催年に合わせて電池の排気が地球汚染に繋がっていることを指摘し、地球に優しい時計として自動巻時計を発売した。しかも値段はクオーツ時計と大差ない額であった。S M H会長として国連にて地球環境に対する企業責任を大々的に訴え、同時に自動巻時計の記念モデル、「タイム・トウ・ムーブ」を発売する。自動で動くという意味と地球環境に配慮する時代の変化をかけた名前はハイエクの巧妙ぶりを的確に表している。年に2回、数十本ずつモデルが登場し安価な価格設定から気に入ったモデルを一人が数本持つという戦略を取っている。

 

スウォッチは時計を個人が数本持つという意味で時計に対し革命をもたらし、スイス時計産業を、時計産業が始まって以来の未曾有の危機から救った。本来であれば真っ先にクオーツ時計の量産に成功した日本が成し遂げようとした腕時計のファッション性を成し遂げシェアを奪い取ることで世界を制覇したハイエクは停滞することなく、地球環境に機械時計の可能性を見出した。

 

彼は恐ろしいほどの先見性を持っていた。現在ヨーロッパは空前のエコブームであり、日本ではなにかと邪険にされがちなグレタさんの像がいくつも立つほどである。加えてハイエクが始めた地球環境に対する保護を企業が利用するやり方は現在まで踏襲され、現在では様々な利権が複雑に絡み合い人類がどれほど地球に悪影響を与えているのかは激しい議論の対象となっている。

 

ハイエクがスイス時計産業に与えた影響は計り知れない。今日の時計生産量の4分の3はクオーツなどの電気時計、4分の1が従来の機械時計である。変化に伴い家内工業的な職人の手に基づく小規模な生産から工場での大量生産に移行した。80年代に入ると家庭で職人が手作りをすることはほとんどなくなった。ハイエクはスイス時計に高級時計ではなくプラスチック時計という新たな風を吹き込んだその結果、日本企業から市場を守りスイス人の雇用を回復した。スイスで作られる時計の95%は輸出されるため世界市場を制覇することこそがスイス時計産業の生き残る道なのだ。

 

 

ハイエク氏


 

第三章 結果と考察

一節 まとめと考察

 

スイスの国土の六割は山脈であり貧しい国土といえるであろう。北部をジュラ山脈、南部をアルプス山脈。人口分布から見てわかる通り人口のおよそ八割が国土の二割であるミッドランドに定住している。ミッドランドには世界的に有名な都市であるベルン、ジュネーブ、チューリヒなどの都市がある。このような周辺諸国と比較して恵まれない環境が時計などの工業や金融などを発展させたと言っても過言ではないであろう。ユグノーの宗教弾圧の結果として多くの移民がスイスに押し寄せた。特にフランスの移民は時計職人も多くスイスにおける時計産業の基盤を作った。おそらくこのように外から入ってくるものに対して寛容な姿勢を持つことこそが今日までスイスという国家が存続し発展してきた理由である。スイスは貧弱な国土に加え人口も少数であり、中世の群雄割拠の時代を生き残れたのは彼らの強い意志において他ならない。

 

私は今回の探究にて移民がいかにスイスの時計に影響を与えたのかを探求した。その結果、移民は時計産業な誕生から、技術革新、そして在り方までも移民達から発想を得ることで進歩してきた。勤勉でひたむきに時計を作り続けるスイス人と特殊な発想を持ちスイス人では成しえないことを先導する改革者としての側面を持つ移民の融合であった。そしてスイスの時計産業に大きく貢献したもの達は共通してアイディアを持ってスイスにやってくる、あるいは国を追われもはや失うものがない状態でスイスにやってきたもの達だった。彼らは新天地にて生活するために、必死だった。加えて失うものが少なかったことも彼らが新たな事に挑戦できた理由だろう。そして彼らは何の後ろ盾もないため実力でのしあがるしかない。パテックフィリップの創設者パテックはポーランド動乱にて反乱に失敗し国を追われた亡命貴族であった。第二の人生として時計作りに情熱を注いだ彼の生涯はまさにスイスにやってきた移民達の素性を物語っている。スイスという新天地にてゼロからのスタートは彼らにとっての希望であり、外国人としての別の視点も相成ることで新たな風を時計産業に吹き込み産業全体を発展させたのも頷ける。

 

 

二節 戦略的永世中立

 

 

スイスは独立以来複雑な欧州情勢に向き合い多くの小国が簡単に大国の思惑次第で消滅する中で、自らの立ち位置を最もよく考えていた。欧州各国にとって都合の良い国を演出する事により、自らが生き残る道を模索してきたと言える。スイス人のアイデンティティーは権力に対する独立の精神、何者にも支配されない、あくまでも独立を保つというところにある。故に防衛と親和性が高いとも解釈できる。そしてこの要素がスイスという土地において時計が発展する土台となるのであった。スイスの時計産業の発展において彼らの中立かつ独立を守るという強い意志によって、時計産業は守られ、発展し、近年世界屈指の時計産業国へと成長させたと言える。スイスの時計は海外の影響に左右されていた。それは海外のニーズに応える事こそが売り上げにつながるのであり、ひいては彼らの産業の発展につながるのであるから必然的なことだ。

 

彼らは独立のためであれば中立を犠牲にする。独立のための一戦略として中立性をブランディングしているにすぎない。歴史的に見て、ロカルノ条約などの緩衝地帯として存在感をアピールし強国にとって都合の良い国を演じてきた。現在のバチカンの近衛兵に残るように彼らは時計産業のみでなく、傭兵稼業にも力を入れてきた。これらの事から、永世中立とは小国であるスイスが考えた生き残るための一手段に過ぎず、彼らの精神の主柱となっているのは中立ではなく独立である。中立なのはあくまで独立にとって都合が良いからだ。故に中立の前に独立が来る。書籍、黒いスイスにある通り第二次世界大戦の際にはかなりドイツに寄っていた。第二次世界大戦中ドイツがヨーロッパの大部分を占領するとドイツ軍はスイス占領を画策、スイス国内でも親ドイツ派が力を持ち始める。実際にスイス侵攻作戦である樅木作戦を立案する程には現実味があった。そこでアンリキザン将軍は親ドイツ派のトップを処刑するなど強硬策に出つつドイツにとって都合の良い国を演じる。ドイツの同盟国であるイタリアとの路線があったこと。(もしスイスに枢軸軍が侵攻したらトンネルと橋は爆破されるか解体され使用不可能になったであろう)加えてドイツに時限信管の砲弾(対空砲)を輸出、ナチスドイツのホロコーストによってドイツが獲得した金塊を買い取りナチスドイツの対外資金獲得に協力。この取引はドイツ降伏直前まで続いた。彼らの独立に対する意思は強大であり、スイスの今日の産業を守った。時計産業に至っては他国より一歩先んじる要因となった。現在に至っても彼らの意思は衰えることはなく、国民皆兵に加え、兵役を終えた者の家庭には機関銃が置いてあり、一昔前までは各家庭に一つ核シェルターを設置することを義務付けられていた。被爆国である日本には核シェルターはほとんどと言っていいほど無い。それは核に対する現実味を持ち過ぎるがあまり核戦争後を生き残ることを考えていないのかもしれない。それとも考えることすら放棄しているのか。しかしスイスは何よりも生き残ることを諦めない。それは現在に至るまで綿々と独立に対する意志を引き継いできたからだ。

 

現在時計産業自体が危機に瀕している。スマートフォンやアップルウォッチといった、多種多様な機能を持つ媒体が広まった事により、若者の時計離れが進みつつある。しかし依然として腕時計のステータスとしての価値は高い。成功者は一部の例外を除き高級時計をつけており一種のステータスとなっている。

 

この流れでいくと時計が始まった当初のように時計は天才的な技術を持った者が少数の富裕層のためだけに作られる事になる。しかし現在のスイスの輸出額と輸出数を見てみるとその数に対し圧倒的なまでの価格である。故に彼らはこれから先、様々な需要に対応することができるため生き残る可能性が高いであろう。スウォッチがこれだけ台頭しているのにこの差があるということは依然として機械式時計の需要が高い事に他ならない。そしてスイスの高級時計の価格は億の桁であり、スイスの時計は数千から億の単位まで幅広く存在するという事になる。この多様性こそがこれから先、いかに不測な事態が起ころうと適応し得る力になるだろう。

 

 

三節 スイスの移民と今後の展望

 

今回の探求は、いかにスイス時計が新たなものに挑戦してきたかの証明であり、そこには海外からやってきたものたちだからこその常識にとらわれない発想や行動力に裏打ちされていた。現在のスイス時計の強さは移民たちによって作られていた。そして現在、スイスの人口800万人のうちおよそ200万人が移民である。しかし彼らにとって移民だからということで誰でも受け入れることではせず、移民の八割がヨーロッパ出身である。図1のグラフは2016年時点での移民割合である。ヨーロッパ、特に西欧系の移民が圧倒的に多く半分以上の割合を占めている。

 

このような事を知らなかった私は移民と共に歩んできた歴史から移民に対して寛容であり、他の先進国の移民受け入れの失敗とスイス移民受けいれは歴史的なものがあるから違い、スイスは何らかの手法を用いることで移民と共存できているのではないかと予測した。

実際は歴史的に見ても移民に対して一概に寛容だったかというと語弊があった。過去にはスイス政府主導の元、優生思想に基づきロマの子供を誘拐し、成人するまで親と会わせないという今となっては信じられない事をおこなっていた。計1000人以上の子供がスイス政府主導の元で攫われた。

 

 

2016年の出身地別移民の割合

 

ナチスドイツ台頭の時代に迫害されたユダヤ人に対して、スイス政府はドイツに、ユダヤ人を選別するための旅券の印であるJスタンプ導入を要請。当初ドイツ政府は消極的だったが、スイス政府の執念により導入された。スイス政府はナチスによるユダヤ人迫害に加えホロコーストの詳細な機密情報を知りながらもドイツに追い返し続けた。結果的にスイスはホロコーストに協力したことで多くのユダヤ人が犠牲になった。そして現在スイス政府は不法に入国したものを逮捕している。そんな中、政治犯ゆえの亡命を望む、と中立国であることを利用するものもいる。スイス国民党は「政治犯を偽ってスイスに逃げ込む人間が多すぎる。政治亡命の権利を乱用するな」というキャンペーンを実施し追い返した。このことからも彼らは自分たちの国、生活を脅かすと判断した人々に対しては徹底して排除していた。

ルツェルン州エンメンでは、帰化の是非を住民に問う方式が採用されていた。新たに帰化を望ものたちの国籍、住所、生年月日、年収、趣味、職業、結婚歴、学歴、過去の税金の支払額等が記載されたパンフレットが配られ、それを参考に投票する。 その結果、イタリア人などの西欧出身者のみに限られてしまった。一人有色人種の者がスイス国政を取得することができたらしいが、スポーツ選手であり、少なからず名の知れた人物であった。この事に対して街の行政組織の議長は「スイスのイメージにあった真のスイス人ではない」と語った。確かに肌の黒い黒人がスイスの伝統衣装を身につけ山の上で羊を飼っていたら多少は違和感を覚えるのではなかろうか。私はスキー場でスキーをしている黒人を見ると違和感を覚えた。私の差別意識が多少あるのかもしれないが、らしさということは当然ながら我々の意識の中に存在する。

彼らは自らのアイデンティティーを守ることに対しては妥協しない。このことからスイスの時計産業においては彼らの発想を受け入れ現在の地位まで勝ち上がったのは彼らの柔軟性、悪くいうと狡猾な側面があったと考えられる。実力のあるものは認めるがその他のものに対しては冷淡であり差別的なのだ。結果として移民の身でありながら成功したものたちは皆、ずば抜けた実力者であり、何百年も通用するブランドを立ち上げたり、スイスの時計産業に不足しているところを見抜き導入したりすることができたと考える。レバノン出身のハイエクに至っては時計産業を復活させ、救国者となった。

彼らのこの移民に対する態度はどのような経緯があって何に基づいているのかを知りたい。おそらくそれは民族性や歴史に起因すると考える。彼らの中立的な姿勢が国内外から人材であったり富であったりを流入するきっかけを作り、現在の世界的な地位を獲得した。実際にスイスの時計産業が外国企業に遅れを取り、危機に瀕した際には、その度に外部からの人材やアイディアを取り入れ、既存のものと巧みに結びつけることによって時計産業を発展させることができた。彼らはなぜここまで一見理想的なまでに外国人を有効活用している。その姿勢は若干国際的な流れもあり変わることもある。しかし彼らの行動には今も昔も一貫して自分たちの権利を守る事に対する譲れない強い意志を感じる。


 

 

 


 


参考文献

(1)          福原直樹:『黒いスイス』,新潮新書, pp.101- 110, 2004

(2)          ジェェイムズ・ブフライディング:『スイスの凄い競争力』, 日経BP社,2014

(3)          スイス政府編:『民間防衛』,原書房,2003

(4)          塩野七生;『チェーザレボルジアあるいは冷酷の化身』, 新潮文庫1982

(5)          塩野七生;『ルネサンスとは何であったのか』, 新潮文庫2008/3/28

(6)          フリードリヒ・シラー;『ヴィルヘルム・テル』, ルリユール叢書, 2021/10/25

(7)          香山知子;『スイス時計紀行』, 東京書籍 ,1994/4/1

(8)          グレゴワール・ナッペイ『スイスの歴史ガイド』, 春風社, 2014/10/8

(9)          佐多直彦『スイスは、いま。』,ダイアモンド社,19990/11/8

(10)       森彰英『スポーツ時計 1000分の1秒物語』, 講談,1993/5/1

(11)       江藤学『スイスのイノベーション力の秘密』,日本貿易振興機構 2015/7/4

(12)       エルヴィンロンメル『歩兵は攻撃する』, 作品社 ,2015/7/31

(13)       エーリヒ・フォン・マンシュタイン『マンシュタイン元帥自伝』,作品社 ,2018/4/25

(14)       カール・フォン・クラウゼディッツ『クラウゼディッツのナポレオン戦争従軍記』,ビイングネットプレス,2008/6/28

(15)       エーリヒ・ルーデンドルフ『ルーデンドルフ総力戦』原書房 2015/11/25

(16)       田中修『地理 第33巻 スイスの時計産業(1)』pp.66-71, 古今書院1988/12 

(17)       田中修『地理 第34巻 スイスの時計産業(2)』地理 34, pp.126-131,古今書院1989/1

(18)       「人と時」研究所,『16世紀から20世紀のスイス時計』在外スイス調整委員会1993

(19)       橘玲 『バカと無知』新潮社 2022/10/15

(20)       言ってはいけない 新潮社 2016/4/16

(21)       もっと言ってはいけない新潮社 2019/1/17

(22)       森田安一『物語 スイスの歴史 知恵ある孤高の小国』, 中央公論新社 2000/7/1

(23)       踊 共二『図解 スイスの歴史』河出書房新社 2011/8/17

(24)       相沢幸悦『ドイツはE Uを支配するのか』 ミネルヴァ書房 2018/5/20

(25)       Stephen Crane『The Red Badge of Courage and Other Stories』Penguin Classics (2005/11/29)

(26)       加治陽 戸田愛美 松山猛編『世界の特選品 時計大図鑑』,世界文化社1991/8

(27)       中島悦郎 『バーゼルワールド・スイス時計学会訪問レポート』,マイクロメカトロニクス収録 p.56-62

 

ホームページ、論文等のURL

(1)          アカデミー独立時計師協会 (Académie Horlogère Des Créateurs Indépendants 、AHCI)ホームページ
AHCI about us – AHhttps://www.ahci.ch/about-us/CI

(2)          ル・ロックル 時計博物館 モン城https://www.hautehorlogerie.org/index.php?id=241&L=2&tx_fhhbrands_museum%5Bobject%5D=36&cHash=e0409ae7d10245cceb63469eb0fe41e8

(3)          朝日新聞記事 28歳「バーゼルワールド」出展の快挙 独立時計師https://www.asahi.com/fashion/topics/TKY201105230201.html

(4)          スイス連邦統計局 https://www.bfs.admin.ch/bfs/en/home.html

(5)          パテック フィリップ・ウォッチアート・グランド・エキシビション(東京2023)Patek Philippe | パテック フィリップ | ニュース | ウォッチアート・グランド・エキシビション / 東京023
https://www.patek.com/ja/%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/%E6%9D%B1%E4%BA%AC2023

(6)          セイコーミュージアム銀座ホームページ
https://museum.seiko.co.jp/

(7)          四国新聞社,スウォッチのN・ハイエク氏死去/スイス時計最大手創業者
https://www.shikoku-np.co.jp/national/economy/20100629000083 2010/06/29

(8)          ベイヤー時計博物館 チューリッヒ
https://www.beyer-ch.com/ueber-uns/geschichte/

(9)          国際時計博物館(ラ・ショー・ドー・フォン)
https://www.chaux-de-fonds.ch/musees/mih

(10)       スイス時計協会の歴史
https://www.fhs.swiss/jpn/fhhistory.html

(11)       Molard Souvenirs
https://www.molardsouvenirs.com/

 

 

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