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ゲームは芸術になれるのか

この文章を書こうと思ったのは、ドイツで開かれているGamescom2018の生放送の中で『GRIS』というタイトルのこの上なく美しいゲームが紹介されていたかのがきっかけだ。

ゲームは芸術なのか

広義の、辞書的な定義に依拠すれば、ゲームを芸術だということは十分可能だ。例を挙げれば Oxford Dictionalies では芸術を「人間による、技術や想像力の表出または適用。特に視覚的表現であるもの」と定義している、この中にゲームを入れ込むことは難しくない。

しかし、現在、特に日本においてゲームが芸術としての地位を得ているかというとそうではない。芸術とは、鑑賞するものによる作品への視線の別名であると思う。言い換えると、ゲームが芸術となるのは、プレイヤーがゲームを芸術として評価する視線を持った時にプレイヤーとディスプレイの間に出現する関係性が成立した時であり、この条件なしにはゲームへの批評、評価、分析、考察などが十分な形でなされないため、社会的な意味で芸術と認められることができない。

この意味で、日本のゲームレビューは面白いか、面白くないか。つまりプレーイヤーがその作品に娯楽性を感じるか否か、というところに焦点が置かれている。もちろん例外はあるにしろ、ファミ通やIGN、Gamespotによるゲーム批評は、消費者が購入する際の参考になるように設計されている、いわゆるハイレベルな「商品レビュー」である。この点でゲームは、例えば思想性や時代性など、諸費者目線から離れた批評活動がなされる文芸作品や絵画、音楽などと同じ扱いを受けてはいない。したがって、2018年現在、ゲームは芸術として扱われてはいない。

ゲームレビューの現在地

ゲームは総合芸術として評価されるべきであり、そうなることにより産業自体の強度を産む。反対に娯楽性、市場性のみで評価される現状が続けば、大手ディベロッパによる寡占市場となり、ゲームファンにとっても好ましい状態ではなくなるだろう。ゲームの開発費も年々上昇している。

難しいのは、個人で作成することが可能な文学や絵画と異なり、コンソールゲームは一般的に大規模な予算と人員を必要とする、結果としてある程度の規模の利益を出さなければならない。結果として開発側がいわゆる「芸術性」を追求するのはそう簡単ではない。一方でインディーズゲームは「尖った」作品を作る傾向にはあるが、広告費に割ける予算がわずかなためゲーム業界の中で影響力は限られ、リーチできる消費者の数も比較的少ない。

これを解決できるのはゲームメディアではないかと思う。まず必要なのは、ゲームメディアの役割は、広告を打てないインディーズゲームに適切な評価を与えること。もう一つはゲームを作品総体として、かつその作品の思想背景や時代性も評価の対象とすること。最後にゲーム業界全体への視線を向けることだ。これは他のジャンルの批評理論が参考になるだろう。

ゼルダの面白さを伝えるだけではなく、「2000年代後半から隆盛したオープンワールドというジャンルに対して、ゼルダBOTWがどのような貢献をしたのか」あるいは「ゼルダシリーズ全体の中でBOTWはどのように位置づけることができるのか」という記事を読みたい。最近では、Gamespotによる以下のシリーズレビューが素晴らしかった。

ゲームというジャンルの可能性

ゲームには大きな可能性がある、映像、音楽、ストーリーがあり、何よりもプレイヤーとのインタラクティブな関係性を構築できるという意味で、他のメディアよりも受容者との関係をコントロールすることができる。

また技術革新を味方につけている点も大きいだろう、印刷技術や流通インフラが文学の爆発的な発展を産んだように、IT技術の発展はゲームというジャンルにとって大きなアドバンテージになる。私は一人のゲームファンとして、ゲーム業界の質的発展を期待している。


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