研究はおもろいものであり、真摯に行われるべき 19/9/11

前回の投稿で、エビデンスを活用する際のポイントを述べたので、今度はエビデンスを作る際のポイントに対して書いてみます。

まず研究との関わりについて書こうと思います。

家電が好きで、数学が得意だったため、工学部機械工学専攻に大学へ進学しましたが、講義や実験にあまり興味が持てず、野球の実力が向上したことや恩師との出会いにより、野球の研究をするために、大学院はコーチングの研究を行うため、筑波大学へ進学しました。当初、普通の就職は諦め、研究で飯をくおうと思っていました。ただ、あまり調べもせず勝手に覚悟だけしてました(調べる手段・環境もあったはず)が、いろんな理由で博士課程での進学は諦めました。猛省はしていますが、非常に充実した修士生活なので、後悔よりも得るものが非常に多かったです。

真剣に研究者を目指した時期もあって、自分の研究とは社会的にどんな意味があるのか?そもそもそれは面白いのか?周りが稼いでいる中で道楽とも思えることをしていいのか?などに自問自答したことは何度もありました。

そんな時期に”研究はロマンにあふれた行為””なぜ研究をするのかといえば、これはもう絶対的におもしろいからだ””研究こそ知的冒険の最たるものだ”という言葉に出会いました。(理系のための研究生活ガイドより)今回は、そのあたりから4つのポイントを述べようと思います。

①研究とは最高におもろいもの

情熱をもって、ロマンにあふれた最高におもしろい知的冒険にとりくむと時間を忘れます。現在も、研究を業務でも趣味でもしていて、他にやるべきことをほったらかしにしすぎていて、よく自分で自分を怒ります。

父は研究者ではないのですが、父は幼い頃からやりたかったことを仕事にしています。父のとんでもない実力を私が社会人になってから、実感していますが、それは才能と同時に好きなことに対して、情熱を注いで、成功を繰り返したからだと推察しています。私もそんなことがやりたいな、というかそういうことしかできないなと思っていました。そして現在、情熱を持ってできる仕事を任せていただいているので、周りに感謝と同時に、絶対に成功したいなと強く思っています。

②不屈の精神を継続して持つ

好きであるからこそ、仮説検証のために、何度も行います。仮説がデータで示されたりすると、非常に嬉しいですが、そんなにうまくいくものでもありません。好きであるからこそ、データの検証を何度もしたりして、研究室に泊まる行為も何度もしました。そんな生活は好きでしたが、精神が乱れて結局徹夜の次の日は動画サイトをずっとみてたりと、能率が悪かったなと反省しています。

生産性向上など叫ばれてる今おもうことは、集中のスイッチと環境づくりなどを意識して、自分にあった研究スケジュールの中で、不屈の精神で研究をする。いや、研究を進めることが非常に大切だと思います。一つの成果のために、不屈の精神をとぎらさないような、計画を立てること(ほとんど計画的に行かないことも計画の中にいれておく)が重要だと思います。

③真摯で行うべき=自分に、周りに嘘をつかない。

研究は強い根拠になります。研究は、科学的に認められている手法で、その対象や方法が同一のものであれば、同様な結果を示せるものでなければいけないです。だからこそ、研究結果を応用して様々な主張がなされます。先行研究を用いて、研究結果の考察を支持したりするなどがいい例だと思います。

研究倫理を遵守しているため、データの改ざんなどを行なった研究はたとえ内容があっていても、なかったものにされます。何年か前の〇〇細胞などがいい例でしょう。実際に、その細胞がある、その細胞に期待される効果があったとしても、それを示す方法やデータに誤りがあれば、研究者は真摯に受け止めなければいけません。因みに、論文を出す際に、研究倫理を遵守して行ったかどうかの誓約書?的なものを書きます。

だから、研究や科学は、何年後かに、計測方法などが進歩することで、結果が変わることは往々としてありますし、それでいいのです。でてきた結果は真実なので、それを真摯にうけとめ、都合のいいように改変することは、決して許されませんし、メディアや検察がストーリーありきで仕事をすることも世間からよく批判されてますよね(真実は置いといて)。私はそういうことに対して、融通がきかないかもしれませんが、本音でしか語りたくないと思っています。過去に、商品開発ストーリーに関する取材を受けた時にそのような印象を受けました。

④データは事実だが、原理原則からそのデータを見極めろ。

繰り返しになりますが、データは事実でありますし、再現性のある手法でおこなわれる研究結果は強い根拠になります。ただ、その解釈は原理原則から考えて、一般的に認められるような本質的なものなのか、その対象にしか認められないものなのかを分けなければいけません。そこを誤ると、事実から遠い結論を導き出しかねません。

大学院の講義で、科学はそのときそのときの真実であると教わりました。この意味は、過去の研究結果と異なった場合、その研究結果が自分のものであっても、科学者はそれを否定する必要がありますし、研究方法が進歩しより細かく現象を捉えること、もしくは対象が時代によって変化するので、結果は変わることは当然あります。

ある大学生チームのバットスイングとバット軌道の関連を分析するとします。スイングスピードの上位群は、遠回り(スイング序盤)しており、下位群は、コンパクトに振っていたとします。しかし、これが同じ年代や他の年代にあてはまるかどうかは慎重に議論しなくてはいけません。というのも、そのチームの指導方法が三振してもいいから、ホームランをとにかく飛ばすために、そういうスイングをしろと指導している可能性は否定できないからです。原理原則からいえば、理想的な身体の使い方をしているイチロー選手、大谷選手、ボンズ選手(栗山様の投稿より)のように、胸椎の回旋を駆使して、インサイドアウトでスイングできてれば、上記のような考察は多くの年代に共通するものにならないはずです。ただ、事実としては否定できないですし、もし遠回りでも、うまいタイミングの調整をする選手が多く出れば、この指導法がトレンドになり、この結果が最先端になるかもしれません。


原理原則から、その現象を捉え、トレンドにも配慮しつつということは前回の投稿と変わらないですね。最新の論文をみるときもこの視点は重要ですね。

まとめますと

①研究はロマンに溢れた知的活動である。

②情熱をもって、活動を行うので、いろんな苦難も乗り越えられるように不屈の精神が必要でありますし、なによりそれを続けられる工夫が必要である。

③結果は事実であるので、改変はあってはならない。真摯に行うべき。

④結果は原理原則から、分析して、常に最先端と本質を見極めるべき。

長くなりましたが、以上になります。コメントお待ちしてます。


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