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3分講談「女詐欺師・千坂光子」(テーマ:嘘)

明治二十九年・秋十月のある深夜。

東京浅草の常磐座という芝居小屋の楽屋で、若い役者と共寝をしていた一人の女が、踏み込んできた警官に取り押さえられてお縄となりました。年は三十手前、透き通るばかりの白い肌も露わに、切れ長の濡れた目で睨めつけるように辺りを見回した―、その艶めかしい姿に、警官も思わず息を飲んだと申します。(①)


彼女の名は千坂光子。女詐欺師。有名政治家とのつながりをほのめかしては、男達から大金を騙し取っておりました。この光子―幼名てるは、幕末の文久三年、米沢藩の家老であった千坂高雅の長女として、歴とした武家の家に生まれました。それがなぜ、稀代の女詐欺師と呼ばれるようになったのか―、今から申し上げますのは、波瀾万丈なその半生のお物語でございます。(①)


光子は生まれながらにして才色兼備、しかしその分派手な気質で、女学校時代から繁華街に繰り出しては遊び歩いておりました。十六歳で結婚をいたしましたが程なく離婚、その後、入院先の医師と懇ろになって貢いだことが父の怒りを買い、自宅に幽閉されたこともありました。

そのうちに、父の高雅が岡山県の県令となって赴任をいたしますと、光子も父について岡山へと参ります。そこで洗礼を受けてクリスチャンとなり、現在のノートルダム清心女子大学の創立に携わるなど、しばらく品行方正に過ごしていたようにみえましたが、人間の性というものは、そう簡単に変わるものではありません。岡山県庁の職員であった長崎豊十郎と再婚をいたしますと、これが類は友を呼ぶとでも申しましょうか、夫婦揃っての遊興狂い、多額の借金をこしらえまして、豊十郎は役所を追われ、光子はついに勘当。さらに追い打ちをかけるように、豊十郎は光子を捨てて、他の女性と駆け落ちしてしまいます。(①)

こうして、無一文・独りぼっちになった光子が、生きてゆく術として選んだのが、詐欺、でございました。千葉県九十九里の茶屋に流れ着いた光子は、「上野てる」という偽名を使って、酌婦として働き始めます。そこには裕福な商人や実業家が多く出入りしておりましたから、身の上話をしては同情を買い、金品を騙し取るようになったのです。その身の上話というのが、実に巧妙でありまして―、
「あたし本当は、千坂光子っていうんだよ。父親は貴族院の議員でね…本当だよ?夫は外交官で、一緒にドイツに行くはずだったんだけど、旅の途中で海賊船に襲われて、あたしだけ拐かされたんだ。生きた心地がしなかったよ。でもね、その海賊船が嵐で難破しちまって。海に投げ出されて漂流していたときに、この近くの漁師に助けられたんだ。」

もちろん、この話は真っ赤な嘘。けれど、男達はころっと騙された。さあここから光子は、巧みな話術と家柄を武器に、伊藤博文・大隈重信ら、明治政府の重鎮との繋がりまでもちらつかせながら、詐欺を重ねていくわけですが―、その数々のお話は、またの機会に申し上げることにいたします。

(参考:井上藤吉編著『大詐欺師千坂光子』(明治三十年))

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