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ごちうさ「銀河鉄道回」を読む~宮沢賢治論を手掛かりに~

※記事の性質上、ごちうさの雑誌掲載エピソード(単行本11巻範囲)のネタバレが含まれます。アニメ派や単行本派の方はご注意ください。

「銀河鉄道回」の2つの特異性

まんがタイムきららMAX2022年6月号掲載のごちうさのエピソード(現時点でサブタイトルは未判明のため「銀河鉄道回」と呼びます)は、2つの点でかなり特殊なのではないかと感じました。まず1つ目。ごちうさ作中で不思議な出来事やファンタジーは過去にも描かれてきたのですが、今まではそれらは相互に関連性の無いあくまで独立したエピソードとして描かれ、作中人物の受け止め方もさほど深刻ではないものとして描かれていた(「夢や気のせいだったかもしれない」程度、場合によってはギャグっぽく処理)と記憶しています。

マヤが存在しないゲーセンに迷い込んだエピソード(7巻)。オチはギャグで有耶無耶に
現時点でもなお「気のせいかなぁ」と認識するココア
(本当は確信していて、チノの目の前なので言葉を濁しただけかもしれない?)


しかし今回、青山さんという「大人」かつ「観測者的立ち位置」の人物が、各キャラの不思議体験を順番に聞き出し、自らも不思議体験をしてしまったことで、「木組みの街(※)というのは不思議な事が起こる場所なのだ」という事実が体系化され、はっきり作中人物に認識されるフェーズに入ったのではないかと考えます。

※本稿において筆者が「木組みの街」という言葉を使う場合、基本的にはざっくりと「ごちうさの世界」的な意味合いで使っていると思ってください

2つ目は、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」という、比較的最近の、作者のはっきりしている他の作品の世界観をストーリーの重要局面で引用し、その世界観とごちうさの世界観を接続させたことです。これも過去に無かったのではないかと思います。今までも「ハロウィンの夜にはご先祖様が帰ってくる」のような広く共通認識レベルになっている古い伝承を引用してくることはありました。また一点物のイラストなどでは「不思議の国のアリス」はしばしば引用されてきました。エイプリルフールの限定された世界観では「青い鳥」といった作品が引用されました。

「青い鳥」が引用された2022年エイプリルフール「ごちハピ」

しかし、メインのストーリーの、それも連載開始以来11年にわたってチノの家族内の秘密とされて来たティッピーの正体が家族外に明かされるかなり重要な局面において、ここまで特定の一作品(しかも今まであまりごちうさでは馴染みがなかった日本文学です)に寄せていくのは、作者のKoi先生的には結構勇気のいるチャレンジだったのではないかと思います。推測ですが、もしこの場面でごちうさの世界観とは程遠い作者/作品を引用してしまうと、元々のごちうさの世界観がぶち壊しになってしまうので、少なくともKoi先生的には宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の世界観は、ごちうさの世界観と矛盾はしないとジャッジしたのではないかと考えます。なお、後述しますが宮沢賢治の世界観はごちうさの世界観と積極的に親和性があると私は感じました。本稿は、そのように満を持して(?)登場した「銀河鉄道の夜」とはいかなる作品なのか、および宮沢賢治の世界観を掘り下げて行き、「銀河鉄道回」のストーリーとごちうさの世界観より深く理解することを目的にしています。

前提①:宮沢賢治ってどんな人?

本論に入る前に「宮沢賢治ってどんな人だったの?」「銀河鉄道の夜ってどういう作品?」の二点は確認しておかないと話が進められないので、確認しておきます。

賢治は、1896年、現在の岩手県花巻市に生まれました。地元の名家である宮沢家の長男であり、比較的裕福な暮らしぶりの家でした。しかし賢治自身は、当時の花巻では冷害に苦しめられる貧農も多い中、自分だけが豊かな暮らしをしていて良いのか?と葛藤する豊かな感受性の持ち主でした。そんな葛藤からか高校時代から宗教(法華経)にのめり込んでいき、宗教は彼の作風に大きな影響を与えています。賢治を理解するための重要なキーワードとして「イーハトーブ」があります。これは「岩手」をもじった賢治の造語で、賢治の心象世界中にある、故郷岩手県をモチーフとした理想郷を指しています。さらに、理想郷を作品世界中に描くだけでなく、自らもそれを体現しようと行動する人でもありました。「羅須地人協会」なる団体を立ち上げ、自らも農民の一人として農作業や農業指導、近所の子供達への自作童話の読み聞かせなどの芸術活動に従事し、理想的な共同体を作ろうとしたのです(上手く行きませんでしたが)。なお、この会を立ち上げる前は農学校の教師をしており、当時最新の科学であったアインシュタインの相対性理論を学び(どこかの自称姉とは異なり知ったかぶりではなく本当に学んでいた模様)感銘を受けるインテリでもありました。
また、シスターコンプレックス家族愛に生きた人としても知られ、妹のトシとは非常に仲が良く、その妹の死を嘆いて詠んだ詩「永訣の朝」は高い評価を得ています。他の代表作も「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「雨ニモ負ケズ」など、どれも有名作ばかり。さらには作曲や、自らの作品の挿絵も自分で手掛けることもあるなど、37才で亡くなったとは思えないほどに多才多作な人です。が、「実は二人組だった」というような説はありません!

前提②:銀河鉄道の夜ってどういう作品?

そんな愛と理想に生きた男、賢治が最晩年に病床の中で手掛けた集大成的作品が「銀河鉄道の夜」です。賢治はこの作品の大幅な改稿を繰り返しており、最終的にどれが完成稿と示さずに亡くなってしまったため、未完の作品と言う言われ方もされているようです。しかし、上述したようにアインシュタインの相対性理論に感化されていた賢治は、芸術にもその考えを持ち込んで「四次元的芸術」を目指していたと言われています。具体的には、空間に時間軸の概念を加え、自らの原稿についても時と共に進化させていくことを目指しました。原稿の完成とそこからの脱却を方法論として自覚し、時に作品の発表後すらも作品に修正を加えていきました。もしかすると、連載から単行本化の際に掲載順の入れ替えも含め(特に初期は)大量の修正を行ってきたKoi先生も、四次元的芸術の体現者と言えるのかもしれません(単行本化作業はどの漫画家さんもやると思うので無理やりと言えば無理やりですが……)。
話がそれましたが、上記の賢治のスタンスを踏まえると、改稿途中の原稿であっても上書きされたからといって軽視すべきではありません。実際、「銀河鉄道の夜」は、大きく分けて第一次~第四次稿が存在しており、第四次稿が一般的に最もよく読まれているバージョンなのですが(青空文庫にも収録されているバージョン。ここで無料で読めますのでまだの方は読んでみてください。以下これを青空文庫版と言います)、その一つ前の第三次稿と比べるとかなり大きい要素が切り落とされています。第三次稿では「ブルカニロ博士」というキャラクターが登場しており、銀河鉄道の旅はブルカニロ博士が実験によってジョバンニに見させた夢ということになっているのです。ブルカニロ博士はいわば作者の考えを代弁するキャラクターといえ、ジョバンニが夢から覚めるシーンで「さあこれからお前は夢から覚めて、夢の中で決心したとおり本当の幸福を求めてまっすぐに進んで行くんだ!」的な台詞を言う役回りとなっています。作者自身が作品に登場して主人公に説教しているみたいな感がないではなく、野暮な感じがあるので次の稿では人物ごと削除されたのだと推測されますが、作者自身が作品のテーマを作品中で語らせているため解釈上は重要となっています。以下では基本的に青空文庫版を参照するのですが、必要に応じてこの第三次稿(以下ブルカニロ版と言います)も参照します。なお、このブルカニロ版が読める本で最も手に入れやすいのは新潮文庫「ポラーノの広場」ですが、宮沢賢治作品は著者の死亡から相当年月が経過しフリ素(本来の意味)と化しているため、大抵の解説書で重要なシーンを引用してくれていますし、解説書によっては気前よく全編掲載されていたりします。

本論・序

前置きが長かったのですがいよいよ本論です。
・銀河鉄道に乗れるのはどんな人?
・ティッピーは天国に門前払いされていたはずでは問題
・銀河鉄道が「電車」で描かれた理由
・イーハトーブと木組みの街の類似性

の4つのテーマでごちうさ・銀河鉄道回を分析していきます。

銀河鉄道に乗れるのはどんな人?

銀河鉄道と言うと「死者を乗せて、天上に向かって走る鉄道」とのイメージを持っていると思います。基本的にそれが一般的な解釈と思って良いのですが、「銀河鉄道の夜」ほどのビッグコンテンツとなると色んなオタク研究家が色んな解釈を示しており、必ずしもそうではない解釈もあります。
作中で銀河鉄道に乗っていた人を改めて整理すると
・主人公ジョバンニ
・その親友カムパネルラ
・鳥捕り
・灯台守
・女の子(かおる子)、男の子(タダシ)、青年の三人組
となるのですが、カムパネルラは作品の最後で、ジョバンニをいじめていたザネリが川に落ちたのを助けた後に溺れてしまったと明らかにされます。カムパネルラの父が「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」と捜索を打ち切ろうとする描写があり、一般的には死んでしまったと考えられているのですが、よく考えると明確に死体が上がった描写がある訳でもなく死んだとは言い切れません。かおる子、タダシ、青年の三人組も、タイタニック号に乗っていたらしい描写がされており、状況から言って死んでいる可能性が高いですが、明確にそうと描写された訳ではありません。逆にジョバンニは明確に生きています。鳥捕りに関しては、死んでいると匂わせる描写は特にありません。灯台守は描写が少なくてよく分かりません。
一般的な解釈では、「基本、死んだ人が乗るが、ジョバンニは何らかの特別な理由で(カムパネルラを思うあまり?)乗れた」とされているのですが、必ずしもそうと言えないのでは?という説を提唱しているのが村瀬学という研究者です。
この方の説では銀河鉄道は死後の世界ではなく「物語と事実の境界上を走る」と位置付けられており、また「少年の主観性」を持つのが銀河鉄道に乗る資格なのだとされています。超ざっくりと解説しますと、たとえば冒頭の「午后の授業」のシーンにあるようにジョバンニは「銀河は小さな星の集まりだ」という事実(科学的事実)を知らない訳ではないのですが、一方で「ケンタウル祭の夜」のシーンでは「ほんとうにこんなような蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たい」と「物語」を夢想する子供っぽさを残しています。このように「事実」と「物語」を心の中にバランス良く兼ね備える、少年の心を持ち続けている状態が「少年の主観性」であり、これを持っているのが乗車の条件だと言うのです。一方でカムパネルラも少年の心は持っているのですが、ジョバンニと比べると少し大人びた子とした描かれています。たとえばザネリの子供っぽいいじめには距離を置き、汽車の中でも女の子(かおる子)と自然に話しています(逆にジョバンニはうまく話の中に入っていけていない)。これが決定的になったのがザネリを助けに川に飛び込んだ行動で、これは少年期を抜け出て大人になった者の行動です(現に川の周囲に他にいたはずの子供は飛び込んでいない)。少年期を抜け出して、物語と事実のバランスが崩れ、青年期へと旅立った者は汽車から下りなければならないのだ――村瀬はそう解釈しています。他の乗客も、かおる子、タダシ、青年の三人組はキリスト教徒であるらしいと示唆され、信仰という物語を心の中に持っているようです。鳥捕りも、ジョバンニとカムパネルラに言わせれば「お菓子」でしかないものを「鳥」と言い張っている節があり、心の中に人とは違う物語を有しているのかもしれません。

さてごちうさの話に戻ります。この村瀬解釈はごちうさの本編とも親和性がありそうです。凛は「そういうのって大人になると気付けなくなるっていうよね」「私みたいに頭固くなると見えなくなるものがたくさんあるかもしれないけど…」と言っています。凛は「事実」の側に傾き過ぎていて列車には乗れないのでしょう。

とは言え、繰り返しになりますが村瀬解釈だと銀河鉄道に乗っているのは必ずしも死者ではないとの結論になりますが、ごちうさ作中の描写を見る限り銀河鉄道は死者の乗り物として扱われていると考えられます。サキさんが乗っていてティッピーが「まだ乗車できん」と答えるくだりはつまりそういうことなのでしょうし、生者も乗る乗り物なのであればティッピーはあんなに必死で青山が乗るのを止めないのではないでしょうか。

木組みの街に来る銀河鉄道は死者の乗り物と考えた上で、村瀬解釈はあくまで「不思議体験が出来るキャラ/出来ないキャラ」の差異を考える際の参考に留めるのが良さそうです。

ティッピーは天国に門前払いされていたはずでは問題

ティッピーと言えば、今回のエピソードでは「まだ乗車できん」と言っており、自分の意思で天上に行くのを拒んでいると見えます。しかし一方で6巻時点では「わしは天国に門前払いされたままじゃ」と言っており、天国の側から拒まれていたのでした。

この一見矛盾する台詞をどう解釈すれば良いのでしょうか? ちなみに9巻時点では「そうなれる日まで見守っておるよ」とも言っており、ある程度自分で成仏するタイミングをコントロール出来るかのような言い方にも聞こえますね。

元々が不確実な死後の世界の話でもあり、これと言って説得力のある解釈が示せるわけではないのですが、思いつくがままに3つくらい並べてみました。
・「天国に門前払い」というのが嘘(冗談)だった
・6巻時点では門前払いだったがティッピー自身に何らかの変化があり行けるようになった
・ティッピーは銀河鉄道に乗ることは出来るが「本当の天上」にはたどり着けない。それをもって「門前払い」と言っている

一つ目に関しては、ティッピーらしい一種の「かっこつけ」で、実際はそうではないのだけれど「天国に門前払い」と言うのはあり得なくはないと思います。しかし個人的には、チノを心配するあまりうさぎになってまで地上世界に残ったティッピーが、「ティッピーも空に還ってしまうのでは」という結構シリアスなチノの心配に対して、余計にチノを心配させる冗談を言うかなぁ、とは疑問に思っています。この話を聞いた後にチノがティッピーを「ぎゅーっ」とするシーンは、特にアニメだと今にも泣きださんばかりの水瀬いのりさんの演技もあいまってとても痛切に聞こえるんですよね……。完全に余談ですが、私はこの回を初めて読んだ時、「チノ祖父は、その魂を与えられた寿命を超えて地上に残すために仏教で言うところの外法な行為に手を染めていて(あるいは寿命以上を願う事それ自体が外法であり)、畜生道に堕とされたからうさぎになってしまったのだろうか……?」みたいな心配をしました。

哀れな畜生ティッピーを抱きしめるチノ

二つ目に関しては、6巻~今回のエピソードまでの間で何かティッピーが凄く徳を積むとかして天上に受け入れられるようになった、というのは、理屈的にはなくはなさそうなのですが、では具体的にそんな徳を積むようなエピソードがあったかが最大の疑問となります。むしろシンプルに、6巻時点では成仏する方法が分からなくて、今回で銀河鉄道の迎えが来たことでこれに乗れば成仏できると気付いたとかそういうことなのかもしれません。

三つ目は今回の記事のテーマでもある宮沢賢治論とも絡めた解釈です。ちょっと迂遠かつトリッキーなのでこれが必ずしも妥当と主張するつもりはないのですが、思考実験的に書いていきます。
「戦後最大の思想家」とも呼ばれた吉本隆明は、宮沢賢治についても研究を行っていました。その吉本は、銀河鉄道の夜の描く死後の世界には段階があるのではないか?と言っています(「死後の世界における等級観」)。つまり、生前により良い生き方をした人はより高い等級の天上に行けるという世界観です。いわくこの考え方は法華経的でもあるそうです。具体的には、「鳥捕り」のような、生き物を殺生してそれを商売にしていた人は最初に銀河鉄道から消えてしまう。船の沈没に際して席を譲った三人組とザネリを助けて死んだカムパネルラはより等級が高いですが、それでも消えてしまう。彼らは吉本の言い方を借りると「たまたま難事にあって自分を殺して他人を生きさせた行為をやっただけ」となります。そういう一回性の行為よりも、日々善行を積んでいたジョバンニの方が格上なのでは?と言っています。そして実際にジョバンニだけが「本当の天上」へ行ける緑の切符を持っている訳です。
で、さらにネットの海を漁っていたところちょっと面白い解釈を見つけました。

作者の賢治は自己の博愛主義と自己犠牲的生き方ではみんなを幸福にすることはできないことを悟り、その限界を真っ暗な空の穴の縁に途中下車してしまうカムパネルラの姿に見ていたのではないか。
賢治は一方で、ジョバンニには自分が同化したいと思いつつ遂にできなかった、貧しくとも家族を支えて働き続ける農民少年像を重ね、カムパネルラの死や作者の造りあげた夢の銀河世界をも越えていく存在として描いたのではないか。

ここで思い出して欲しいのはチノ祖父もある意味自己犠牲の人であることです。チノ祖父は「いっそうさぎになりたい」とは言っていましたが、ティッピーみたいな暑苦しいうさぎにはなりたくないとも言っていました。

よりによって自分がなりたくないものになってしまった……皮肉な笑いを誘いますが、そんな犠牲を払ってまでチノを守っているとも言えます。自己犠牲の人であるチノ祖父はカムパネルラと同じ立ち位置で本当の天上に行く資格はないのかもしれません。その考え方に立つと、あらゆる人を幸福にする、本当の天上を実現する役目はジョバンニと同じ立ち位置の人=青山をはじめとする今を生きているごちうさキャラ達に託されたと言えるのかもしれません(繰り返しになりますが迂遠かつトリッキーな解釈だとは思います)。

銀河鉄道が「電車」で描かれた理由

既にお気づきの方も多いでしょうが、木組みの街に来た銀河鉄道は、一般的にイメージされる銀河鉄道とは異なり、SLではなく電車型で描かれています。

私は全く知らなかったのですが、賢治の描いた銀河鉄道はかつて存在していた「花巻電鉄」をモデルとしており実は電車型なのではないか?というのはWikipediaにも乗っている程度には有名な説のようです。ではSLで描いているのは間違いなのか?というとそういう訳でもなく、花巻にある宮沢賢治記念館の動画資料では「鉄道研究家の協力を得て岩手軽便鉄道をモデルに(SL型の)銀河鉄道を再現した」旨を言っており、いわゆる公式見解はSLのようです。
Wikipediaでも引用している論文を参照しつつ、電車説の根拠をざっと確認しておきましょう。まず、作中の以下のやりとりが挙げられています。

「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。

また、銀河鉄道は「しずかに動く」、つまり蒸気機関の特徴である大きな音がしていない点が挙げられています。(「汽車」と言ってはいますが、これは国語辞典的な意味では必ずしも蒸気機関車に限られないのでは?とも言っています)

ずうっと前の方で、硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。

すきとおった硝子のような笛が鳴って汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。

一方で、停車場にある時計が「振子時計」であると描写されており、電気が通っていたら電気時計を使うはずなので、銀河鉄道には電気は通っていないのでは?との指摘も他の文献であったりします(畑山博「「銀河鉄道の夜」探検ブック」)。

その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。

とはいえ、そもそもが空を飛ぶ列車と言うファンタジーな存在についての話なので、作中の描写から現実的に動力が何なのかを考えるのは(面白いですが)限界があるとも思います。少なくともはっきりと列車の外見がどうであると描写はされておらず、両説とも決定打に欠けるというのが結論でしょう。
むしろこの論文中の指摘で面白いと思ったのは以下の点です。

「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐がすっかり煤けたよ。」

この描写は第三次稿(ブルカニロ版)にはなく、第四次稿(青空文庫版)で初めて追加されました。第三次稿では、ブルカニロ博士が「ここの汽車は、スティームや電気で動いてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」と述べるシーンがあり、そのシーンの削除とともにこの描写が追加されたのです。要するに、第四次稿では、ジョバンニがカムパネルラの家でアルコールランプで動くおもちゃの汽車を見たという伏線から、銀河鉄道もそのおもちゃの汽車の姿で現われたのでは?と述べています。つまりこの見解に立てば、銀河鉄道とはそれを見た人の心象風景を反映する姿で現われるとの結論になります。第四次稿では銀河鉄道それ自体がジョバンニが見た「夢」なので、当然それはそうと言えばそうなのかもしれませんが。

さて、翻ってごちうさの話です。一般的イメージのSLとは違う形で描いた以上、Koi先生も何らかの考えがあって電車型で描いたのではないでしょうか。その意図は推測するより他にありませんが、Koi先生も銀河鉄道の姿には作中人物の心象風景が反映されると思ったのではないでしょうか。ごちうさ作中で銀河鉄道を直接見たのは「青山」「ティッピー」「サキ」の3人となっています。誰の心象風景が反映されているにせよ、彼らは普通に現代を生きる人たちなので、列車と言えば電車に馴染みがあるはずです。

イーハトーブと木組みの街の類似性

本稿最後のテーマです。「銀河鉄道の夜」からは少し離れて、賢治の描いた理想郷「イーハトーブ」とはどういう世界観なのかを見てみましょう。賢治が生前に唯一発表した童話集「注文の多い料理店」の広告では、自らこう解説しています。ちょっと長いですが冒頭をそのまま引用し、私が重要と思った部分を太字にします。

イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。
実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在した
ドリームランドとしての日本岩手県である。
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従へて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさへそこでは聖くきれいにかゞやいてゐる。
深い掬の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市迄続々電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。この童話集の一列は実に作者の心象スケツチの一部である。それは少年少女期の終り頃から、アドレツセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとつてゐる。
この見地からその特色を数へるならば次の諸点に帰する。
これは正しいものゝ種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残澤を色あせた仮面によつて純真な心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。
これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる警異に値する世界自身の発展であつて決して畸形に涅ねあげられた煤色のユートピアではない。
これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。

さらに、小説家で文芸評論家である倉数茂は、イーハトーブについてこう述べています。(「没後80年永久保存版 宮沢賢治 修羅と救済」に掲載された評論「『神話』としての賢治世界」から引用。同じく、私が重要と思った部分が太字)

一言で言えば、それは単なる恣意的な空想ではなく、現実世界の聖化された姿であり、ありうべきひとつの可能性なのである。

賢治童話は、純粋な自然的自発性だけが横溢する世界である。そこに苦しみや悲しみが存在しないわけではない。ただ、悲しんでいるわけではないのに、悲しんでみせる、といった「見せかけ」がありえないのである。先ほどの「注文の多い料理店」広告にも、「罪や悲しみでさえそこ(イーハトーブ)では聖くきれいに輝いている」という一節が記されていた。悲しみも喜びも、文化的コード(礼儀や社会道徳)に媒介されることなく、まじりけのない純粋な感情として噴出するのだ。

直観的に共感を求める言い方になりますが、木組みの街(ごちうさの世界)と似ている、と思わなかったでしょうか? Koi先生自身がご注文はうさぎですか?展のパンフレットのインタビューにて「根本にあるのは悲しさと苦しみなので、そこは優しさで包みたいと思いました」と述べているのに驚くほど似ていると私は思いました。
ごちうさで描かれているのは一種の理想郷的世界だよなとは多くの人が感じているのではないでしょうか。しかしそれは「木組みの街では悪い事も悲しい出来事も起こらない、平和な世界だからみんなハッピー」のような単純な世界観ではありません。この世界には軍隊もあれば貧富の格差もありますし、「受験」や「企業間の競争」等の現実的にシビアなイベントもあり、何よりもチノは大切な人との死別を一度ならず経験しています。

ティッピーが喋るといった少しのファンタジーはありますが、あくまで現実的な世界と現実に起こりうる出来事を丁寧に描いていき、それがいつの間にか「優しい世界」に発展していくプロセスを描く。それがごちうさの最大の魅力なのではないかと思っています。そのプロセスは、単に地理的な意味での木組みの街でのみ発生するのではなく、どこででも起こり得る、再現性のあることであり(つまり「恣意的な空想」ではない)、都会の廃墟ホテルであっても「素敵なカフェにしてしまえる」と示されています。

物語の第一部・完とも言える8巻ラスト

2000年後の文明が滅びた世界だろうとこのプロセスは起こると示唆するのがリプラビ(2020年エイプリルフール)ですし、この世界では罪でさえ輝いていると示すのがナナラビ(2021年エイプリルフール)ですし、現実世界(東京)を発展させても「木組みの街」は実現できると示したのがクロラビ(2019年エイプリルフール)だと思います。完全に余談ですが、クロラビと並行世界概念の登場によって木組みの街と東京が接続されてしまったのがあまりも衝撃的過ぎる……という話を私は自分の小説の後書きでクッソ長々していたりします。本は完売していますが後書きの一部だけツイートでアップしているので気が向いたら読んでみてください。

さて、ここまで読んで来て、木組みの街とイーハトーブは抽象的なレベルでは共通点が多いと感じていただけたと思いますが、具体的にどう共通しているのかは分からなくないですか?分からないですよね?やっぱりこういうのって文字を読んでいるだけでは分からないと思いますよね?
……そこで、我々取材班は謎を解き明かすべく、イーハトーブのモデルとなった岩手の奥地へと飛んだ!(※一度は言ってみたかったフレーズ)(※これを言いたいがためにこの記事を書いた)(※新幹線で行ったので飛んでいない)

岩手の南端にあたる一ノ関から岩手県入り
世界遺産・平泉
偶然にも平泉は「春の藤原まつり」の真っ最中なのでした
源義経役を演じる俳優の伊藤健太郎さん
奥の細道「夏草や兵どもが夢の跡」が読まれたのはこのあたり
芭蕉よりもさらに北へ向かう
賢治の故郷の新花巻駅は「賢治一色」ムード
温泉むすめin花巻
賢治の世界観を再現した童話村
(planetarianでアレンジされた「星めぐりの歌」が無限に流れておりテンションが上がった)
「ばかもん 乗るでなーい!」
白鳥の停車場
貴重な情報や資料の宝庫、宮沢賢治記念館(館内一部撮影可)
賢治は農業を通じて理想共同体を実現しようとしていた
宮沢賢治記念館からの眺め。賢治の思い描くイーハトーブとはどんな場所だったのだろうか?


これ以降は2023年3月の岩手再訪の時の写真。フォロワーさんのお誘いにより、この年の6月でラストランとなるSL銀河に乗ることが出来ました。ありがとうございました。



現地取材(と言う名のただの観光)を終えての感想ですが……
新花巻駅は賢治一色ムードで街をあげてアピールしているのが感じられましたし、宮沢賢治記念館の展示では親しみを込めて「賢治さん」と呼んでいるなど、まさに故郷を愛し、故郷に愛された人だなと感じました。また、賢治は理系的素養のある人だったとは上でも述べましたが、童話村の展示の中では、賢治は地質学にも興味を持っており、自然を愛しフィールドワークを好む性格もあいまって野原を駆け回っては石ころとかをめちゃくちゃ拾ってくる人だったと言われており、「もし賢治さんが現代に生きていたらアドベンチャーゲームのクリエイターになっていたのでは」と言われていたのが印象に残りました。あらゆる人の本当の幸福を求める理想郷・イーハトーブの世界観を作り上げた事を含め、現代まで通用する普遍的な感覚を持っていたからこそ、宮沢賢治作品はごちうさに限らず非常に多くの漫画やゲームでモチーフにされたのだと思います。
彼の作品をモチーフにした漫画やゲームを愛好する人であれば一度はその故郷・岩手県を訪れてみると面白いのではないでしょうか。

お読みいただきありがとうございました!

参考・引用文献

・山下望美(2018)「別冊NHK 100分de名著 集中講義 宮沢賢治 ほんとうの幸いを生きる」NHK出版
・村瀬学(1994)「『銀河鉄道の夜』とは何か」大和書房
・吉本隆明(1989)「宮沢賢治」筑摩書房
・吉本隆明(2012)「宮沢賢治の世界」筑摩書房
・畑山博(1992)「「銀河鉄道の夜」探検ブック」文藝春秋
・河出書房新社(2013)「KAWADE夢ムック 文藝別冊 没後80年 宮沢賢治 修羅と救済」
・入沢康夫/天沢退二郎(1990)「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」青土社
・家井美千子(2014)「『銀河鉄道の夜』の「銀河鉄道」 −その動力源はなにか−」アルテス リベラレス (岩手大学人文社会科学部紀要) 第93号 15頁〜31頁
・曽根肇「空想児童文学の課題 ―宮沢賢治「銀河鉄道の夜」にふれて」https://sonehajime.com/hobby/kenji-miyazawa-world/essay-03/(閲覧日:2022年5月14日)


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