時計と自転車
やってやれないことはないんじゃないか
我が子が時計の読み方、自転車の乗り方にチャレンジしている。小学校に入ってからだったのかあ……と遠い過去の自分の記憶を呼び覚ましてみた。
ゾッとした。なぜか?どちらも、オヤジに殴られながら覚えたからだ。
嫌な記憶しかない。あれは、突然、日曜日の昼下がりに始まったと記憶している。
オヤジに呼ばれてテーブルに座ると、時計の読み方の問題集が置かれていた。はて?どういうことだろうと思ったが、いきなり始まったオヤジの時計読み方レッスン。
間違えれば怒られる。なぜ、読めない……と詰められる。言葉と同時に手が出る。恐ろしくて答えられないから、また怒られる。
その無限ループは、しばらく終わることがなかった。その後、どうやって時計を読めるようになったのかは定かではない。そんなことよりも怒られながら、泣きながら覚えて記憶が勝っている。
自転車にしてもそうだ。いきなり自転車を渡され、アドバイスは受けたが、こけるのが怖くて思うようにバランスが取れない。その度に怒られた。最後は呆れられ、自転車は長屋の裏に捨てられた。
捨てられていた自転車を救い出し、恐る恐る漕いでみた。すんなりと乗れた。拍子抜けするほど簡単に乗れた。あの興奮は覚えているが、怒られた記憶も、しっかり刻まれている。
楽観的でいいじゃない
さて、我が子へのボクのスタンスは?殴ることはないし、怒ることもない。
自転車に乗れなくても、時計が読めなくても生きて行けるからだ。もちろん、乗れない、読めないことで悲しい思いをすることもあるだろう。でも、いずれは両方ともできると思っている楽観的な思いがあるので、それほど口うるさく言うことはない。
翻って、妻は真剣だ。自転車もバランスのとり方、ペダルの漕ぎ方と、細かく丁寧にアドバイスする。その様に感心する。
時計にしてもそうだ。粘り強く、我が子に教える。ちょっと口喧嘩になることはあるけれども、紙に書いてわかりやすく伝えている。
その甲斐があってか自転車は乗れるようになった。時計はまだだが、こちらもそう時間はかからないだろう。
苦手だったことも時が経てば、空気を吸うように当たり前になる、というまとめ方をしたかったけど、書いていてゴールが変わってしまった。
ママの妻にありがとう
そう、妻は粘り強く、我が子に対して真剣なのだ。ボクも真剣でいるつもりだけど、その何倍も真摯に向き合っている。その姿勢は見習うべきだが、なんとかなるだろうと思っているから、まだうまく我が子と向き合えないところがある。
妻であり、母であり、仕事を頑張るワーカーでもある妻。様々な場面で、与えられた役割を巧みにこなす様は、面と向かっては言えないがリスペクトしている。あまりにも役割に従順なのでイラっとすることもある。バカ真面目か!と。でも、それが彼女の生き方なのでリスペクトしている。言葉では言わないけれども。
妻は子どもに苦手意識があった。今もあるのかもしれない。ボクは対照的に誰の子どもであっても、ちょっと危ないくらいフレンドリーに接する。好対照なのだ。
だから我が子を授かるのに躊躇いもあったはずだ。そんな妻が、しっかりママをしている。その姿は、やはり尊い。我が子はボクよりも妻が好きだ。悔しい。
まだ、きっと、子どもへの接し方に悩むところもあるはずだ。それでも、ママを精一杯やっている妻は素敵だと思う。やらざるを得なくても、やらない人はいるのだから。
今日は、母の日。ボクにとっては妻だけれども、ママとしての彼女にありがとうを言いたい。言葉では言えないので、この場を借りて。
明日からもよろしくお願いします!!
おもいのままに。続けます。今日も呼吸ができた。ありがとう!
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