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bad night baby

 とある昼下がり、聖なる学びの園の片隅で、およそ似つかわしくない白煙が無責任に立ち上っていた。
 
 窓越しに見える、防球ネットで無数に区切られた、甘酸っぱい青春の景色を肴にすると、口内に広がる煙草の苦味が一段高尚なものになった気がして、クセになる。
 そんな退廃的な心持ちで、ハワイで買った派手柄の携帯灰皿に灰を落とすと、なんだか煌びやかな箱庭に黒ずんだ影を一つ落としてやったような気分になって、心の奥でほくそ笑む。
 捻くれが度を越して、螺旋を描いてしまっているような、自身の精神構造に嫌気が差しながらも、再び吸口を咥える。
 それが、彼女、蓼原 有彩たではら ありさの日課だった。

 そして、ちょうどそのタイミングで、ガララ...と引き戸が開いた。
 有彩は、この無遠慮な闖入者ちんにゅうしゃの正体をよく知っていた。

 「また学校でタバコなんて吸っちゃってさ、いけないんだ」

 その少女は小潤井川 雪こうるいがわ そそぎと言い、ハイで結んだ見事なツインテールが特徴的で、チラリと覗くマゼンダのエクステが醸し出す幻想的な雰囲気も相まって、まるでイラストから飛び出したような、非実在性を感じさせる出立ちをしている。
 この非実在性少女は、この部屋、「保健室」の常連客であり、この学校の生徒である。
 この部屋の主である、養護教諭の有彩とは、教師と生徒の関係にある。
 雪は、部屋に入るなり勢いよくソファに倒れ込むと、卓上に置かれたスマートボトルタイプの清涼剤を、部屋主である有彩の許可も得ずに、数粒つまんで口に放り込んだかと思えば、これまた手頃な位置にあった国民的マンガの2巻を片手で気だるそうに捲る。
 客と呼ぶにはあまりに奔放過ぎるその態度に、辟易する段階はとっくに過ぎてしまった。
 それほどまでに雪は、頻繁にこの保健室に通い詰めている。
 なので有彩も、突然のことではあるものの、もはや常態化している来訪に対して、眉ひとつ動かすことはない。
 それどころか、生徒の前であるというのに、ニコチンの吸引を止めることもない。
 態度を示すように、わざと大きく煙を吐いた後、有彩は全く悪びれずにこういった。

「いざとなったら、その辺のチョーシくれてるガキどもにカブせっから別にいいんだよ」

「うっわ、最悪。不良教師!」

「うるせーよ、非行少女」

 目もろくに合わせない。
 そんな投げやりなやりとりが、保健室の日常だった。

 *

「それでさ、昨日観た映画がマジ良かったってワケ。ヒロインのアイドルちゃんが可愛かったのはもちろんなんだけどさ、脇を固める若手女優の演技が.…..」

 少し空を見上げて、感慨に耽っていようかと思っていた有彩だったが、雪が、これまた唐突に、マシンガントークを始めたことで、一瞬で台無しになった。
 夢中で漫画を読んでいたかと思えば、出どころ不明の話を唐突に話し出す。「ジェットコースターみたいな女だな」と有彩は思う。
 大体、なんなんだ「それでさ」って。
 まるでその前に会話が存在していたような口ぶりだが、その品詞が接続している先は「無」である。
 前述した「うるせーよ、非行少女」以降、本当に、誰も、一言も、発していない。
 だからこそ、有彩も、空でも見上げて感慨に耽ろうか、なんて気持ちにもなったわけだ。
 
「あーうるせえうるせえ。ガキのオタクトークに付き合ってやるほど暇じゃないんだよこっちは」
 
「いや、暇でしょ。何本目よ、タバコ。」
 
「わかってねぇな。煙で脳を活性化させて、業務能率を上げていくんだから、大事な時間なんだよ。」

「適当いうな、ニコチン中毒者」

「うるせー、演技オタク」

 まるで冒頭の焼き増しのようであるが、彼女たちの会話は基本的にこういったフォーマットで展開されている。
 大体の場合において、雪が蔑称混じりの悪態をついてくるので、有彩は、それをそのまま返しているだけだったりする。
 何も生み出されない、側からみたら虚無のような時間だ。
 
「つーかお前、ここんとこ、来る頻度が高すぎる。流石に大杉先生からも、注意するように言われた」

 その固有名詞に、雪は顔を若干しかめた。
 大杉は雪が所属するクラスの担任教師である。
 週に何度も保健室に通っている雪は、大杉から完全に目をつけられており、叱る大杉と反発する雪の構図は、学内でも見慣れた光景となっていた。

「あー...大杉。...で、注意喚起って、何すんの?」

「もう来んな、あと先生を呼び捨てにすんな、以上。私に飛び火するから」

「飛び火どころか自分で火つけてんじゃん。それ、言いふらすよ」

 雪は上顎を少し動かし、私の手元を示してきた。
 その手に握られているものは、ニコチンフリーの電子タバコ(一応気を遣った)なので、ライターで着火しているわけではないのだが、そんなことはどうでもいいことだ。
 
「じゃあ私は、お前の保健室での態度を余すことなく大杉に報告する」
 
「それはちょっとめんどい」

 大杉が説教してくる姿を想像したのだろうか。
 雪は、分かりやすく眉間に皺を寄せている。

「でもさ、雪。冗談抜きで、このままだと出席数が足りなくなって、真っ当に卒業するのとか絶望的な感じになるよ」

 このままだとまた冗談みたいな流れになると感じた私は、一度落ち着いて、諭すように雪に語りかけた。
 大杉にチクリと言われたのは本当だからだ。

「いいんだよ、別に。私女優で食ってくから」

 雪はそう言うと、バツが悪そうに目を逸らす。
 『女優になる』、雪はその言葉をよく口にする。
 きっとそれが雪の「夢」なのだろうと言うことは、なんとなく分かる。普段から演技の話ばかりしていることからも、本当に好きなのだろうなということは、有彩も察していた。
 しかし、雪は、誇りを持ってその「夢」を口にしているとは言い難い態度だった。
 それならば、私は教師として、大人として、厳しい言葉を口にせざるを得ない。

「適当なこと言うな」

「適当じゃない。毎日プロの演技見て勉強してるし、練習も欠かさずしてるし」

 言っていることは、分かる。努力の方向だって間違ってはいない。
 前途ある若者のアンビシャスを、純粋に奨励したい気持ちが、一応は教師である有彩の中に、存在しないわけではなかった。
 ただ、純一無雑な言葉をかけられるほど、有彩の心は透き通ってはいなかった。
 そして何より、瑞々しくあるべき、夢を語るその言葉に、得体のしれない濁りのようなものを感じられ、それがますます有彩の心を苛立たせた。

 「じゃあ、授業をフケて出来たこの空き時間にこそ何かやれよ。ダラダラ漫画読んでるだけのヤツの言葉に説得力なんかない」
 
 有彩は思ったままの言葉をそのまま口にした。
 教師、ましてや養護教諭である有彩は、生徒のメンタルケアも仕事の一環で、普段は生徒の心を傷つけないよう細心の注意を払って接している。
 感情を抑えて、心優しい保健の先生を演じることだってある。
 しかし、今は、オブラートにだって包むことのない、ありのままの言葉を強めの語調で雪にぶつけている。
 止まるべきだ、止まるべきなのに、一度ついてしまった火を消すことはできなかった。
 
 「...は?何?息抜きくらい誰でもするでしょ」

 ヘラヘラと適当な態度を取っていた雪も、流石に、この発言に込められた苛立ちの感情には反応を示さざるを得なかった。
 まるで、罪を咎められているかのような、強い責めの語調に、雪も尖った感情を返すしかなかった。
 
「息抜きするほど根詰めてるようには見えないけど。そんなことで一分一秒を詰めて、寝る間も惜しんで努力してる連中に勝てると思うのか?」

 それを受け、有紗もまた苛立ちを募らせる。
 「そんなこと、言われなくてもわかってる」と、雪が思っているであろうことを察してもなお、有彩はシリンダーに言葉の弾丸を詰めることをやめなかった。

「なんなの!?説教とかやめてほしいんですけど」

「説教じゃねーよ!本気ならそれくらいやるだろって当然の話をしてるだけだろうが」
 
 そうしてまた雪も段々と火がついてきて、その火がまた有彩に燃え移って。
 こうなるともう止められない。窓から吹く心地よい風も、今は燃え盛る炎を広げる火事場風にしかならない。
 お互い感情をぶつけ合って、行くところまで行くしかないかのように思われた諍いだったが、次の言葉で唐突に終わりを迎える。
 
「自分の夢が叶わなかったからって、人に当たらないでよ」
 
 雪はそう言い捨てると、手に持っていた漫画を乱雑に放り、有彩に一瞥もくれることなく、感情のまま扉を開け放ち、部屋の外へ姿を消した。
 有彩はその雪の態度を咎めることも、発言に対して反発することもなかった。
 なぜなら、雪が放ったその言葉に正当性を感じてしまったからだ。

 有彩にも、夢を追いかけていた時期があった。
 その夢は、奇しくも、雪と同じ、「女優になる」という途方もない夢だった。それをどこからか聞きつけた雪は、いつからか保健室に通うようになった。
 夢の始まりは高校二年生の初夏、その学校の卒業生であり、舞台女優として活躍しているOBの講演会を聴いた時だった。
 高校二年生といえば、少しずつ自身の「将来」について考え始める時期。有彩も例外ではなかった。
 「将来」というあまりに捉え所のない概念について考えるには、何かとっかかりが必要だと考えた有彩は、その「将来」の段階に到達したであろう身近な大人たちを観察するようになった。
 父親は鉄工所で働く営業マンであり、帰宅は平均的に遅く、いつもくたびれた様子で帰ってくる。
 帰宅してからも、会社から配給された業務用携帯に電話がかかってくることも珍しくなかった。相手が目前に居るわけでもないのに、通話しながら、しきりに頭を下げる父の姿が印象的だった。
 母親は保育士で、帰宅時間は早いが、出勤も早い。朝の6時にはもう家を出ているし、有彩や父親の弁当まで作っているのだから、起床時間を考えるといたたまれない気持ちになった。親たちへの対応に神経をすり減らしているからか、夕食時には、愚痴をおかずに白米を頬張っているような痛々しさが感じられた。
 これらが、「将来」の形であるならば、あまりに光がないな、と有彩は思った。
 「将来」をもっと輝けるものであって欲しいという願望が、有彩を「現実」から遠ざけた。夢のような職業に憧れていた。
 そんな有彩にとって、OBが話す浮世離れしたエピソードの数々は、とても魅力的に感じられた。
 辛く苦しい時期の話や、甘くない世界であるというOBの念押しでさえも、有彩にとっては夢を彩るスパイスでしかなかった。
 厳しい努力の果てに、輝かしいビッグドリームを掴み取る。
 そんなシンデレラストーリーを、すっかり思い描いてしまった有彩は、そこからがむしゃらに努力を続けた。
 だが、結果として、その夢は叶わず、進学した教育学部の養護教諭育成課程で手にした養護教諭一種免許状をもって、養護教諭になった。
   
 とっくに振り切っていたはずだったが、知らず知らずのうちに、夢を前に挫折した、自身の姿を雪に重ねてしまっていたのだろうか。
 だとするならば、なんて愚かで浅はかなのだろうか、と有彩は、自身の精神性を幼稚なものとして恥ずかしく思った。
 先ほど雪に言い放った自身の発言を、記憶の中でなぞっては、いたたまれなくなって頭髪をかき乱した。
 
 絶対に、腐っている生徒にかける言葉じゃなかっただろ…クソッ! 

 すぐにでも雪を追いかけるべき場面ではあったが、有彩は自分の足を前に出すことができなかった。
 追いついても、なんて言葉をかけていいか、今の有彩には分からなかったからだ。
 有彩は、少し間を置いて椅子に座ると、苛立ちを晴らすように、溜まった書類に向き直った。

 
 *
 

「とにかく、今後は頼みましたよ蓼原先生」

「すみませんでした。以後気をつけます」
 
 結局、雪は、無断で帰宅したらしく、有彩は養護教諭としての責任を問われることとなった。
 口うるさい教師・大杉からは、クドクドと、養護教諭とはどういうものかということを嫌味ったらしく語られ、始末書の作成を命じられた。
 養護教諭でもないアンタに何がわかるんだ、とうんざりしながらも、この件に関して責任は感じていた有彩は、大人しく放課後の時間に残って始末書を書くことにした。

「まあ、生徒も生モノですからね。そういうこともありますよ」

「はぁ」

 保健室で集中しよう、と職員室で荷物をまとめていたところ、社会科目の教師である菅原が声をかけてきた。
 慰めてくれようとしているのは分かるのだが、生徒を一人の人間としてではなく、モノとして扱うそのイカれた教育観には辟易してしまう。
 しかし、それが、教師というストレスフルな仕事を続けていく上では、有用なスタンスなのかもしれないという考えもあり、有彩は特別に咎めるようなことはしなかった。
 
「あまり気落ちせず。あ、そうだ。この間フランスに行った時のお土産、蓼原先生にはあげてなかったですよね」

「あぁ、まあ貰っていないような気はしますが...お気遣いなく」

「いいから、いいから。いいものですよ」

 そう言って渡されたのは黒トリュフ入りのマスタードだった。
 それなりに良いモノらしく、菅原はしたり顔だったが、有彩にとっての食事は、適当な外食か、雑な自炊かの二択なので、この調味料を使いこなせる気はしなかった。
 
「ありがとうございます。これってどこのものなんですか?」

 とはいえ、頂き物には変わりないので、丁重にいただくし、世間話だってする。
 案の定、菅原は饒舌にこの商品や、フランス旅行について、語り始めたが、有彩の頭の中は始末書と雪のことでいっぱいだった。

 

 

 「あー...終わった...」
 
 菅原の長話を、相槌と愛想笑いで切り抜けた後、有彩は保健室で缶詰状態になって始末書を書いていた。
 完成した頃には夕日も落ち切っており、LED投光器が照らすグラウンドには野球部の掛け声だけが響いていた。
 提出するため職員室に向おうとするが、すでに廊下の灯りが落ちていたため、当然職員室の明かりも消えているだろうと考え、有彩も保健室の明かりを消して帰宅することにした。
 非常灯や消火栓の明かりを頼りに暗い廊下を歩く。
 どこか薄気味悪さを感じた有彩は足早に玄関へと向かった。
 すると、ちょうど玄関に差し掛かろうといったタイミングで、「ガシャン!」と大きな音が校内に鳴り響いた。
 有彩は、驚いて足を止めた。きっと警備員が手持ちの懐中電灯を落としてしまったというような、ありふれた現象によるものだと頭では分かっているのだが、反射的に身体が強張ってしまった。
 胸に手を当て、少しずつ呼吸を正常に戻していく。
 大丈夫、だよな?
 灯りもまともについていない暗がりということもあって、その音は、有彩の恐怖心を掻き立てた。
 音の出所が少し気になるところではあるが、「それは私の管轄外だ」と有彩は自分に言い聞かせ、職員用玄関に歩みを進めた。

 その瞬間。

 強い衝撃と共に、有彩の身体が宙に舞った。

「がっ...!?」

 玄関に向かって歩いていたはずの有彩の身体は、三尺ばかり吹き飛んで、廊下に倒れ込んでいた。
 身体を廊下に叩きつけられた衝撃で脳が揺れているのか、視界がぼやけている。
 そんな状態で、この状況を整理することなど不可能であった。
 しかし、ただ一つ確かなことがあった。

 私は今、得体の知れない”何か”に、強い力で押さえつけられている。

 い、一体なにが...!?

 有彩は必死にもがこうとするが、その"何か"に両腕の肩関節を押さえつけられており、身動きが取れない。
 視界のぼやけと暗がりで、その輪郭すら捉えられない。
 自分を押さえつける、その感触から、自分とそう変わらないサイズ感なのではないかと、大まかな推測をすることで精一杯だった。
 
 「...ッ!」

 押さえつける力が増した。"何か"の気配が近づいてくる感覚がある。
 神経が研ぎ澄まされ、その"何か"の息遣いが鮮明に聞こえてきた。
 その息遣いは荒く、激しい。まるで餌を前にした肉食動物のような獰猛さを、流れる空気から感じ取れるようだった。
 間違いなく、怪物の類である。そして、この場合の餌は、間違いなく自分であることを、有彩は自覚していた。
 有彩は、再び全力で抵抗を試みるも、上半身はやはりピクリとも動かせない。
 しかし、獲物を食そうと、姿勢が前のめりになっているのか、有彩の下半身には、僅かばかりの可動域が設けられたようだった。
 有彩は息を整え、自分にまたがる怪物に向け、思い切り膝蹴りを当てようとした。
 それは見事命中し、怪物が「ウゥ」と呻き、抑える力が気持ちばかり緩んだ感覚があった。
 その隙を逃さず、有彩は抵抗を強める。

 「グッ...ウウゥ...!」
 
 
 必死に踠いた甲斐あってか、怪物は強くよろめいた。
 その隙に有彩は拘束を抜け出し、よろめきながらも立ち上がると、玄関口に向けて一目散に走り出した。

 な、なんなんだ一体...!早くここから抜け出して助けを...!

 玄関口に着くと、有彩は、突き破る勢いで玄関扉に飛び込んだ。
 そう、突き破る勢いで飛び込んだのだ。

「な、なんで...?」

 玄関扉は、突き破るどころか、開くこともしなかった。
 生徒の安全を守ため、そういった、強行突破のような衝撃に対しては、強く作られている扉なのかもしれない。
 そう考えた有彩は、改めてドアのハンドルに手をやり、正規の方法での開閉を試みる。
 しかし、こちらも同じようにびくともせず、内鍵がかかっているということも無かった。

「グァアア!」

 戸惑いと焦燥に思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる暇もない。
 所詮、いち養護教諭の膝蹴りなど、異形の怪物に通用するはずもなく、すでに復活を果たしたそれは、下駄箱を薙ぎ倒しながらこちらに突進してきていた。
 
「きゃあああ!」

 有彩は必死でその突進を避けると、あてもなく一心不乱に走り出した。
 理屈は不明だが、出口が使えない以上、校内に逃げるしかない。
 しかし、校内に逃げてもなんの希望も見出せないことは、有彩自身が一番理解していた。
 どうしたらいいかまるで分からないが、立ち止まることだけは避けなければならない。
 そう考え、有彩は、階段を登ったり降りたり、滅茶苦茶なルートを通ることによる撹乱を狙うが、声や音を聞くに、あまり距離を取れていないように思う。
 どういう原理なのか知らないが、このままではその内追いつかれてしまうことは明白である。

 どうにかして、ここから脱出しないと...!
 そうだ...!スマホで助けを...!

 ジーンズのポケットを必死に弄るが、スマホの存在は感じられない。
 先ほどの揉み合いの際に、手荷物ごと廊下に放り出されたままであることを察した有彩は、先ほどの場所に戻ることを目的とした。
 今いる場所は西棟の3F、先ほど倒された場所は東棟1Fの職員用出口。
 ツーフロア下で、尚且つ逆側の棟という絶望的な距離感だが、もう有彩にはそれしか希望は残されていなかった。
 それから、有彩は、同じように撹乱を狙いながら、必死に逃走を続けつつ、職員用出口へ向かった。
 その甲斐あってか、いつからか、怪物の気配を近くに感じなくなっていた。
 しかし、油断せずに、最短距離で職員用出口へ向かう階段をスルーし、そのまま同階層の角を曲がる。

「いや、逃げられるわけないでしょ」

 廊下の角を曲がった瞬間、”それ”はいた。
 先ほどまでの荒ぶり具合が嘘のように冷静と言葉を紡ぐそれは、人外の雰囲気を漂わせる獣と同一視するにはあまりに人間臭かった。
 いや、人間臭い、という段階ではない。
 人間なのだ。そして私は、その人間を知っていた。

「え...?雪...?」

 そこに立っていたのは、あの小潤井川雪であった。
 保健室に入り浸る、夢見がちなシンデレラガール。
 ハイで結んだ見事なツインテール、チラリと覗くマゼンタのエクステ、頭からつま先まで、完膚なきまで小潤井川雪だ。

「どういうこと...?なんで雪がーー」

 その戸惑いに満ちたセリフを言い終える前に、私の身体は後方へ、背後の扉ごと部屋の中まで吹き飛んだ。

「かっ...はっ...!」
 
 後頭部や背中の痛みと腹部への強い衝撃で、うまく呼吸ができない。
 興奮と恐怖で早くなる鼓動と併せて、命が削られていく感覚を、有彩は感じた。
思うように身体が動かせない。それどころか思考さえもまとまらなくて。
 それでも、動かなければ。このままではきっと、無惨に殺されしまう。
 何が起こったのか、それを理解する前に、これから起こるであろう惨劇に対して、身構えなければならない。
 そうやって必死に言い聞かせて、震えながら手をついて、プッシュアップの要領で、なんとか上半身を浮かせることには成功した。

 カツン、カツン、と死神の足音が聞こえる。
 悠々と、しかしながら確実に、自分の元へ向かってきている。
 その歩みが、あまりに鈍く感じるのは、きっと気のせいではない。
 極限状態に置かれることで神経が研ぎ澄まされ、時間の進みが遅く感じる、というわけでもないように思える。
 わざと、そう、わざと。
 すぐに終わってはつまらない、と。
 まるで狩りを楽しむハンターのように、時間をかけてにじりにじりと詰め寄り、獲物にストレスを与えて、錯乱する様子を楽しむかのように。
 そんな悪趣味な気配が漂ってくるようだった。

 こんなところで、こんなやつに殺されるわけにはいかない...!

 有彩は、そう決意を固めると、痛みを跳ね除けてなんとか立ち上がった。
 しかし、この部屋、「授業準備室」は角部屋で、出入り口も一つしかない袋小路。
 残る脱出口は西側にある窓一つだけ。
 ここは3階であり、正しく測ったわけではないが、10m弱の高さがあると推測される。
 しかも運が悪く、下はアスファルトで舗装された通路であるため、ここから飛び降りるとなると、打ちどころによっては絶命する可能性すらある。
 助かったとしても、ただでは済まないだろう。
 
 カツン、カツン...
 
 死神の足音はもう部屋の入り口に到達しようとしている。
 有彩に迷っている暇はなかった。
 窓に駆け寄ると有彩は、焦燥に駆られながらも必死で解錠を試みる。

 だが、開かない。
 構造としては、シンプルなクレセント錠であるため、子どもでも簡単に開けられるはずである。
 しかし、何度やっても開かない。完全に固定されているように、ビクともしない。
 開けようとする"力"のエネルギーそれ自体が、無かったことにされているかのような感覚があった。
 先ほどの、東棟の職員用玄関でも、同じよう現象に見舞われた。
 これはアプローチに問題があるとか、力が弱いとか、そういう類の話ではない、と触った瞬間から直感できるほどに、異質。
 しかし、出口はここしかない以上、無謀と頭で理解していても、開けようと試みる心と体の動きを止めることはできない。
 そして次の瞬間ーー

 ガッシャン

 と室内の荷物を無造作に吹き飛ばしながら、その死神は入室してきた。
 有彩は咄嗟に近くの棚に身を隠した。
 しかし、この潜伏にほとんど意味がないことは有彩自身が一番よくわかっていた。
 きっともう、今際の際なのだろう。
 そう察していた有彩だったが、それでも最後まで生きることを諦めたくなかった。
 なぜ、そうまでして生きたいのだろう。
 生きる希望なんてものも、今はもう特に思いつかないのに。
 それとも、これが生物としての生存本能というやつなのだろうか。
 でも、なぜか心の中に、何か引っ掛かりがあるような気がしてならない。
 なんでもいい、そういう、理由のわからない何かがあるのなら、なおさら生きるために動くべきだ。
 死んでからでは何もかも手遅れなのだから。
 幸い吹き飛ばされたこの部屋は、授業やも運動会などの催し物で使う資材が乱雑に置かれた準備室兼保管庫だ。
 何か、何か、少しでもヤツに抵抗できるものはないか。
 有彩は必死であたりを物色した。
 埃を被った指示棒、目的不明なピンポン玉の山、何かの出し物に使ったであろう着色された段ボールの破片、こんな面子で今この状況を打破することはとてもじゃないが不可能だ。
 そんなことをしている間にも、ヤツは虱潰しに辺りのものを吹き飛ばして、私の元に近づいてくる。
 焦燥に駆られ、早くなる鼓動が、死へのカウントダウンのように聞こえて、胸が締め付けられる。
 それでも有彩は希望を探すことをやめなかった。

 何か...!何か無いのか…!

 焦りが極限まで達した有彩は、足元に転がるピンポン玉を自分のいる場所の対岸に投げた。
 コツン、コツン、コツコツコツ...と不規則な音を立てながら地面を跳ねるピンポン玉。
 有彩の半ばヤケクソな行動がうまくいったのか、こちらに向かうヤツの足取りは一瞬止まった。
 今の隙にここを抜け出せれば...!
 そんな風に有彩が希望を抱けたのも、ほんの一瞬だった。
 
「ガアアアアア!」

 雄叫びを上げたヤツは、自身を中心として円状に、周囲に存在するものを吹き飛ばした。
 もちろん有彩の居た場所も同じように吹き飛ぶ。
 
「うっ...!」

 無造作に壁に叩きつけられた有彩は思わず呻き声を漏らした。
その呻き声が聞こえたらしいヤツは、勢いをつけてこちらに向かってくるようだった。
 壁に叩きつけられ、倒れ込んだ有彩には、もう立ち上がる力すらなかった。
 ああ、今度こそ、終わりなんだ。
 有彩がそう終わりを悟った瞬間、自身が下敷きにしている何かが光を放っていることに気がついた。
 朦朧とした意識の中、夢中でその光に手を伸ばした。

 ヤツの魔の手が有彩の命を捉えとようとしたその瞬間。

 何かが弾けた。

 ヤツは衝撃で吹き飛び、反対の壁に叩きつけられた。

「おい、逃げるぞ」

 誰かの声が聞こえてきた。
 ただでさえ意識が朦朧としている有彩には、それが誰なのか、以前に、今一体何が起こったのかすら全く把握できていなかった。
 ただ、今何かが起こって、逃げる隙が生まれたことだけはなんとなく理解できていた。
 何もわからないが、何もわからないなら、なおさら生きるために動くべき、という自分の中の指針に従い、倒れ込んだヤツの肢体を傍目に、有彩は部屋の外へ駆け出した。

 *

 有彩は、ひたすらに走った。一目散に走った。
 はぁ、はぁ、という自分の粗い息遣いが、前からも後ろからも聞こえてくるようで、少し前から、一体どこを走っているのか分からなくなっている。
 常に前傾で走るその姿は、迫り来る恐怖から逃れるパニックホラーの登場人物そのものだった。
 退勤しようとしたら職場から出られなくて、得体の知れない怪物から逃げ回るなんて、まるでワーカーホリックに罹った社会人がみる夢みたいな状況に巻き込まれているなんて、とてもじゃないが信じられない。
 そんな根詰めて仕事をするタイプでもないというのに。

「...あっ!?」

 何もない廊下で足を取られ、前頭部を起点に派手に転げる。
 頭をぶつけた痛みを感じるより先に、足を止めてしまったことへの恐怖感が有彩の心を支配した。
 転んで止まってる場合じゃない、一歩でも遠くへ、あの化け物から離れないと!
 そう自分を鼓舞するも、その意志とは反するように、足は動かない。
 有彩の脚に溜まった疲労はすでに限界に達していた。
 自分が来た方向を振り返る。化け物の姿は見えない、しかし、その威圧的な気配はひしひしと感じられる。
 アレが本気を出せば、人力で離した距離なんて瞬きの合間に詰められてしまうだろう。
 
「やめろ、無駄に逃げても意味がない」

 それは唐突に聞こえてきた謎の声。
 自分の独り言と勘違いするには、あまりに男性的かつ妙齢の厳かさを感じさせる低い声で、瞬時に辺りを見回す。
 しかし誰もいない。
 幻聴が聞こえてくるほどの疲労を感じているのか、これはあの化け物の使う能力的な何かなのだろうか、だとするならばとっくに位置は把握されてしまっているのだろうか、などあらゆる思考が有彩の頭をめぐっては消えていく。
 定まらない思考は、有彩の精神を狂わせるには十分だった。いつも丹念にケアしている長い髪や頭皮を乱雑にかき乱し、今にも叫び出しそうな有彩だったがーー

「おい、少し落ち着け!」

 謎の声に一喝され、有彩の乱雑な思考がピタリと止まる。
 またしても辺りを見回すが、誰の姿もない。
 
「手元を見ろ、君は今何を握っている」

 手元...?
 もはや思考能力すら疲弊を極めている有彩は、思考を停止させ、その声の言うとおり自身の手元を見る。
 左手、中指のネイルが割れている。親指には準備室でのもみくちゃになっている時についたであろう、油分が含まれているであろうギトギトした黒ずみがネイルの上から塗られていて、気分が下がる。
 いや、そうではない。問題は右手にあった。
 有彩の右手にはいつの間にか、拳銃が握られていた。
 有彩は日本という平和の国に育った善良な一般市民であるため、拳銃についてほとんど知識はなかったが、煌めく銀の装丁、艶やかな肌触り、重さ、それら全てがとてつもないリアリティを持っており、これが本物の銃火器であると直感せざるを得なかった。

「な、何..!?」

 声に出してしまうほど、その状況に驚いた有彩は、思わず手についた虫を払うような仕草でその銃を辺りに放ろうとした。
 しかし、その銃が自分の手から離れることはなかった。
 足のように、手にも、指一本動かせないほどの疲労が溜まり、それなりの重量をもつ銃を放り投げることができなかった、というわけではない。
 全くもって手から離すことができないのだ。銃と手のひらの間には、アロンアルファの接着よりも、遊びがない。
 有彩は、まるで銃と自分の身体が一体となっているような感覚を味わっていた。

「おい、いきなり捨てようとするなよ。傷つくだろ」

 謎の声は冗談めいた口調でおどけて見せた。
 しかし、言っている意味がまるでわからないから笑えないし、愛想笑いをする余裕だって全くない。
 冗談に対して沈黙で返すのは、人間社会のタブーではあるが、そんなこともはや知ったことではない。
 手と同化した拳銃と、謎の声、迫り来る怪物に、出られない校舎。
 もうわけがわからない。有彩の思考回路はもう限界だった。

「さっきから誰なんだ?どこから私を見てる?」

 わけのわからない状況に苛立ちを募らせていた有彩は、とうとうその声に反応を返した。
 もはや、この声も、右手の拳銃も、限界に達した自分の脳がもたらした幻聴や幻覚なのだろう、と有彩は感じていたが、少しでも気持ちを発散しないと気が狂いそうだった。

 「どこからって、お前の手の中だよ」

 「バカにするのもいい加減にしとけよ」

 自分は何をしているのだろう。
 幻聴にまで心をかき乱されて、一向に思考が落ち着かない。
 今にも化け物がこちらに向かってきているというのに。
 気が狂いそうだ、いや、もう狂いきっているのか。

「バカにしてなどいない。お前の手の中にある拳銃、それが俺だよ」

 そうだ、そうに違いない。
 私はもうとっくに狂ってしまっているのだ。
 この空間や、拳銃は狂った私が見ている幻覚、この声は幻聴、ここは学校ではなく病棟。
 精神科で治療中の私は、夜な夜な病室を抜け出して、暗闇に自身の妄想を投影して、それを幻覚や幻聴として楽しむ異常性を表出させている。
 そんな有彩の現実逃避をよそに、声は尚も続ける。

「俺の名前は、シャァル・ユゴー。しがないヴァンパイアハンターだ」

 
 *


「何をイカれたこと言ってんだ?ヴァンパイアハンター?」

「そうだ」

 緊迫していた雰囲気が、一気に解ける心地がした。
 そんな、百の西洋ファンタジー作品があれば、その中の八割に登場しそうなほど、ありふれていて、かつ子どもじみた名称に、緊張感という重荷が肩から落ちた。
 あー...なんだ、そういうことか...
 ここまでの一連を振り返って、多少の違和感を感じつつも、得心した有彩は声に対して言葉を返した。

「あー...そういうことかよ。...はぁ...」

 心底呆れたような、深い、深いため息をついた後、有彩は振りかぶって勢いよく手の中にある銃を投げ捨てようとした。
 銃は当然のように手のひらから離れてくれない。それはわかっていた。
 よほど強力な接着剤を使ったのだろう、もしかしたら奮発していいのを買ったのかもしれない。
 だから全くと言っていいほど粘着のベタつきを感じないのかもしれない。
 その執念と努力は賞賛するべきものであるし、物事に全力で取り組む経験は、将来大きな財産になるだろう。
 しかし、もううんざりだった。
 子供の遊びに付き合うのは。

「おい、ガキども。あんまり大人を舐めんなよ。一人ずつ名乗りでろ、担任の先生に報告するから」

「...?何を言っている?」

「もういいって、店じまいだよ。準備室を散らかしていい許可は取ったのかもしれないが、私を吹っ飛ばしたことは、絶対に許さんから覚悟しろよ」

「だから、さっきから何を言っているんだ。どこかよくないところを打ったのか」

 その発言に、有彩の苛立ちが頂点に達した。

「この後に及んでとぼけてんじゃねーぞ!動画でも撮ってんのか?ガキの悪ふざけにしては度がすぎてんだろ」

声は、少しの間沈黙し、得心が言ったかのようにこう返した。

「ああ、そういうことか。残念だが、これは遊びでも悪ふざけでもない。あの化け物は本物のヴァンパイアだ」

「もういいって言ってるだろ。あー、じゃあ怒らないでやるから名乗りでろ、今すぐに」

「いい加減にしろ」

 声はピシャリ、と有彩を制するように口を挟んだ。
 
「これが悪ふざけだと思うのか。一介の人間に演出できると思うか。あの威圧感や恐怖を」

 有彩は思い出す。
 身を凍らせる圧倒的な威圧感。
 命を握られているかのような根源的な恐怖を。
 思い返した途端、冷や汗が止まらなくなった。
 ただの人間に、あの迫力が出せるとは思えない。

「正しく"冷静になる"ことだ。そうしないと生き残ることはできない」

 声は努めて冷静に、そう言い放つ。
 有彩と同じ状況に置かれているのに、冷静に、だ。

「...アンタは何者なの...?まず、人間なの?」
 
 全面的に信じるわけではない。それどころか、ずっと、信じられないような状況に置かれている。
 それなのに、この銃から聞こえる声色には、パニックの一端すら感じられない。
 冷静かつ淡々と、状況を把握し、整理するその語り口に、只者じゃない気配を感じさせた。
 しかも、話している相手は銃なのだ。冷静になって尚、素性を問わずにはいられなかった。

「そうだな。ゆっくり座して話したいところだが、移動しながらにしよう。そろそろこの場所も危ない」

 座して、というのは洒落なのか、どうも具合がわかりにくい。
 無機物とのコミュニケーションに難しさを感じながらも、有彩はその場か
ら移動した。


 *


「はぁ...はぁ...,、とりあえずこのあたりでいい?」

 そこは西棟1Fにある保健室、つまり私の仕事場だ。
 先ほどまでいた場所からは怪物に襲われた授業準備室からは対角線上に位置する場所で、距離は取れていると言える。

「構わないが、どうしてここに?」

「ここは私の職場なんだ。勝手知ったる部分もあるし、必要なものも補充できる。それに...」

 語りながら有彩は医療用具や資料の詰まった棚を漁り、その中から救急箱を取り出した。

「...!怪我をしていたのか」

「ちょっと、ね。あれだけ派手に吹っ飛ばされたりしたら流石に、ってアンタは知らないのか」

「まあ、目覚めた時に把握した部屋の惨状から察していたところではあるよ」

 そうかよ、と少し笑いながら有彩は慣れた手つきで自らの左腕の傷口を消毒をし、包帯を巻いていく。

「それで、改めて、アンタは何者なんだ。あと”アレ”はなんなんだ」

「そうだな、簡潔にいこう。先ほども名乗ったが、俺はシャァル・ユゴー。ヴァンパイアという異形の存在を狩るハンター、奴はそのヴァンパイアだ」

 聞けば聞くほど、信じられない話だ。
 現代の日本ではそれこそ、創作作品の中ではありふれている単語の数々ではあるのだが、それゆえに現実の世界でその単語を聞くと背中がむず痒くなる感覚がする。
 きっと生徒の中にもそう言った内容の創作を描いている人間がいるだろうと思う。ちょうどそういうお年頃だ。
 しかし、これを現実として認識しなければならない事態に陥っていることは、有彩も流石に認識していた。
 
「いいよ、信じる。だけど、なんでその姿なんだ?」

「俺とヤツ、いや”ノート”は、戦っていたんだ。しかし、ノートの力は強大で、一筋縄では行かなかった」

「ノートっていうのが、アイツの名前なのか?」

「正しくは、勝手に俺が呼んでいる俗称だが。北国の神話において『夜の神』を表す」

「シャァル、アンタはフランスの生まれじゃないのか」

「まあそうだが、通称なんてものは語感だろう。それに、俺は若い頃から国を選ばず異形退治を生業としていたから、故郷に特別思い入れがあるわけでもない。大体、俺が当たり前のように日本語を扱っていることを不思議に思わなかったのか?」

 有彩は、言われて初めてそのことに気づいた。

「てことは、日本に来たことがあるのか?」

「ああ、日本の怪異体系は欧州のそれとは全く異なるもので、仕事には時間を費やした。10年近く滞在していたような気がするな」

 若い頃から仕事をしていて、その中で10年ほど…ということは結構お年を召していらっしゃるのかもしれないな、と有彩は考えた。
 かといって今更敬語を使ったりする気は毛頭ないが。
  
「話を戻すぞ。結局、俺にはノートを倒すことはできなかった。だから、封印術を使ってこの銃に封印したんだ。俺ごと。その辺りの技術はちょうどこの国で学んだもことが多いに生かされている」
 
 確かに、異形の怪物を封印することで撃退するというというのは、よく聞く話ではあるが、それはあくまで創作の話だと思っていた。
 現在は不明だが、過去そういう技術が、確かに存在したことに驚きを覚えたが、それはそれとして、有彩には気になることがあった。

「その、ノート?ってやつとの戦いは日本で行われたのか?なんでこの学校にそんなものがあるんだ」
 
 いくら国を横断すると言っても、日本の一私立学校にそんなものが存在する理由が分からない。
 この学校の歴史なんて、1世紀もないのだから。
 
「それは...わからない。俺もヤツも、最期はフランスにいたはずだ」

 フランス...つい最近その国名を聞いたような...
 有彩は考えを巡らせるうちに一つの答え辿り着いた。

「あー...菅原先生...」

「?なんだ?」

「いや、なんでも」

 きっとあの社会学教師の菅原が、フランス旅行に浮かれて、現地で買ってきたのだろう。
 しかし、こんな明から様な銃器が空港の税関を通過するとは思えないのだが。
 そのあたりの事情を説明すると、シャァルは少し考えたあと、こう言い放った。

「銃の中から、人の心に作用する術をかけていたのかもしれない」

「そんなことができるのか?」

「分からない、が、先ほども言った通り、ノートの力は強大だ。もちろんその力は微々たるものだろうが、なんの抵抗力もない一民間人を軽い洗脳状態にすることは可能だったかもしれない」

 封印を施しているのに、それでも世界に力を行使するなんて、どれだけの力を持っているのか、と有彩は戦慄した。
 そんな存在が、この、現代日本で解き放たれてしまったことがどれだけ恐ろしいことかは考えずともわかる。
 果たして、自分がこの場を生き残ったとして、未来はあるのか。
 
「気づいたか。すでに状況は最悪だということに」

 シャァルがそういったタイミングで、何者かが保健室のドアを蹴破った。
 「何者か」、そういう表現を用いたが、ことここに置いてそんなことができる存在は一個体しかいない。

「来たか…ノート…!」

「やっぱり貴方も起きてたんだね。シャァル・ユゴー」

「ああ、生憎な」

「じゃあ、始めようかーー」

「雪…?」

有彩は、ノートの姿を見て思わず声を出した。
先ほど廊下で見たのは見間違いじゃ無かったのか、有彩の瞳が絶望に落ちる。
ノートは人間の精神を操ることができる。ということは、今、雪の身体を乗っ取っているということ。

「ああ、この人間ね。私たちがいた部屋で一人しょぼくれていたの。だから少しちょっかいを出したんだぁ。あ、話し方とか、これであってる?」

「ふざけるな!」

 有彩は手に持っている銃を咄嗟にノートに向けて構える。
 構えてはみたが、撃てるわけがない。姿形は完全に雪なのだ。

「あはは、その銃を私に向ける意味、わかってる?」

 そういったノートの瞳には、殺意が宿っていた。

「おい、逃げるぞ」

「でも…!雪が…!」

「大丈夫だ、なんとかなる。だが、今やられてはどうしようもないぞ!」

 有彩は、どうしようもない気持ちを押し殺して、シャァルの言葉に従っ
た。



「あはは、逃げたって無駄なのに」

 小潤井川雪の姿をしているその異形は、笑ないながらも人間のものとは思えない速度で追いかけてくる。
 ノートはすぐに有彩に追いつくと、大ぶりの蹴りでその左脇腹を抉った。
 蹴りの勢いで思い切り吹き飛ばされる有彩、その方向には2ーBの教室があった。
 教室の扉ごと吹き飛ばされ、体全体に強烈な痛みが走る。
 脇腹には形容詞がたいほどの痛みが走り、胃の内容物が無造作にかき回され、嘔吐することを耐えられなかった。

「ふせろ!」

 シャァルの言葉に反射的に反応し、顔を下げる。
 途端に、後頭部を雪の足裏が掠める。

「すごーい、よく避けたねー」
 
 今避けることができなかったら、頭部の状態がどうなっていたかは想像に難くない。
 容赦のない攻撃を受け、いくらガワが雪であろうと、中身には化け物が入っていることを再認識させられる。
 吐いてる場合じゃない、有彩は咄嗟にカエルのように飛び跳ねて、教卓の裏に隠れた。
 一時でも盾として機能してくれればという思いだったが、次の瞬間、その淡い期待は捨て去られる。
 教卓から身を出し、攻撃を繰り出そうとした有彩が見たものは、赤黒く肥大した爪が、有紗が元いた位置の床を抉った瞬間だった。
 床には痛々しい爪撃の跡。
 今、咄嗟の行動に出なかったら、あのまま全身を引き裂かれて絶命していた。
 その事実に身震いが止まらず、その場から動けなくなってしまった。
 そして、一瞬の瞬きののち、雪の姿は目の前にあった。
 瞬間移動と評していいほどに、圧倒的な速度を見せつけられ、恐怖で身体が完全に固まってしまっていた。
 シャァルが何かずっと、呼びかけているが、有彩の耳には届いていなかった。

「んー...なんか、この身体でアナタに攻撃しようとすると、ワンテンポ遅れちゃうみたいなんだよねぇ。きっとこの身体の自我が邪魔をしているんだろうなぁ...」

 ノートは、有彩から目線を外し、少し考えを巡らせるような素振りを見せると、何かを思いついたかのような表情を浮かべ再びこちらに向き直った。

「うん。アナタを攻撃するのは、一旦辞めてあげる。まぁ、最終的には殺すけどね」

 殺す。
 そう宣言するノートの瞳には一つのブレも見当たらず、深く、そして冷たい雰囲気を宿していた。
 
 「とりあえず先に、この身体の人格を完全に破壊しないといけないよね」

 ノートはうわごとのようにそう呟くが、視線を有彩から外すことはなかった。

「だから、あそこにいる人間たちを、今から殺しちゃおうかなって思います。よく分からないけど、それでこの人格に多大なストレスを与えることができるみたいだから」

 そう言って、ノートが指差す先はグラウンドだった。
 グラウンドには野球部の面々が残って練習をしている。
 有彩の肝が一気に冷える。
 な、何を言っている、コイツは。雪の身体で何を言っている...!?

「でも、まだ結界の外で自由に活動できるほどの力は戻ってないんだ。だから、こうやって、っと」

 ノートは、ルービックューブを揃えるような立体的な手つきで、意図不明の動きをおこなった。

「これで、結界の範囲をあの人間たちがいる場所まで広げた、からぁ」

 ノートは絶望の言葉を紡ぐ。

「行ってきまーす」

 途端に、目の前からノートの姿が消えた。
 終始圧倒され、ノートへの恐怖に支配された有彩は、ノートが消えからも、その場から動くことができなかった。
 
「おい、有彩!しっかりしろ!あの子供達が殺されるぞ!」

 その言葉を受けて有彩は正気を取り戻した。
 生徒を殺させるわけにはいかない。
 不良教師の有彩にも、その程度の倫理観と責任感はあって。
 圧倒的実力差を見せつけられた後でも、有彩の脚はグラウンドへ向け、駆けていた。

 *

「移動しながらでいいから、聴け。この状況をどうにかできるのは、銀の弾丸だけだ。この弾は対ヴァンパイア専用の、さらにノート専用に作られた特注弾だ。うまくいけば一撃でヤツを仕留められる。だが、弾数は限られている、絶対に当てろ」

「私は銃なんて、エアガンですら構えたことないんだから、当てるなんて無理だ。さっきみたいに至近距離で止まってくれれば分からないけど」

「その状況は期待するな。アレは固まったお前を面白がってやった、気まぐれでしかない。それに、おそらくあの状態で動けたとしても、ヤツの方が動き出しは早かっただろう、難なく避けられていたはずだ」

「だったら余計に無理じゃん」

「無理でもなんでも、やるしかないんだ。構えさえすれば照準は俺のほうで合わせることができる。それでも当てられるかは、それこそ、やってみなければ分からない。しかし、やらなければ全員揃って死ぬだけだ」
 
 そうだ、そうなのだ。
 やらなければ死ぬだけ、そういった状況に放り込まれている、この感覚が、自分の人生には無かったものなので、有彩の心は不安に支配されているのだ。
 いや、この現代日本において、やらなければ死ぬという状況は、そう、誰しもが味わうものではない。表面的に捉えれば、そうだろう。
 しかし、「やらなければならない」という状況ならば、覚えがある人も多いと思う。
 多くの人間はそういった状況に、逃げずに立ち向かい、成長し、続けて生きていく。
 しかし、有彩にはそれがない。
 有彩は今まで、「やらなければならない」という状況に対して、なんとかやらなくてもいい理由を見つけて、着手せずに逃れるというアプローチを取ってきた。
 夢だって、そうだ。
 夢を叶えるために「やらなければならない」ことがあって、しかし、それは非常に手間がかかり、面倒臭いことである。
 だから有彩は、わざわざそれをやる「意味」を深掘りしてみたり、他に有意義なこと(これは得手して、肉体的にも、精神的にもコストがかからない楽なものである)を探してみたり。
 そうして、研鑽を正しく積むことなく、「やらなければならない」ことから逃げ、床に散らばった積み木を適当に積んでは崩して、を繰り返し、何か行動を起こした感情に浸る、それが有彩の本質だった。
 だから、自分が「やらなければ」、取り返しのつかないことになるというこの状況で、それに立ち向かうことに慣れていないのだ。
 ノートに対する根源的な恐れに加えて、そう言った有彩の本質が、足取りを重くする。
 
 でも今回ばかりは違う。
 人の死がかかっているというのもそうだが、何より、雪の存在が大きかった。
 輝かしい夢を追う若者、しかし、私と同じような過ちを犯そうとしている若者。
 見ていられなかった。でも、なんて声をかけていいか分からなかった。
 でも、今なら言える気がするのだ。伝えられる気がするのだ。
 そしてこの先の人生を輝かしいものにしていって欲しいのだ。
 これは私の傲慢な欲望で、押し付けで、雪の心には何の影響も与えられないかもしれない。
 それならそれでいい。伝え、ぶつかった結果だから。
 でも、こんなところで、あんな降って沸いた化け物に、滅茶苦茶にされるのは断じて違う。
 そんなことは絶対にさせない。

 その思いが、有彩の心を奮い立たせ、震える足を前に動かしていた。

「やるよ、私。あんなヤツに滅茶苦茶にされてたまるか」

 有彩は改めて決意表明をした。
 シャァルは「ああ」と相槌を打つだけだったが、有彩のアツい気持ちは伝わっているようだった。

 *

 有彩たちがグラウンドに着くと、既に阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。
 あたりに吹き飛ばされたもの、切り裂かれたもの、今まさに失神し、血を吸われているもの。
 怒髪天を撞く思いだった。
 しかし、頭に血が上り、銃を構える有彩だったがーー

「それはやめた方が良いと思うよ」

 そうやってノートは、手で有彩の行動を制した。
 聞く耳を持つ必要はない、と有彩は引き金を引く指に力を入れた。

「待て!」

 シャァルがそう、有彩を一喝する。

「なんで!?今こそチャンスでしょ!」

「よく見ろ」

 そう言われた有彩はノートを観察する。
 ノートは今まさに、野球部員の男子生徒の首筋に噛みつき、血を吸っている最中だった。
 そして、その右手の爪は鋭く、長く変形しており、人差し指は、首筋の頸動脈を捉えていた。

「余計なことを、シャァル・ユゴー。今からこの人間を巡った命の交渉が始まるはずだったのにさ」

 この後に及んで、茶化すような言動をとるノートに、有彩は怒りを抑えられなかった。

「お前、人間の命をなんだと思ってるんだ」

「何?その意味のない問答。餌でしかないんだよ、種族のレベルが違う」

 ノートは淡々とそう言い放つ。
 確かに、それはノートの言うとおり、当たり前のことであり、草食獣に抱く感情を、肉食獣にインタビューしているようなものだ。意味がない。
 ただ、それでも有彩は、この怒りを声に出さないと、心が弾け飛びそうだったのだ。
 銃を持つ手に力が入る。
 
 「それで良い。構えをとくな」

 シャァルはちょうど私にしか聞こえないほどの音量で私に語りかけてきた。
 
「そのまま、少しずつ、近づくように移動するんだ。そうだな、その大きめの石が転がっているあたりまで移動したい」

 続けて、シャァルは意図不明な指示を出してきた。
 有彩はわけがわからないまま、何のリアクションも取らず、いう通りにした。
 きっと、自分が口を開くことでシャァルと会話していることを気取られてしまうと思ったからだ。
 その、有彩の様子を、鋭い眼光で凝視するノート。
 今にも、その瞳に溜まる闇の中に吸い込まれてしまいそうだった。
 
「それ以上動くと、人差し指を動かさなきゃならなくなるけど」

 あと一歩で指定された地点へ到達しそうというところで、ノートは低い声で有彩の動きを制した。
 あと一歩だったのに...!一体どうすれば...!

「大丈夫、これでいい。正直どこでも良かったんだ。ヤツの意識をこちらに向けさせられれば」

 シャァルはそういうと、次に「思い切り蹴り上げろ」と命令をしてきた。
 でも動くと、あの、野球部の子が殺されてしまう。
 有彩は、そんなリスクを背負ってまで、意図不明な行動ができるほど、思考能力が欠如しているわけではなかった。
 しかし、シャァルは「良いから」と急かす。
 「できるわないでしょ!」と思いながらも、声に出すわけにはいかない有彩は、緊張感ともどかしさで心が弾けそうだった。
その心情を察したのか、シャァルは重ねて、「絶対に死なせない」と言い張る。
 出会って間もない、謎のハンターをそんな手放しで信用することなど、できるわけがない。
 同じ人間といえども、住んでいる世界が違いすぎて、倫理観に大幅なズレが生じている可能性がある。
 ましてや、生きていた世紀すら違うのだ。命の価値はきっと現代より軽い時代だ。
 しかし、徐々に力を取り戻しつつあるノートを前にして、この膠着した状況を続けることは、それこそこちらの不利にしかならない。
 葛藤しながらもまたもや有彩は、何もわからないまま、指示に従い、足元の砂を思い切り蹴り上げた。
 その瞬間に合わせて、ノートが人差し指を動かした。
 ああ、あの子が殺されてしまう!
 瞬きの中で有彩が抱いた感情を上塗りするように、即座にシャァルから「撃て!」という指示が飛ぶ。
 わけがわからないけど、もう、信じるしかない!

 有彩は、力の限り引き金を引いた。
 素人である有彩はその瞬間、反射的に目をつぶってしまっていたし、反動を計算に入れているわけでもないので、弾丸はブレにブレて数メートル離れたノートに命中せず明後日の方向に飛んでいく、はずだった。

「がっ...!?」

 その呻き声はノート、いや、声色は雪のものだった。

「この銃と弾丸には、圧倒的な速度で動くヴァンパイアを狩るための能力が付与されている。撃った瞬間、その対象の動きを一瞬だが完全に止めることができる」

「え!?いや、先に言えよ!あと、それならとっとと撃てば良かっただろうが!」
 
 意気揚々と解説を始めるシャァルに、思わずツッコミを入れざるを得なかった。

「伝えることで、即座に発砲してしまうのではないかと懸念した。これはすぐに撃たなかったことへの回答にもなるが、一瞬動きが止まるのは弾丸が発射されてからの話だ。引き金を引こうとする筋肉の動きを見切られたら、発砲前にあの少年が殺されてしまうからな」

「だから砂煙で撹乱したのか」

「そうだ。それも、事前の移動によって意識がこちらへ集中していたからできたことだ。集中からの拡散は、想像しているより隙を生みやすいものだ」

 今までは得体の知れない、高圧的なおじさんという印象だったが、流石に戦闘のプロなのだなと、有彩は感心した。
 正直私一人なら頭に血が登って、考えなしに引き金を引いてしまっていただろう。
 その結果、少年も含め、この場にいる全員がどういう末路を辿ったかは想像したくもない。
 先ほどシャァルが言っていた「”正しく”冷静であるべき」という言葉がストンと心の中に落ちてくる。
 それがきっと、極限状態の中で何よりも大事な心構えなのだろうと思う。

「ということは、間違いなく当たったんだな」

「ああ」

「これで、終わりなのか...?」

「いや、まだだ」

シャァルと返答と同時に、土煙が一気に晴れる。
そこには赤黒く巨大な翼を生やした小潤井川雪の姿があった。

「なんだ、あれは」

「やはり、か。我々が到着する前に血液の補給を済ませていたな。力を得てしまっている」

「じゃあ、まだ...!」

「ああ、それに、君の、器をの命を救いたいという思いを尊重し、重要部位から弾丸を反らした。弾丸は当たりさえすればヴァンパイアの魂にダメージが入るため、撃ち込む部位はどこでもいいが、現状の肉体へのダメージはそれほどない、つまり」

「まだ自由に動けるってことか...!?」

「ああ」

 だとしたら、今この場にいる全員の命が危ないことに代わりはないということじゃないか。
 もう少しくるのが早かったら、と悔やまざるを得ない。

「いや、悔やむことはない。まだ誰も死んでいなんだ。我々は間に合っている」

 シャァルにそう言われた有彩は、あたりを見回す。
 確かに、抱えられていた男子生徒含め、誰しも大小様々なダメージは受けているが、命は無事だ。
 最も、これから長時間放置されるようなことがあれば話は変わってくるだろうが。

「彼女に誰も殺させたくはない、そうだろう」

「...ああ」

「だったら、悔やむことで現状から逃げるな。前を向いて立ち向かえ」

 そう言われて有彩はハッとする。
 いつの間にかまた、自分の悪い癖が出ていたらしい。
 だめだ、こんなんじゃ。
 アイツに、雪に見せなければ、伝えなければならないんだ。

「ごめん、ありがとう」

「いや」

 礼を言う有彩より、礼を言われるシャァルの方が照れくさそうだった。

「...来るぞ!」

 巨大な翼をはためかせ、上空へ飛んだノートは、その位置から翼をはためかせた。
 有彩の蹴り上げとは比較にならないくらいの砂埃が、辺りを舞う。
 これは、また砂埃に紛れて発砲するチャンスなのでは、と有彩はノートに向かって銃を構えようとした。
 しかし

「砂埃が舞いすぎていて、姿を捉えられない...!」

「姿を捉えられなければ標準を合わせることもできない。これは非常に厄介だぞ」

 しかし、ノートの攻撃はこれに留まらなかった。
 
「右に飛べ!」

 シャァルの叫びに呼応し、有彩は反射的に身体を動かした。
 すると、元いた位置に、細長い槍のようなもの飛んできて、グラウンドに深く刺さった。

「血の槍か、古典的な手を使う」

「が、アァアアアア!」

 その叫び声は、雪のものではなかった。
 のぶとくで男性的、砂埃で見えないが、おそらく野球部員の誰かのものであると考えられた。

「まさか、無差別に攻撃してる...!?」

 砂埃の視界遮断は、ノート自身にも有効であるらしかった。
 しかし、ノート側は、ここに存在する人間を皆殺しにすれば良く、有彩側はノートを視認して銃弾を当てなければならない。
 そのアドバンテージが、埋めなければ、敗北することは必至だ。
 それに、あんな鋭い血の槍がまともに当たったら、人間などひとたまりはない。

「一刻も早く倒さないと...!」

 叫び声を上げていた野球部員の安否も気になる。
 焦燥感と頭がグチャグチャになる。

「アアアア!!」

 ノートはそう叫ぶと、また血の槍を辺りに降らせた。
 阿鼻叫喚の嵐、有彩の精神はもう限界だった。
 限界だったから、有彩は一つの決断をし、覚悟を決めた。

「おい、何を!」

有彩は、砂煙の中をノートの方向に向かって走り出した。

「見えないなら、見える位置まで行けばいいだけだろ!」

「それはそうだが、ヤツの姿を捉えられるということは、ヤツもこちらの姿を捉えられる。的になりに行くようなものだぞ!」

「その時は、アンタが私を守ってくれよ」

「何を…!」

 シャァルの動揺を半ば無視するような形で、有彩は砂煙の中を強引に進む。
 血の槍は、シャァルの指示で的確に避けながら進んでいく。
 やがて、ノートの、雪の姿を視認することができた。
「今だ…!」と銃を構える有彩だったが、それよりワンテンポ早く、ノート  は血の槍を数本、有彩の方向に飛ばしていた。
 やっぱり無茶だったのか…!?と有彩が諦めた瞬間だった。

「打て!2発だ!」

 シャァルのその言葉を信じ、有彩は指がちぎれそうになりながらも、即座に2度引き金を引いた。
 その2発は血の槍の軌道を変え、そのまま反射してノートの両翼を突き破った。
 悲鳴をあげる地に堕ちるノートを、雪の身体を有彩は全力で受け止めにいった。
 まだノートが生きているかもしれないが、あの高さから落ちて、雪の身体が耐えられとは思えなかったからだ。
 しかし、それは杞憂だった。有彩は雪の身体を無事受け止めたが、即座にノートの攻撃が飛んでくることはなかった。
 それどころか、ノートは完全に弱っており、事切れそうな気配を漂わせていた。

「ああ...シャァル・ユゴー、これで終わりか...?」

「ああ、終わりだ」

「そうか、ならば、良い」

 そう言い残して、ノートの魂は天に昇っていった。

「...終わった、みたいだな」

「ああ」

「アンタはどうすんだ、これから」

「消えるさ、もう何も未練はない」

「未練...?」

「そうだ、ノートは俺の心残りだった」

「それは恋慕の類か?」

「違う、茶化すな」

 有彩はくくっと意地が悪そうに笑う。
 
「ヤツを倒せなかったこと、というよりは、奴との戦いを、封印という形で終わらせてしまったことだ」

「それが?」

「お前に対して、偉そうな口を聞いていたが、俺も逃げたんだよ、アイツとの終わりが見えない戦いから」

「仕方ないだろ、相手は異形の、それも神の名を冠している化け物だぞ。より確実な手段をプロとして選択しただけじゃないのか」

「そうだ、な。事実としてはそうだし、当時の自分もそう考えていたはずだ。だが、心というのは何より正直なものでな。封印を実行した直後に思ったよ。『ああ、決着をつけるべきだったな』と」

「ふーん、そういうもんか」

 一般人の有彩には、到底理解できない感覚だった。

「それはヤツもそうだったんじゃないか、と今では思う。心残りは、強い感情を生む。俺もやつも、3世紀に渡り意識を残し続けてこられたのは、強い悔恨の念があったからだろう」

「いや、案外『もっと人間食べたかったなー』的な感じだったかもしれないぞ」

「……お前は、冗談がすぎる」

「悪い。でもなんだか、達成感のような感情は、私にもあるな。アンタらとは比べ物にならないかもしれないけど」

「同じだよ。ただ敵を倒したってだけじゃない。お前も何か心残りを精算できたってことじゃないか?」

「さあ、どうだろうね」

有彩はそう言って、タバコに火をつける。

「アンタも吸うか?」

「お前、冗談がすぎるぞ。意外と生徒に人気なタイプだな」

「どうかな?不良教師とか呼ばれてたけど」

「はは、違いない。なあ、やっぱり一本くれよ。ちょうど煙が欲しかったところだ」

「...いいよ、ほら」

 そう言って有彩は、タバコを一本銃の横に置いた。

「大事に吸えよ」

「...ああ」

 そう言って、シャァル・ユーゴの魂は、煙と共に天へと消えた。

 「雪、ちょっといい?」

 ある日の放課後、有彩は初めて、雪を保健室に呼び出した。
 雪もそんなことは初めてで、一時は面食らっていたが、おとなしく呼び出しに応じた。
 
「...なに?」

 あの夜の記憶が残っているのか、雪の態度から読み取ることは難しかった。
 しかし、有彩からわざわざ言及することはしなかった。あんな血生臭い記憶、残っていない方がいいからだ。
 
「いや、少し、伝えたいことがあって」

 なんだかぎこちない態度をとってしまう有彩。
 雪に対してはいつも飄々とした態度をとっていて、改まったことなどなかったからか、有彩は妙に緊張しているようだった。

「また、説教なら、帰る」

 雪もなんだかぎこちない、女優だったら演技指導が入るレベルの棒読みだった。
 喧嘩別れした手前、どういう態度で接したら良いか、分からなくなってしまっているように感じられた。

「この間はごめん!」

 有彩はそう謝辞を口にしながら、手を合わせ、雪を拝んだ。

「な、なに急に」

 突然の謝罪に雪は怯んでしまっていた。
 まず持って、この蓼原有彩という不良教師が人に謝ることなんてないのだから、驚きも一入である。

「あんな八つ当たりみたいな説教をしたいわけじゃなかった」

「いや、もういいよ、それは...」

「でも、伝えたいことはあるんだよ。だからそれを聞いてほしい」

 真っ直ぐに見据える有彩の瞳に気圧される雪。
 それでも、まだ信用できないという風に顔を顰める。

「結局説教?」

「違う。ただの傲慢」

「それって、どう違うの?」

「聞いた上で、雪は、どうもしなくていいってところかな」

「別に説教されても何もしてないけど」

「...お前って、ほんと非行少女だな」

「うるさいな、不良教師」

 それから、有彩は、挫折した夢の話をした。
 逃げたことも含め、醜い部分も全て。
 それでも雪は、いつもより至って真面目に聞いてくれたように、有彩は感じていた。

 その瞳に、光が宿って見えたのは、きっと気のせいじゃない。

 
 
 
  
 
 


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