思考実験・設問「良い作品(物語)を書く人は、良い人なのか?」

「良い作品(物語)を書く人は、良い人なのか?」

これは先日対談したお相手の方から対談前にいただいていた「お題」をもとに、前から私が考えた事柄をまとめた物です。

あくまでも、思考実験であり、自己満足のための文章なので、興味ない方はスルーしてください。かなりの長文で、しかも面白くはないです。

ご興味のある方だけ、一緒に考えてみましょう。

対談と言うのは生き物ですので、テーマがあったとしても、どんどん面白い方向にずれて行ってしまうものなのです。

むしろそれこそが対談の醍醐味で、この対談も、それ自体はテーマからずれまくりながらも、すんごく盛り上がりました。

しかし、興味深いお題で、以前からちょっといろいろと考えていたこともありまして、一応、事前に思考し「知見」にしておこうとマインドマップを作りました。

その対談では、マインドマップの半分も言えなかったので、もったいないから、ちょっと文章で、まとめて書いておこうと思いました。

いただいたお題を設問にします。

設問。

「良い作品(物語)を書く人は、良い人なのか?」

注1・ただし、この場合の「良い作品」は所謂「感動作」「泣ける作品」と言われる物をさす、それも人によって異なるが、そこには頓着しない。

注2・ただし、この場合の「良い人」は所謂、人格的に優れており温厚誠実である事。とする。これも人によりけりだが、そこには頓着しない。

注3・悪い人の定義は2の定義の「良い人」の「逆の人」と定義する。

結論・

A「良い作品を書く人には良い人も悪い人もいる」

B「良い人だけが良い作品が書けるわけではない」

C「むしろ、悪い人の方が良い作品が書ける可能性が高い」

D「しかし、悪い人が良い作品を書くことで良い人になる事もある」

A、Bの結論は当たり前っちゃあ当たり前の事なのですが、ここで言う良い人は、良い物語を書く前から、はなから良い人と、Dの結論「悪い人も、良い作品を書くことで、良い人になりうる」を通過してなったもとは悪い人だけど、良くなった人の二種類があります。

Cは常々私が思っていた持論であり、Dに関しては、

この結論Dこそが今回の思考実験で、たどり着いた本当の意味の結論です。

本論・

私は、何かを思考するときには大きめの方眼紙に、マインドマップのようなツリー構造を書きます。最初は三本の枝からです。

その事柄について、なぜだろう?どういう事なんだろう?という掘り下げる思考の下向きの枝。

似たような事象はないかと考える水平の枝。

ならばどうすれば良いのか?という上向きの枝を意識してそれぞれに伸ばしながら関連づけていきます。

頭の中の整理にとっても便利で良い方法だと思っています。

善人、良い人とはなんでしょう?その定義について考えてみました。

掘り下げる枝です。

思いやりがあり、親切、品がよい、優しい、礼儀正しい、正義がある、モラルがある、社会に対しロイヤリティがある。正直である。温厚である。素直である、人徳がある。余裕がある。

思いつくままに並べて行くと何かに似ていると感じました。

似たものを探す平行の枝です。

それは、子供の頃に見たNHKの人形劇「南総里見八犬伝」の中で主人公の八犬士たちの持った水晶玉に書かれた「仁義礼智忠信孝悌」の八文字です。

これは、儒教の徳を表す言葉だそうで「八徳」と言われた物だそうです。

孔子の唱えた儒教は宗教ではなく孔子の目指した『人間愛と規範に基づく理想社会の実現』です。

その実現のために、人が勤めて身につけなければならない徳として、儒教の中興の祖と言われる孟子がこの八徳の中の「仁義礼智」を作り、これに董仲舒という人が、後に「信」を付け足したそうです。

これを儒教の五常とか五徳と言ったりします。

まぁこれは、ググった知識ですけどね。

それと「忠孝悌」の残り三文字はこの際、うっちゃっときましょう。

「仁」思いやりを持つこと。「五常」の中でも最高の徳であるとされます。

「義」私利私欲にとらわれないこと。

「礼」仁を具体的に行動にうつすこと。

「智」道理をよく知り知識を身につける事。

「信」友情に厚く相手を信じ、約束を破らない事。

だそうで、確かにこれは素晴らしい物で、ああ、これは私もこれから生きるいい目標にしよう、と思った物です。

そして、私が興味を持ったのは、この「仁義礼智」まではいずれも「やったほうがいい事」「身につけなさい」という事に対し、後に付け足されたと言う「信」だけが、その前の四常とはちょっとだけニュアンスが違うことです。

この信だけが「ちゃんと約束を守りなさいよ!」この「四常」までをちゃんとやりなさいよ!というより強く、ちょっと命令形な感じ?

つまりこれは「四常」をいくらお題目として唱えても、実行もしなきゃ、あっさり破る人々に向けて、「ちゃんと約束守れ!」と言っているのではないかと感じるのです。

「おめーら、いいかげんにしろよ!」という董仲舒さんのイラだちまで感じちゃったりします。

「四常」の性善説に比べると「信」は性悪説っぽい。

それほど、人というのは放っておいたら、この「四常」とは真逆の行動をしてしまうものなのでしょう。

だからこそ「四常」が必要なのかもしれません。

ここは大事なところです。中国の歴史にはまったく詳しくないのですが、孟子が生きたというのは中国の戦国時代だそうで、そらぁ生きるのに大変な時代だったでしょう。

君主も民も、まさに命がけのサバイバル。

私欲をむさぼり、裏切り、約束を破りまくらなければ生きていけない。

思いやりなどクソ食らえ!な感じだったのではないでしょうか?

そんな乱世だからこそ、あえて目標として「どういう国家、社会を築けばいいのか」その目標、規範として「人がこのように生きる、生きられる国家なのではないか」と孟子は考えたのではないでしょうか。

それが「四常」なのではないかと。

結局何が言いたいかと言うと、つまり、道徳とは、乱世、非人道的、非道徳的社会から生まれる。だからこそ必要とされるのではないかと思います。

日本の戦国時代の後に来た徳川の時代が急に「武士道」などと言い出したのもそれなのではないかと思います。

ヤクザさんたちがやたら「仁義」や「義侠心」を持ち出すのも、この例と言えます。

さて、実は先にこの文章の設問「良い作品(物語)を書く人は、良い人なのか?」をなぜ対談相手の方がテーマにあげられたかと言いますと、

「良い物語」「勧善懲悪」の物語が、これほど世に溢れ人々の胸を打つのに、なぜそれを人は、なぞろう、マネしよう、やろうとしないのか?

やたらそういう勧善懲悪的なドラマが多いある国の国民性はそれらと真逆とも思えるところが多いのはなぜなのか。

といういわば「社会に愛される物語のテーマとそれを実行しない社会」の乖離の問題がその方の中にあったのだそうです。

そして、なぜか「良い物語」を書く作家に会うと「なるほど、人格者であられる」と納得する事もありますが「ええええ!こんな人だったのぉお!」

「どうしてこんな酷い人があんな心の機微を書けるのだろう」と驚くことが、ままあるそうなのです。

はい、まったく私も同じ見聞をよくします。

よく分かります。まったく同意。

くわえて言えば、どちらかと言うと、後者の方が多い気さえします。

いえ、誰がどうで、どっちとは口が裂けても言えませんが。

この「四常」の例から導き出された「信」の意義と「道徳のテキスト化」を生む社会背景の分析は、その答えを得るヒントになっていないでしょうか?

つまり「「四常」のような道徳を備えた人間などめったにいないからこそ物語の中に、そういう主人公(英雄)を求めるのであり。

その道徳が守られたゆえになされる勧善懲悪など、めったに現実社会にはないからこそ、人々は正義の勝利と悪の滅びを物語に求めるのではないでしょうか。

て、本題に入りましょう。(まだ本題じゃなかったんかい!)

ある方に教えてもらったのですが、とてもありがたく見える儒教には、実は問題点があるそうなのです。

物知りで学のある人、高位についている人、能力の高い人は、この「五常」道徳心のある良き人に違いないであろう。いや違いない。

という逆説的な転換がなされ、上の言う人の言うことする事はすべて正しいのだ!と皆が思いこんでしまうのだそうです。

はい、これは、誰でも分かる間違いですよね。

「んな、こたぁない!」です。

確かに人格的に優れた人が人望を得て高位に持ち上げらたり、たまに人徳も能力も兼ね備えた高位の人物もいたりはしますが、概ね、上にいった人間、成功者ほど約束を破り、信用を裏切り、私欲をむさぼり、理不尽な事をするってケースを僕らは現実に何度も見ているからです。

なので「んなこたぁない!」と誰でもつっこめるのです。

まさに「権力は必ず腐敗する」です。

つまり「高位にあり見識ある能力も高い人間が、良い人とは限らない」わけです。

はいやっと「良い作品を書く人が、良い人とは限らない」に近づいてきました。

そう、作家の精神性の高さは作品の完成度とはまた違う物なのです。

「良い物語」を書く上で必要な能力、技術は「良い人でなくても身につけられるのです。」

なので、結論A「良い作品を書く人には良い人も悪い人もいる」

B「良い人だけが良い作品が書けるわけではない」に至ったわけです。

さて、ここからは知見としての実体験、私がこれまで取材で出会った本物の悪人(犯罪者に限らず)も、詐欺師も、みんな表面的にはとてもいい人たちでした。

当たり前です。

いかにも怖い人や、いかにも詐欺師みたいでは、詐欺が出来ないしいかにも怖い人は人がよってこないからです。

いかにも自分の怖さをファッションで演出したり威嚇するようなのは所詮、小悪党です。

頭の良い悪人ほど善人を装うのが上手く、親切で思いやりがあるのです。

そういう人が「アナタのためを思って」「悪いようにしないから」と言うから人は騙されるのです。

私はこの二つの台詞を言う人を信用しないことにしています。

これが結論のC「むしろ、悪い人の方が良い作品が書ける可能性が高い」

にも繋がります。

作家というものは、その心の中にたいていケダモノを飼っています。

作家に限らず何かを成し遂げよう、表現しよう。闇雲にそうせずにはいられない。という衝動が大きい人は、みなそのケダモノが猛獣のように猛々しいように思います。

妬み、嫉み、恨み、は物語を紡ぎ出すきわめて高カロリーなエネルギーです。傷つきやすさは作家としては才能であり、心が弱く痛みに敏感だという事はあらゆる事に刺激を受けやすいという事でもあります。

コンプレックスやルサンチマンは何度も描かれたテーマです。

欲求不満や上昇志向、誰かに認めて欲しいという承認欲求はそのためには何でもやる勇気と、果断なく続ける持続力を作家に与えるでしょう。

多くの成功者、表現者は共通して、これらを持っています。

むしろこのケダモノの猛々しさこそが「見せ物」としての価値。

と言ってもいいかもしれません。

より恐ろしい猛獣、怪獣、モンスター、の方が見せ物になり易いのです。

私なんか心の中にウサギくらいの猛獣しかいないのが、売れない理由かもしれません。

しかし、それら猛獣はむき出しの野生のままだと、人を傷つけますし、下手すると社会さえ脅かします。

そして猛獣自身を滅ぼします。

猛獣を安全な見せ物にするのに必要なのは猛獣使いの存在です。

心に猛獣を飼った作家には、編集者か、マネージャーか、指導者か、友人か、家族か、に猛獣使いが必要になってくるのです。

猛獣使いは、猛獣をよく理解していて、知性を持ち、理性的で、技術があり、感情のコントロールが効き、辛抱強く、人格者であって人当たりが良い事が、望まれます。

しかし、なかなかそういう人物と猛獣は出会えません。

なので、一部の作家は、自分の心の中に猛獣の他に、猛獣使いを作り出す事があります。

これは危険な物言いなのですが、この猛獣と猛獣使いの相反する人格を自分の心の中に共有する才能は、実はサイコパスに似た才能なのではないかと思います。

サイコパスは、頭が良く、嘘が上手く、学習能力が高く、サイコパスでない人を観察しマネして、サイコパスでないかのように装う事が上手です。

彼らには、人がなぜ時々、自分の得にならず私欲を満たすわけでもない、人を助けたり、何かを与えたりする「思いやりある行動」を取るのかが、まったく理解できません。

自然発生的な性善説に立った「四常」が分からないのです。

彼らは約束を守る「信」さえも分かりません。

しかし「道徳」を実践する人は人に愛され、尊敬される事も、その方が社会で生きやすい事も知ります。

そして、素晴らしい人々の行いや心情を、彼らは、学習します。

どうやったら、人を感動させ、泣かせる事ができるか?信用を得ることができるのか?

どんな風にふるまい、言葉を投げればいいのか。

そして冷徹な心のままに、それらを演じることができるようになります。

それは時に、自分自身さえも自分が良い人間ではないかと騙すことができるほどです。そりゃそうです彼らには、悪気などないのですから(恐ろしいことに何をしても)

何にしてもありがちな事ですが、無自覚で自然にやれる人よりも、その事に関心を持ち学習しマネをした人の方が、上手に出来たりします。

また人は、多少不自然で大げさな嘘や演技でも、その方が真実よりも信じやすかったりもします。

どうやったら人を感動させる事、信用させる事ができるかの技術を磨いたサイコパスの詐欺師や悪人は、そこいらの「良い人」よりも良い人らしく見えるゆえんです。

怖いですねぇ、恐ろしいですねぇ。

皆さん、その兆候を少しでも見抜いたらサイコパスには近寄らない方が無難です。

しかし実は、乱世が「四常」を欲したように、サイコパスの悪人ほど「良い物語」が自分自身のために必要なのかもしれません。

経歴詐称とか誇大妄想的な詐欺師は、これに近いのではないかと思います。

あ、ボクは大丈夫です。本当に良い人ですから。

ちなみにボクは自分の事を「良い人間」という人も信用しませんが(笑)

えー私が何を言っているのか分からなくなりましたか?

安心して下さい。ボクもです。

さて、あくまでも似て非なる物ではありますが、サイコパスの詐欺師と同じように、どうやったら人を感動させる事、信用させる事ができるかの技術を磨くことは、作家にも必要です。

自分の中に猛獣を飼いながらも、それを制御する猛獣使いを上手に育てあげる事に成功した作家、つまりケダモノである悪い人と、それを制御する良い人の両面を持つ作家は、かなりいるのではないでしょうか。

しかしそういった二面性は誰でも多少なりともあるものです。

よく海外のアニメとかでも「一人の人間の中の天使と悪魔の言い合い」が出てきますし、「ジキルとハイド」はそれを二重人格として象徴したものでしょうし「鬼平犯科帳シリーズ」「明神の次郎吉」の中でも鬼兵が「人間というものは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし,善いことをしながら悪事を働く。」と言っています。

さすが鬼平、けだし名言です。酒が入ると人が変わるなんてぇのは、珍しい事じゃありません。

これを高次元で意識的に、どちらの力も弱める事なく出来た人がより多く作家になれているのではないかと思います。

私は作家志望者向けの講義でよく「薄氷があったら踏んでいけ」「ベッドの上でも親の葬式でも観察、取材を忘れるな」と教えます。

「辛いことだけど、それは作家が身につけるべき第二の性である」とも言います。

これはまさしく冷徹な心のなせる技でしょう。

良い人にはとてもできません。

何人かの受講者さんはこれを聞くと、いやあな顔しますし、とても出来ないと言う人もいます。

少なくとも恋人や親の前、友達の前では絶対に言えませんねボクも。

言わない方がいいです。絶対。

あ、たった今、発表しちゃってますが。

心の中に猛獣を飼い、欲望深く、人や社会にまがまがしい感情を持つとともに、それとは分離した冷徹な観察眼を持ち、他人の感情をコントロールする事に長けていて、そればかりか時に自分の感情までをコントロールする事が出来る。

という人は、当然「人を感動する物語」を紡ぐ能力を持っているのです。

これはけして生まれつきの「良い人」にできる事ではありません。

どちらかというと資質のある人は「悪い人」でしょう。

悪い人ほど作家に向いているのです。

C「むしろ、悪い人の方が良い作品が書ける可能性が高い」

結論にいたったわけです。

さて最後の

D「しかし、悪い人が良い作品を書くことで良い人になる事もある」

ですが、これはちょっと複雑。

心の中に棲む猛り狂った猛獣、暴れ馬のような物も、心の中に良き猛獣使いや、騎手を作り上げる事で制御され、成功し、その猛獣の持っていたルサンチマンやコンプレックスや欲求不満がなくなってしまう。という場合があります。

それには幾つかのケースがあって、一番分かりやすいのは、

1・物語が売れて経済的な成功や名声によってルサンチマンや、承認欲求が解消されてしまう場合。

2・感情のままにケダモノを物語にぶつける事で昇華されてしまう場合。

3・猛獣使いの力が大きくなりすぎて、猛獣が大人しくなってしまった場合。です。

1、 はよくある事ですね、金持ちになりモテるようになり子供も出来、老いると、いわゆる「まるくなった」という奴です作家、表現者でなくても、よくある話です。

2、 という人は少なく、このタイプの作家は、ルサンチマンが性格や本能に深く根ざしているので、実はどんなにお金を持っても、家族をもっても地位があがっても人間的にはなかなか満ち足りない。

救われない気の毒な人です。一つの欲求不満が満たされると、すぐに次の欲求不満を自ら探し求めています。ポルシェに載っているのに、フェラーリに載っている人を妬みます。マンションを三部屋しか持っていないから、マンションをビルごと持っている人を妬み、ビルごと手に入れるとそれよりも高いビルを持っているひとを妬みます。これにはものすごくエネルギーを使いますので安らぐことがありません。大変な「業」を背負っていると思います。しかし作家としてはそれをエネルギーにずっと書き続けられる事が多く、その意味では幸せとも言えます。

3、 Dの結論に近いのは3ですね。

良い作品を書き続ける、そのために人間の感情機微を観察し続け描き続ける事でそのような現象が起きる事はあります。

私も、この3のタイプです。若い頃は「折れたナイフ」「ケダモノのような目をした、うーたん」と呼ばれ、作品も自分が若くて貧乏で頭が悪いということからの、ルサンチマンや権威や権力に対しての反抗。というテーマの作品が多かったのです。それがすっかり良い人になってしまいました。もともとの猛獣がウサギクラスだったので割とそうなりやすかったとも言えます。

若い頃、ボクが師匠であり所属していた会社の社長でもあった、小池一夫先生に独立とお別れのご挨拶に言ったところ「座って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」という色紙をいただきました。

その時は、これから雄飛してやるぞ!という所になんか、大人しい言葉をもらちゃったなぁと少しがっかりしました。先輩がもらった「牙の心」とか格好いいのが良かったなぁとか。

それを見抜いたのか師匠が「今に分かる」と一言ボクに言いました。

でも、今になったら確かに分かります。

鼻息あらかったその当時のボクをどうどうと諫められ、いつかこの境地に達したときに、ちゃんとしとけよ。心の中に良い猛獣使いを育てて、良い人になっとけよ。

と、いう意味だったのではないかと思います。

それまでのボクは酒に酔って出社したり、社内で殴り合いのケンカまでする、ひどい社員でしたから。

それが、僅かながら知識を広め、色んな人に会い話しを聞き、出来事を体験し、作家の目でそれらを見聞し、よく分析し考えていますと、自ずと自らの中に見識が出来て、どのような社会が良い社会であり、自分がその実現のために何が出来るか、本当の幸福とは何であるのか、なんとなく分かってきたような、自分なりの知見を得るようになった気がします。

学習、知識、そして実体験による見聞を広め、それらを分析することによる見識、これに基づいた思考により、自分なりの意見、知見を得る事。

この作業を続け「言葉をはき出し、物語を紡ぐ行為」はその人を悪人から良い人へといたらしめるのに、十分な修行なのかもしれません。

これは儒教にも、西洋の教条主義の一派にも通じます。

「五常」の中の最も尊い行為は「仁」人を思いやる事です。

はなから備わっている人もいるかもしれませんが、ボクのようにそうでない人間は、人の心を理解する想像力の鍛錬が必要なのです。

作家として「人の思い、心を知ろうと努力し、よく見てよく聞き、よく考えて、相手に伝わりやすいように工夫して丁寧に表現する行為」はまさしく思いやりを学ぶことでもあるのです。

物語は作家として紡ぐだけではなく、受け手として触れて受け取り、感動して、愛し、やがて志望者として学ぼうとする人々に、とても良い心を育てる効果をもたらします。

物語の中に少しの間、仮の人生を生きる事は、精神修行になるのだと思います。

だからこそ社会には「美しい物語」「良い物語」が必要なのです。

どうです、ここまでひっぱといて、このなりふりかまわない、「ボク、良い人だよアピール」(笑)ただし、いくら飼い慣らしてもケダモノはケダモノ、たまに本性が出たりもします。後ろ足でトントンする程度ですが。

もし世の中に物語がなくなり、寸鉄人を刺す錆びた釘のような言葉ばかりになると、人の世の徳も人情も廃れるのではないでしょうか。

ツイッターやネットなどを見ていると、もちろんそこには良い言葉も良い物語もありますが、捨てぜりふ、恨み言、呪詛や、中傷、に満ちあふれていて、少し心配になったりもします。

みなさん、どうか忌み言葉だけはなく、良い物語に触れてください、読んでください。

たとえもし、どんなに酷い人、悪い人が書いていたとしても、

良い作品は良い作品なのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?