柳家小三治さん、高畑勲監督を偲んだ最長マクラを聞いて思う二人の共通点、マンガにも通じる表現の塩梅の問題。

柳家小三治一門会を調布グリーホールで鑑賞。小三治さん脊椎の手術したそうで一年前よりもなおお元気になられたようす。何より。

マクラが長い事で知られる小三治さんだが、今回は今までで最長。
三分のニがマクラだった。落語は小言念仏をさらっとやっただけ。それでも小言念仏はつまらない人がやるとまるで面白くないがツボツボで見事に笑わせる。

なぜそんなにマクラがながかったかと言うとその前にジブリの高畑勲監督とのお別れ会に出ていらしたとのこと。高畑監督は生前、小三治さんのファンでジブリのスタッフに小三治さんの芸を見せるために、年に一度、三鷹のジブリ美術館に招いていたそう。
ちなみに、宮崎駿監督は一度も見に来なかったとか。

そのせいではないだろうが、小三治さんは宮崎駿さんの映画よりも高畑監督の作品の方が好きらしい。宮崎監督自身の強い思想や主張と商業主義的映画よりも高畑監督の控えめで静かだけれど常に新しい技法を実験し芸術的な作品を生み出そうという気概がお好きだったよう。

それはご本人の芸道にも通じる処があるらしく。売れよう売れよう、客に媚びよう、ウけたい!と思った時から芸はいやらしくなり、ダメになっていく。という持論をおもちのようだ。
なんとなく分かる気がする。僕も以前初めて落語を聞くという女性と小三治さんを聞いたとき、爆笑を誘うという風でもないその芸風のどこか面白いのか、説明に窮した事がある。

またこれはマンガの場合も、どこまで読者に分かりやすく書くか?どこまでサービスカットを入れるか?どこまで自分の主張を入れるか?などと言うそのさじ加減や妥協にも通じる処がある。
押しつけがましくなく声高にテーマを叫ぶでなく、読めば何となく読者がまるで自得したように作品の意図、作者の言わんとする処にたどり着いて共感してくれる。と、言うのが理想的だと僕は、思うのだが、それを目指すと一歩二歩、足りない。
分かりにくい作品、分かったようでよく分からない作品になることもままある。と言うのも経験則的に実感している。

どの芸、コンテンツにも通じる悩ましい問題でしかしその塩梅こそが表現者の個性なのかもしれない。

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