「ふざけた散文」は「ふざけた気分」では書けない

先日、田中小実昌の単行本未収録エッセイ集『くりかえすけど』(銀河叢書)を読んだのだけれど、なにしろ愉快で、すぐに何か書きたくなった。一見軽妙洒脱天衣無縫の筆致なのにところどころ頑固一徹の硬い地肌が垣間見えたりして、読み手の予断を軽やかに裏切ってくる。文筆の妙技。緩急自在のこんな投法に僕はむかし余程憧れたものだけれど、文体模倣は押し並べて難しくて、しかも、真似できそうな文体に限って真似しにくいものなのだ。ひところ僕は夏目漱石や埴谷雄高などの文体模倣に入れ込んでいたが、みんな中途半端に終わってその困難を実感した(でも不可能とは言わない)。ともあれそんな実感を再認識するためにもいずれこの散文を一読してほしいですね。丸谷才一と太宰治と同様、彼は僕に散文の何たるかを教授してくれた。僕は著者の文体に親しんできたので、いつの間にか感化されている面もあるに違いないけれども、どうかすると無骨の一本調子に流れやすい僕の文章はどうしても彼の「軽妙さ」とは縁遠い。いまつくづく自分の研鑽不足を痛感している。いや本当。どうにかならんかな。生きていればどうにかなるか。

いったい世の中は文章だらけだから、生粋の文字好きには堪らない。読むのはこの際何でもいい。名文駄文の関係なく、書き物の大部分が「取る足らないもの」であることくらい皆知っている。むしろ「取るに足らないもの」であればこそ「文章作りの教訓」をそこから勝手に引き出せるのだ。他山の石がごろごろしてると言ってもいい。たとえば質問サイトにおける匿名者ならびに解答者の文章、ニュースサイトのコメント欄の文章、料理ブログや子育てブログの文章、売れない作家の書き溜めたお粗末極まるエッセイ集の文章でもいいし、政府広報パンフレットの文章でもいい。他人書いた文章はいくら読み返してみても全然恥ずかしくならないばかりか生理的快感が次第に止まらなくなるので、もっと貪欲にそれらのものを読みまくりながらふと天井を見上げて「いい文章とは一体どんな文章か」なんて真剣に考えてみるのも、ずいぶん実りある文章修業となる。

今更言うも野暮だけれど、「ふざけた散文」は「ふざけた気分」では決して書けない。それこそ真剣に取りくまないと書けない。気の抜けたふらふらの頭脳では書けない。それは紛れも無く「文章技芸」であるから、相応の修練を積まないと書けない。「ふざけた気分」の赴くままに書き散らされた文章は、文字通りに「フザケた文章」になる。これなら誰でも書ける(文例はそこら中にあるから挙げない)。優れた散文における「ふざけた文章」は、ふざけて見えるような入念の技巧を凝らされているのだ。書き手はそれを腕を揮って頭を捻ってのた打ち回って書いている。僕にも彼らの七転八倒が生々しく伝わってくる。けれども、書き手のかかる苦心を見て取れないばかりか「ふざけた気分で書いている」とさえ勘違いしている素朴の読者を、誰も責められない。それは筋違いだ。そもそも読み手は書き手の苦労や台所事情など知る由はないし、その必要もない。読み手の差し当たりの関心事は、その文章が面白いか面白くないのか、暇潰しになるか暇潰しにならないか、為になるか為にならないか、これ以上ではない。よって、書き手の「苦労」が文章に跡付けられている内はまだ二流なのだ。まして、「出来が悪いけれど苦労して書いたんです」というふうな「申し開き」など論外に属する。繰り返すけれど、読み手は書き手の苦労談などそもそも聞きたくはないし、それを聞いたところで文章の質やその受ける印象が変化するわけでもない。好い悪いでなく、読み手の構えとは普通そういうものであって、そうでないといけないのだ。いやしくも散文書きを任ずるような人ならいつもこの事を胸に刻んでおかないと、気が緩むとつい甘えにもたれかかってしまう。その点において韻文散文の違いはない。

最後に、そうした文章芸を堪能できる格好の作例として、椎名誠の初期散文『赤眼評論』を挙げます。手元にないので引用できず残念だが、俗に「昭和軽薄体」と評される彼の力量が辺り構わず発揮され、その若気にまかせた辛口は痛快無類(この手の体言止めは新刊の帯文句みたいで俗の印象を与えかねないので多用には注意しよう)。

どうもありがとう。

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