ヘタレ男子ほど「男の中の男」に憧れる

こんばんは、わさび風味の菓子が好きで、いまそれをうんと食べて書き始めます。いろいろ多難の日々で、どう多難かと言うと先ず眼が痛いですね。眼精疲弊。読みたいものが身辺に容赦なく積み重なっていくので、肉体が追いつかない。

僕は「いわゆる」ゲイです。どうして「いわゆる」なのかと申しますと、純粋な同性愛者というものを、今は想定できないからです。ゲイとかレスビアンなどと言うと、恰もそれぞれが、男性以外を恋愛対象としない男性、女性以外を恋愛対象としない女性、という明確な本質規定になりがちで、僕はそうした性急な割り切り方にこれまで随分ためらいを覚えてきました。自分の来し方を振り返ってみても、確かに、これまでは主として男性にばかり惹かれて来たけれど、かといって自己紹介の場で「恋愛対象は男性です!」と溌剌たる宣言を発し得るほど思い切れない。そんなことは自分だけでなく誰にも分からないだろうし、そもそもあらかじめ決定していい種類のものでもない。前にも少し書いたけれど、僕は学齢ちょい前くらいから小学四年生まで、実家を離れて入院していた。そこでの話で、二年生くらいの頃、ある若い看護婦さんと落書き帳なんかを使ってよく遊んでもらっていた。その彼女に対して、あくまで記憶の面影に対してだけれど、僕は胸の高鳴るような「恋愛感情」を抱くことが出来る。子供の頃の素朴な愛着が、大人の体に成長する途上で、性愛とも言える感情に変容したというのか、あまりそう穿った見方はしたくないけれど、いま、その人を一人の「女」として、僕は確かに惚れている。こうした感慨もあって、性指向における断定は出来れば避けたいのだ。

現在通用しているジェンダー規範に照らして、自分は情けないほど「男らしくない男」である。絶対そう思う。タマはきちんとぶら下がっている。でも「真の男」とは思えない。どうしても。たぶん周りの誰もが思っている。小学生の時分よく泣いていたので、「女みたいだ」と随分からかわれた(正確を期するため記しておくと、当時女子は男子に比較してそこまで泣かなかったと思う)。腕力にも乏しいし、まともな喧嘩なんかしたこともない。文章ではいくらでも辛辣になれるくせに実世界ではえらく臆病だ。もとより僕は「男らしくない男」である以前に、人間としてもかなりのヘタレに違いない。病院付属の学校から地元の小学校に戻った後はやたらオドオドしていた所為でよくいじめられたし、中学時代の成績は常に後ろから数えたほうが早かったくらいだし、工業大学は卒業直前になって中退するし、「うつ病」と称してモラトリアムを延長させているうち本当のうつ病になってしまうし、働くのが嫌いで今もマスだけは欠かさずかきながら本ばかり読んで不規則に生活している。こんなどうしようもない怠惰野郎が「男の中の男」に憧れるなど身分不相応にも程がある。

けれども押し並べて、「男らしくない男」ほど「男の中の男」に憧れる傾向にある(三島由紀夫を見よ)。これは自信に満ちて主張できる。男として虚弱で軟弱で小心者で何の誇りも持てなくて、しかもそれを中途半端に恥ずかしく思っているものだから、余計に虚勢を作りたがる。「俺は本物の男だ」と胸を張り肩をそびやかそうとする。これを滑稽千万だと自分だけが気がつかない(いや薄々実は気がついている)。差し当たりこの虚勢演技を、「男の中の男」趣味と呼んでいい。「昨日は女子大生とエッチやりまくってチンコ痛いんだよ、ははははは」と焼酎を呷りながら己の性豪自慢を並べられる男など古今東西余捨てるほどいる筈で、冷静に考えずともそんな男は最低の全身ちんぽ野郎に違いないと誰でも分かる筈なのだが、「男の中の男」に憧れる一部の童貞駄目男子たちはしばしば、この種の「男らしい」自慢話を嘘でもいいからやってみたいのだ。この童貞クズ男子たちは愚かにも、無神経で下品で馬鹿丸出しの好色漢のなかに「男の理想」の一類型を見る。その点で「男らしくない男」たちは性豪自慢のヒヒオヤジより劣っている。クズがクズに憧れているのだから。当然僕も昔、この「男らしさ」を友人の前でよく演じていた。「あのグラビアアイドル抜けるなあ」とか何とか色々下品な猥談を通して、自分なりに理想と思う「男らしさ」のポーズを頑張って取り続けた。本当は同性が好きな筈の自分を覆い隠して、「大の女好き」を全身で装っていた。尤も、二一歳までは自分の性指向に特別の関心など持っていなかったので、演技にそこまで自覚的ではなかったけれど。

「自分の男らしさ」を人の前で披露したくなる衝動は今でも変わらずにある。僕の性指向を知らない人の前で、僕は「ヤリチン」を演ずることが好きだ。「こんな女とやりたい」「昨日風俗でハッスルしまくった」「俺の下半身は最強」というような下品で男らしいやり取りを、僕は、今でも好んでやっている。人に「女好き」と思われるとき、僕は「男」として認定された気になる。そこには快楽があって、興奮がある。この倒錯、この心的現象は、一体どんな生育過程に由来しているのか。きっと「ステレオタイプの男らしさ」への歪んだ憧憬が、色々の事情と相俟って、こうした「嗜好」が出来たのだ。

ところで「男の中の男」の理想像は、クズ男子の間でもそれぞれ相異なっているようだが、僕の場合、無口で肩幅が広く性欲が強くフンドシの似合う筋肉質の毛深い男がそうだった。そして愚かにもそういう男に実際なろうとした。幸い自分は性欲だけは強くて毎日射精しないとイライラする。毛深さと肩幅は諦める。さっそく筋肉トレーニングの綿密な計画を立てる。どうせなら野外で汗をかきたい(絵として美しい)。腹筋腕立てスクワットそれぞれ五〇回。これが三日以上続かなかったことは言うまでもない。これまで何度も六尺フンドシを購入し締めてみた。睾丸がキュッと持ち上げられ尻に固く食い込む感覚、一瞬だけ逞しい男になれた気がした。喧嘩が強くて精力絶倫の男に。体はヒョロヒョロで生白くて肋骨も無様に浮いているけど。「俺は男だ」と何度も大声で叫んでみた。深夜だから外に出た。すぐに惨めな気分になった。部屋に戻りフンドシをはずして自分の黒くて汚い哀れな包茎チンポをじっと見つめた。ちょっと先が濡れていた。涙がとめどもなく流れ出た。「俺は男の中の男には一生なれない」と真心で絶望できた。そのときの絶望を引きずりながら切腹もしないで今ものうのうと生きているだ。結局書いてみると毒にも薬にもならぬノンフィクションになりました。なんかどうもすみません。駄目男子には駄目男子に相応しい行く末がきっとあると思いたいものです。あとできればもう少し生きていたい。おとなしくマスかいて寝ます。どうもありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?