全裸思考として「哲学」について

「哲学」とは何か、ごく大掴みに書いてみよう。思索とその表出は僕のライフワークでもあるから、ゆるがせには出来ない問題である。音楽とは何か、文学とは何か、宗教とは何か、学問とは何か、教養とは何か、労働とは何か、貨幣とは何か、歴史とは何か、文字とは何か、意味とは何か、自然とは何か、人間とは何か、結婚とは何か、苦しみとは何か、都市とは何か、オナニーとは何か、散文とは何か。自信過剰頭脳低劣の僕はこれまで様々の「とは論」を色々の場所で散々書き散らしてきたけれど、当然ながら一度も充分の満足を感じたことはない。いったいそんな間に合わせの試論で全てを包括出来る筈がないのだ。けれども、こんな大枠の問いと格闘しながらその形跡を記し続ける過程は、知性の防錆上極めて有効であるから、ものを書くのが好きな人にはとことん奨めたい。書くことで平生の考えもまとまるし、時々思わぬ水脈にも突き当たる。ついでに自分の無知不勉強も痛いほど思い知れるので、学問に精進する気力もますます湧いてきて、結局不都合なことは何一つない。学問と思索は時間こそ掛かるけれど金は殆ど掛からない。しかもこれより濃密な享楽は他にない。

歩みだしから身も蓋もないけれど、「哲学」は学問ではない。経済学や心理学というふうなパッケージ化された学問ではない。学とは一応付いているけれど、これは西周あたりの蘭学者が苦心のすえ拵えた訳語であり、英語のPhilosophyにはもう少し柔軟な余白があって汎用性が高いようだ(ギリシア語にまで遡ると、ソフィアをフィレインする、すなわち「知恵を愛する」となる次第については公知の通り)よって、現代の人々までわざわざ追随するには及ばないのである。ただ他に適当の語がないので惰性で使っているまでだ。僕は当面便宜上「哲学」という用語を使うけれども、いずれこれに変わる用語を何かの論考で打ち出したいと思う。「哲学」という語感は何か妙に権威的でしかも末香臭くて、僕はそれが時たま鼻に付くのだ。それにたとえば「経営哲学」といったように、「哲学」を個人的信念体系とほぼ同義に使う俗物のせいで、ずいぶん手垢にまみれてしまった。

少なくとも哲学は、既に堅牢かつ細分化されて組織されているような学問ではない。知の総体ではないのだ。その点では「哲学」を「哲学史学」から截然と区別しておかねばならない。「哲学」は信念体系でもなければ信仰体系でもない。人生訓でもなければ人間論でもない。哲学はまずもって「思考」なのだけれど、そんじょそこらの思考とは始点の位置が違う。その思考は、自らの思考前提さえ疑っている。疑わないと哲学にならない。何もかもの前提を一度徹底的に疑ってみる。「私」「主観」「意識」「真理」と何気なく呼んできたそれについて懐疑してみる。そもそもそれらは何でありどこに存在しているのか、と問うてむる。少しでも疑わしいものは一切否定して、「完全に明白のこと」だけを追い求める意志が哲学の駆動力になっている。僕は本散文を「全裸散文」と命名しているけれど、それに準じていえば、差し詰め「哲学」は「全裸思考」となる。何も着衣しない裸一貫でものを考えなければならないのだ。しかし哲学は実生活においては全然差し迫った問題ではないので、誰も考えようとはしない。一部の狂った人間と職業哲学者以外は。全裸思考がなかなか容易ではないことは、たとえば「哲学はプラトンの時代から殆ど進展していない」というあのよく耳にする溜息フレーズからでも充分察しうる(この場合の「進展」とは何か、僕はよく分からないのだけれど)。

前提否定の思考をデカルトなどは「方法的懐疑」と呼んだりしたけれど、そんな古臭いジジイのことは差し当たりどうでもよくて、とにかく疑って疑って疑った先に何か本当に疑えないものがあると哲学者のみならず人間は信じてきたのだ。

例えば、人は「空間」という言葉を何のためらいもなく使う。けれどもそれを説明しろとと言われると誰もが瞬く間に口をつぐんでしまう。空間とは「私」が移動できる何らかの広がりのことである、とこれ以上のことは言えない。数学や物理学においても空間を座標的・不変的に理解して、それ以上は深入りしない。なぜ空間があるのか、とか、空間は果たして「実在」するのか、などとは問わない。空間に対する本質論や分析論は、これまでも「哲学」しかやろうとしなかった。やれないのだ。というより、その必要がもとよりない。

「時間」も同じくらい難しい。「時間について何も問われなければ私はそれを知っているし、問われると私はそれを知らない」と、なかば痴れ言めいたことを古代の教父アウグスティヌスは確かどこかで書いているけれど、凡人天才の別なく問われてみると誰もがことごとく説明できないのである。過ぎ去った「時間」はどこにいったのか、「過去」を思いだすことはなぜ可能なのか、そんな子供の問いに対して誰も答えられない。「時間」に対する無知に限っていえば、誰もがほど平等である。

「存在」についても説明できない。何かが「ある」ということ。このことについて人はびっくりするほど何も理解していない。僕はこの「存在」についての私家版論考をこれまで膨大にものしてきたけれど、少しも成功しなかったし、いまもその気配はない。いつも舌足らずでもどかしく七転八倒の苦しみを味わっている。この問いを第一義に設定し生涯をその研究に捧げたのはドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーだ。いったい彼の苦労はいかほどであったろうと今更ながら思う。彼は僕が尊敬できる数少ない哲学者の一人であり、あとはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインくらいしか思いつかない。両者に共通しているのは「存在に驚くことが出来る」という点です。この感性だけでも彼らは抜群の哲学者なのです。

僕はいま扇風機に当たりながらパソコンのキーボードを打っている。そこで、「扇風機はある」あるいは「扇風機は存在している」と言明してみる。この「ある」「存在」とは何か。どのように説明しうるのか。たとえば、「僕」の「認知機構」から独立してそこに「扇風機」があり続けているのか。あるいはその「扇風機」は僕の「認知機構の一部」であるに過ぎないのか。更に趣は変るけれど、「扇風機」と呼ばれているものはひとつひとつ形状も色も異なるのに全て「扇風機」と呼ばれているのはどうしてなのか、という問いも可能だ。その「扇風機」の羽を一枚割っても依然として「扇風機」でありうるのはどうしてなのか、という問いも可能(これらは「本質とは何か」という問いに繋がる)。

日常は「大きな問い」の集積場なのだ。

そもそも、問題と言えば、「何かが存在している」ということに改めて誰も驚かないことが大いに問題なのです。自分の周囲世界に「花」があること、「虫」がいること、「他者」がいること、「星」があること、「本」があること、何でもいいのだけれど、とにかく「何ものかが存在している」という経験自体に誰も驚愕しない。「世界」が既に「眼前」に開けているという経験を当たり前のことだと認識している。「何もないのではなく何ものかが存在している」という一事はそれだけで驚愕すべきことなのだけれど、いくら僕がそれを伝えたところで、「何でそんなに驚くの」と反応されいつも拍子抜けしてしまう。

つまり、「存在の問題」に対する感度は人それぞれ絶望的な開きがあって、分かる人はすぐに分かるけれど、分からない人はどうしても分からない。僕はあるときこのことを発見したのだ。そしてこの「驚愕者」と「非驚愕者」の違いは、「知的水準」とは全く相関関係がないようなのだ。いくら頭脳明晰で博覧強記の学者でも「この問題」を理解していない人はいくらでもいるし、一方、いわゆる無知無学ではあるけれど「この問題」を即座に呑み込める人も多くある。この理解は「先天的感覚」によって大きく左右することなのだ。僕の今のこの文章にしても、分かる人は既に分っているからすぐさま呑み込めるだろう。分からない人は問いの意味そのものが分からない。どれだけ筆舌を尽くしても恐らく分からない。分かることも稀にあるかもししれないけれど、僕の経験上ではそれはない。「何かが存在していること」が驚愕をの事態であって、その「内容」はどうでもいいのだ。「目の前の世界」がどのようにあるかではなく、「目の前の世界」が存在していること自体が驚くべきことなのである。「グランドキャニオンの壮観」が驚愕対象なのではなく、「グランドキャニオンの存在そのもの」が驚愕対象なのだ。

何かがあることが無条件に不可思議なのである。これを理解できる一派と出来ない一派に最初から分裂しているのも不可思議だ。これはこれで興味深い問題をなしているとは思うけれど。

どうもありがとう。

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