「私」という背広と「僕」という子供服

こんにちはクミハチです。今日は無目的ドライブの疲労のために、少々パソコン酔いにかかるかもしれないので、若干気を張り詰めています。いったい空腹や睡眠不足は、何かに集中するのに、よくないですね。書きたい衝動だけがワンワン吠えています。特別嫌なこともないのに、現在、なさけない気分でいます。

「僕」「私」「俺」「わし」「われわれ」と日本語の一人称には主要なものだけでも種々色々あって、僕はいつも文章を書くときやお喋りをする際、その都度毎回選択に苦慮してきた。僕は、その場面や状況ごとに日本語「主語」をあたかも反射的に、時には無理に選択を強いられてきたふうに思う。この主語選択を僕は仮に「場面選択」と呼んでいる。今日はこれについてしばらく粗々と考えてみたいのだけれど、やはり最後は不時着におわること必定と思う一方、ひとつでもふたつでも妙想が生まれるような、偽らざる思考を展開させたい気分も強い。当然「主語」(文法上の人称)にまつわる日本語学の研究蓄積は膨大にあるに違いないのだけれど、今回は主として僕自身の感覚的な使い分けに焦点を定めているので、そのような学問的の研究はさしあたり無視することにする。考察の足掛かりをつくる為、先ずそれらについてざっと僕なりの所感を述べますね。

この散文では僕は一貫して「僕」を採用しているけれど、やや「硬質」な論考等の場合は迷わずに「私」を選ぶだろう。会話において年齢や組織上「目上」の人の前では「私」と「僕」を気分次第で選んでいる気がする。「俺」はたとえば「気の置けないほぼ同世代の友人」や後輩との雑談なんかに使うだろう。「わし」は僕自身使わないけれど、他者の使用しているのを聞くことは少なくない。あるいは小林よしのりに心酔した一部の若者たちが老成を気取りたいが為にこれを使うケースも珍しくない。「われわれ」に関しては、集団意識の全一性が前提になっている点で多分に政治色が強く、僕の皮膚感覚ではえらく受け入れにくい(「私たち」「私ども」「俺たち」「僕たち」と言い換えても依然粗雑のきらいがあって、ときに暴力的だ)。

「私」という自称は、僕にとって、少々使いにくい言葉なのだ。おそらくは大抵の人はそうではない。女性の場合、自称も限られているのだから、何の抵抗もなしに使える。これは当然の理だ。男性だって、まともに成人したならば、抵抗などないに違いない。けれども僕にとって「私」なる自称は、どのように工夫したところで、気障で嫌味な調子をぬぐえない。肌触りが妙に冷たくて、どうしても使わないといけないときは、いつも素性を過剰に誤魔化しているふうな、変に不愉快で胡乱な後味がのこる。分かりにくいに違いないので、更に別様に言うなら、尻の座りがひどく悪いというか、己の声の波長とぴったり重ならないというか、要するに「語りそのもの」にあるはずの表情の、シワの一本一本が殆ど見えない。「私」と書くとき僕の皮肉や諧謔の小皺はピンと伸ばされて、整形美人の嫌らしい顔になる。「私」と発話するとき僕は、理不尽な不確実性でもある相手の存在を「論理的に思考するはずの議論対象・説得対象」として突き放している気がする。口振りを変えても依然尻のすわりが悪い。

わた「し」、「わ」たし、わ「た」し。

なんだかどんな言い方をしても、やっぱり、自分の声の上を滑っているふうになる。ことによると僕は「私」というものを、他人と関わるのを極力避けたいときにこそ、それを無意識裡に好んで選んでいるのではないか、という気がしないでもない。僕は、「私」を強制されない限り使いたくはないはずだ。親しいはずの人びとのなかで僕が「私」というとき、僕の表情も声も、きっと水臭い。お前は他人行儀で俺たちを突き放している、とやんわり態度のうちに苦言されかねない。それくらい水臭い調子になる。親しい相手をある日突然に「あなた」と呼ぶときなども、きっと、同様の反応をきたすだろう。「あなた」にしても「私」にしても、どこか、見知らぬ放浪の旅人を義務としてもてなすときのような、そんな距離感を両者の間につくりだす。祟りがないようぞんざいには扱わないけれど、これ以上は入ってくるなとのサインは忘れぬ。水の一杯や一膳の飯くらいは供するけれども、決して家の敷居はまたがせぬ。そんな背伸びと自己防衛のごちゃごちゃになった小狡いもてなし作法が、「私」「あなた」の語感からは否応なしに連想されてしまう。男性の発話する「私」という自称には、卑屈なくらい滑稽で、大人びた調子がある。僕はどうしても躊躇を覚える。なかなか並みの気構えで言えないのです。どうみても、僕がおかしいのは、よくわかっているのだけれど、健康的な自然のはずみで、それを言うことができない。どうかするとその無理な背伸びが見破られる気がして、怖くて、堪らない気分になるのですね。たぶんそうです。

僕が「私」と文中に書くとき、着たくもない背広を着せられているような微少の自己嫌悪がもたげてきて、僕は、想像上の読者に酷くすまない思いをする。合唱団のなかで僕だけが調子はずれの笛を吹きならしている、そんな居心地のわるさが残って、もう何も言えなくなるのだ。本当にそれだけだろうか。僕が「私」を使いたくない理由は、本当に、上のような「感受性」に由来するものなのだろうか。親しくしたい人への配慮や、遠ざけたい人への遠慮だけなのだろうか。

「僕」がどうして大概の場合しっくりくるのか、本当は、まだ分からない。僕の最も弱い部分が、僕をそう自称させていると、どうして考えられないのか。僕は「僕」と自らを規定し続けるなかで、「社会的生産者」としての然るべき「成熟」を心密かに拒み続けているのではないか。「私」と自称できるほど十分に成熟していない僕であればこそ、「私という背広」にぴったりこないで決まっていつも不愉快になるのだ。あるいはまた、戦略上単に、僕が未成熟であると思われていたほうが、何かと厳しい世間に甘く扱ってもらえるのではないかと、どこか内心媚びているのだろうか。いまの僕にはそれは到底分かりかねるけれど、唯一はっきりしているのは、「私という背広」に対する僕の感情は、いつも愛憎愛半ばする態のものであり、かならずしも純粋の苦手だけが先走っているのではない、ということだ。かつて必要あって履歴書を書く際、僕は、自分を「私」と呼ぶことに微妙な抵抗を覚えたけれど、その抵抗の正体がまさか「いつまでも子供でいたい願望」でありうるだろうことなど、当時は発想する由もなかった。僕は大人になって就職しても、ずっと「甘えられる立場」に自分を置いておきたかった。してみると、「私」などという自称にそうやすやすと慣れるわけにはいかない。「私」という社会的自称、こんな「背広」が似合う体格に成長するわけにはいかない。僕はただ子供のままの僕で在り続けたいがために、自らの「成長」を、「一人称の選択志向」の段階で、止めようとした。止められると思った。止まったのだと周囲の人々に思わせることができると思った。思わせることができたと思った。もう僕は混乱して、そろそろこの思考を降りたくなってきた。

こうやって勢いよく始めた試論を気分次第で腰砕けにしてしまうところなども、やはり「子供」にふさわしいと僕は思う。なんだかんだ、結論らしいところに着地したと思いませんか。男にとって、「私」は背広、「僕」は子供服。なかなか卓抜の比喩と思うのですか、はたからみると幼稚な類推遊戯にに耽っているようにしか見えないのかな。まあいいか、所詮未成熟の「僕」なのだからね。


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