「これは一生ものだ」という子供の妄想は、たぶん一生続く

子供は視野が狭くてしかもずっと純朴だから、何か「大切なもの」ができると兎に角それを「一生もの」のように扱う。実際は一生どころか数カ月もすれば見向きもしなくなること必定なのだけれど、鍵付きの引き出しに保管したり他人の手に触れるのを極度に嫌がったり、そんな健気だが愚かな振る舞いを平気でやる。子供によるこうした物心崇拝は「性的な観念」と直接結びついていないだけに、大人たちはこれまであまり興味深く語ってこなかった。すでにあの猛烈な執着心を忘れているのかもしれない。人間の危うい実存を精確に捉える為にも、この錯覚・妄想の分析は将来欠くべからざるものになるだろう。ソフトビニールの怪獣、メンコ、着せ替え人形、シール、ポスター。世代が違って地域が変わっても、対象物への子供のフェティシズムはほぼ不動といっていい。

プラスチックやゴム製のキャラクター玩具や遊戯用カードの類が、僕の身の回りにも沢山あった。ポケモンだのデジモンだの遊戯王だのが当時流行していたから、膨大な関連アイテムを競うように集めていた。そしてもちろん僕も例に漏れず、それらの「大切なもの」を「一生もの」と信じて疑わなかった。今思い返すとすこぶる滑稽な光景であって、あれだけ多くあった玩具も今やその痕跡さえ留めていないのだけれど、当時の当人たちはその所有や見せびらかしに対していつも必死で本気だった。子供は集めることが「本能的に」好きなようだ。男の子は特に好きだ。大人も財力にものを言わせて集めたりするけれど、子供はひたすら無邪気に集める。資金の制約上少しづつしか集められないのが却って収集欲を刺激する。ここで「たかが玩具」とはなかなか悟れないのが子供の常(利口な子以外は)。この無邪気さの延長線上に「コレクター」の存在があるのは言うまでもない。玩具集めがただ古書やワインラベルに変じただけで、実質は寸分も違わない。大人のコレクターも相変わらず自分の所有物を「一生もの」だと信じて疑っていない。終末論的観点で見れば人間の所有物に「一生もの」などないのは分りきっているけれど、あまりそうしたことに意識は向けない。向けたくない。「大切なもの」は「一生もの」として観念処理されるのである。愉快に生きるならこうした「自己欺瞞」はきっと必要だ。僕はこのことを経験より知っている。

僕の棲む六畳一間の部屋は本に埋め尽くされている。居候よろしく、本のタワーの間を縫う様にしてのそのそ暮らしている。実家の自室も本だらけだ。近所の古本屋に足繁く通っているうちにこんな有様になっていた。なら売ればいいだろうと賢慮の声も外野から聞こえてきそうだけれど、どうしても手放せないわけがある。本は僕の実存と分かちがたく絡み合っていて、要するに、愛着が尋常一様ではない。本はもはや、そこに置いてあるだけの客体物ではないのだ。苦しい赤貧時代を共に乗り越えている戦友であり知己でありまた師でもある。

つまり愛読家は取りも直さず愛書家であって、部屋が本に占領される運命はほぼ不可避的事象といえる。僕はひしめくような背表紙がいつも視界に入ってこないと生きている心地がまるでしない。活字愛欲が十分に刺激されないと生命力は減退の一途を辿る。それゆえ売ろうにも売れない。この「所有欲」が例の「一生もの」錯覚に根差しているだろうことは、容易に察せられる。僕は死の床につくまでこれらの本を離れないつもりらしい。そんなことは九分九厘ありえないのに、それを疑うことに耐えられない。すこしでも考えるが早いか心の防衛機構にはじき返されてしまう。

けだし「一生もの」は人の身辺からは無くならない。この幸福な妄想原理を離脱することは出来ない。自分の「寄る辺なさ」をいつも予感しているから、何かしら「一生もの」幻想にすがりついていきたいのだ。自分が死ぬまでそばにあってくれる物質が欲しい。無理ずくでもそう思い込みたい。進んで騙されたい。「大切なもの」が近くにあると人は安心する。物心崇拝は人間の心許なさ、本来的な故郷喪失感と切り離して考えることは出来ない。幼少期にあってはもっとそうで、そうした心的機構の基礎が作られるのはこの時期なのだ。

人間に対しても「一生もの」という錯覚を人は進んで抱きたがる。どちらかが必ず先に死ぬのに、それに愛情はいずれ冷めるものなのに、「永遠の友情」「永遠の愛」という紋切り型は無くならない。やっぱりいつになっても人は健気な子供なのだ。一生続く何かを物質関係だけでなく人間関係にも持ち込める。そしてそれを盲目に信じる。いつまでも愛をささやき合える誰かを、ぼんやりと夢想できる。「一生もの」の錯覚は死ぬまで続くようだ。人間のこうした性癖に対して、一体誰が悪く言えるものか。


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