倦怠は妄想の母である

円地文子(1905~1986)の短編集『妖』(新潮社)を昨夜読み終えた。佐多稲子、大庭みな子と続いてこのごろ古い女性作家の作品を読みたくなる。何か自分でも気付かぬ隠微な事情があるのだろうけれど。三人ともの作品に共通しているのはその息苦しくなるような心理写実、シニカルなせりふ回し、えげつないほど緻密な人間洞察にある。彼女らは小説家としてあり続けるために神経を体から露出させるくらいに自分を追い込んでいた。小説家というものの異形性とその業の深さにいつもながら嘆息してしまう。

この作品集には総じて倦怠の気配があふれ、いつも淀んだ不安に満ちている。粗暴な憶測だけれど、円地文子は人生において倦怠は絶対に避けられないものだと諦めていたのだと思う。そして、妄想は倦怠に堪えかねた人間が向かう最後の逃避場なのだとも確信していた。そうでなければこれだけ執念深く倦怠の風景を書くわけがない。倦怠は見えないから即物的な描写だけで浮き彫りにさせることは難しい。それは雰囲気であり気配であり情緒であるのだ。この輪郭の定まらない混合的心理渋滞が人間を内側から浸食し苦しめている。彼女の細やかな筆は、安易な抽象論によってではなく、人間の挙措言動の一一を執拗に追うことでその気配を匂わせていく。

真実、地上に生きる殆どの人間は自分の望み通りには生きていない。配偶者にも満足していないし、子供の出来具合にも満足していない。自分の生活水準にも満足していないし、成りたかった職業にも就けていない(恐らくこれからも就けない)。欲しかったものも全然手に入っていないし、手に入ってもすぐ飽きる。人生はどう転んでも「こんなはずではなかった」のカタマリなのである。浮き世はそんな余計な敗残者の吹き溜まりなのだ。彼彼女らはいい加減自分の生に飽き飽きしている。世界など今すぐ爆発しろと秘かに願っている。「自分はまだ本気を出していない」とつぶやいて自分を慰めるしかない落ちこぼれがお互いに唾を吐き合って生きている。だから少しでも抜きん出た人間を内心では許せない。卑屈になる。醜くなる。始終何かに苛立っている。そんなふうに自分を疎ましく思い続ける膨大な脱落者を倦怠から救うには、壮大な妄想しかないのだ。待っていれば自分もいつかは、と妄想とするしか愚かな敗残集団は救われない。文学をやる人間は疾うの昔からこの療法を知っていた。どう転んでもやはり倦怠がある。この人生の残酷は「目の前に存在しない世界」のなかで慰めを見いだすことでしか乗り越えられないと。

倦怠というものについて、誰も彼もはっきりと説明できない。が、誰も彼もがこれに感染している。少なくとも感染したことがある。そうでなければいずれ感染する。だから倦怠の分析は人間にとって重大の関心事になる。

円地さんの話に戻ります。たとえば表題作「妖」には老夫婦間のありふれた倦怠が得意のねたねた調子で描かれている。成長した子供が家を出て、老いた夫婦だけが同じ屋根の下で生活している。入れ歯をはめた口、薄くなった髪、静かな食卓に響く咀嚼音、こんな細々しい老醜描写は読み手の気を滅入らせるに充分だけれど、これは決して別世界の出来事ではないことに程無く気付くのだ。これだから彼女の小説は恐い。これはあなたの生活でもあるのよと言うのだ。

同じ人間との生活はおおかたこの種の倦怠を呼び込まないではおかない。結婚生活はその実家計の営みであって、ロマン的願望を充足させる場面など数えるほどもない。少しでも家庭生活に間違いがあれば、夢も希望もない日常が死ぬまで続くだけなのだ。そんなことは身近の老夫婦(両親とか)を見て来た人ならだれでも知っているはずです。あらかた相手に疲れた夫婦ばかりではないか。年を取れば取るだけ相手への親愛感は逓減し、増えるのは倦怠感と失望感と殺意だけ。だから殺し合いの事件にならないだけでも結婚生活は大成功だと思う。新婚の友人に対して僕はいつもこんなことを言って励ます。よい結婚はあっても幸せな結婚はありえないと喝破したどこかの文人は、誰もが内心勘付いていることを単に繰り返したに過ぎない。結婚式や披露宴をあれだけ華やかに開催して出席者も義理の涙を流さんとするのは、「結婚」が当人たちにとって極めて残酷で悲しい出発点であることを皆感じ取っているからなのです。この儀式にはいつも「さらばロマンス こんには倦怠」の通奏低音がつきまとっている。ほとんどの夫婦にとって血沸き肉躍る本物の冒険など最早期待できない。しかも法律上は配偶者以外との性交渉も禁じられている。建前上は情事もあってはならないことになっている。これは地獄だ。だから刺激と言えばせいぜいレジャー産業に金を落とすことしか残らない。子供連れで人混みの東京ディズニーランドに出向いて擦り傷一つ負わないアトラクションで倦怠を誤魔化す。子供にしても十中八九、自分の思い通りには動かない。そう都合よく成長しない。古往今来、それが「他者」に共通する数少ない本質なのである。ぐれたり引きこもったりしようものならすぐさま狼狽して、どうして自分たちに限ってなどと嘆いてみせる。倦怠はそんな「日常」のなかで段々醸成されていくのですね。

御飯が炊けたのでこの辺で終わります。どうもありがとう。

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