「東京の地名」を前提知識のように使われると次第にムカムカしてくる地方在住者の心の機微

こんにちは。フリカケが好きです。かつて鶏卵を殻を砕いて塩を混ぜてそのままフリカケにしたらカルシウム剤にもなって健康増進間違いなしだと喜び勇んでいたけれど、食べてみると恐ろしく舌触りが悪い上にサルモネラ菌的なものも怖くなって結局何事もなかったかのようにアイディアを放棄した過去を、さっき思いだしていました。こんなことばかり懲りずに飽きずにやってきて今の救いようのない体たらくがあるのだと奇妙な感慨に耽りながら、今日も書いています。

僕は北陸のある「地方都市」の安アパートに住んでいて、そこでいつもキーボードを叩きながらうんうん呻いて過ごしているわけです。ときどき”小京都”なんて呼ばれるところです。この呼称を地元民は嫌っているようだけれど差し当たりそれはどうでもいいです。そんな地方都市にあって、東京は心理的にも地理的にも通い場所である。最近新幹線が無理やり敷かれたようだけれど、そんな交通インフラ程度で埋められる距離感ではないのだ。そればかりか交通インフラが整えば整うだけ、一層東京への複雑な思いが強くなる。なぜか。一言に約めてみれば、「住もうと決断すればいつでも住めるから」です。にもかからず僕は「住んでない」。それだけに、ある歪んだ疎外感情にいつもぷすぷす胸を刺される思いが絶えなかった。文化的経験資本とでもいうべき何かを時々刻々失っているような、そんな焦りに駆られてきた。けれどもこの入り組んだ事情を記述するためにはそれだけ入り組んだ内省を要する。

かねてより僕は、「東京在住者の地理感覚を前提に書かれた文章」に対してやりきれない思いを抱いています。それならそんなもの読まなければいいのだが、日本の出版物が大部分が「東京発」なのだから、しかたがないでしょう。周知の如く、日本国内で供給される文字情報は、自覚のあるなしにかかわらず、「東京中心主義」の色に染まっている。あらゆる出版物から、ラジオのたわいないお喋りまで、ほとんどすべての言説が「東京在住者」を前提にしている気配がある。この気配のなかで、僕はいつも愛憎愛半ばの感情を持て余してきた。東京に住んだことのない地方在住者ほど一体この気配に敏感なのだ。優れた情報や愉快な作品の「恩恵」を日々受けていながら、心の一方には「どこか取り残されている感情」が蟠踞している。他人の文章が成り行き上「東京のうなぎの名店」とか「東京の珍スポット」みたいな方向に傾き過ぎるとき、「こっちを置き去りにして仲間内だけで盛り上がるな」と急に不当な苛立ちをあらわにする。「東京人風を吹かすな」とつい激してしまう。この置いてきぼりをくらっているような「疎外感」は、「成熟」を遂げたいまでこそ多少は客観視できるけれども、いっときは相当深くまで僕の日常を蝕んでいた。その疎外感情は、たとえば、浪人生が自分の落ちた大学の学生を見るときの鬱屈に似ている(浪人生の経験はないけれど)。

この手の経験は、不出来な小説を読んでいるときもあるし、だらだらしたエッセイを読んでいるときもあるし、お粗末な素人ブログを読んでいるときもある。とかく日本に流通している文字媒体には、否応なしに東京を意識させる「罠」が仕掛けられている。「地方在住者は人にあらず」的な前提でものを書く人間も少なくないのでないか、と極端な邪推が働いてどんどん辛くなる。

たとえば日本の小説を開くと、僕にとっては町名だか地名だかまるで分からない「東京の場所」が説明も遠慮もなしにばんばん出てくる。「千駄ヶ谷」「渋谷」「赤坂」「四谷」「五反田」「荒川」「新宿」「銀座」「池袋」「歌舞伎町」「道玄坂」「品川」。東京には過去数しか行ったことのない地方在住者にとって、これらの固有名詞が「作者」ならびに「東京の読者」に呼び起こしたはずの語感を追体験することは、困難極まる。それらは所詮、地理上の記号でしかないのだ。そしてそんな「東京中心言説」に散りばめられている固有名詞を「記号」としてしか消費できない自分に毎回うんざりしてしまうのだ。「君はずいぶん野暮な人間なんだな」と耳元でささやかれている気がする。意図的なのかそうでないのかは別にして、小説に関しては僕はこれまで、海外の翻訳ものを中心に読んできた。ことによるとこれ以上「東京の地名」と接したくなかったのかもしれない。海外小説なら、たとえどんな地名が登場しても、遠い世界の出来事として平静に読める。たとえばシェークスピアやドストエフスキーなんかになると時代まで違うからいよいよ平静に読める。東京だと、言語はほぼ同じだし、地理的にもなまじ近しいものだから、読んでいて気が気でなくなる。「住めるのに住んでいない」という、いらぬ焦りの為にほとほと困憊してしまうのだ。

僕はおそらく今住んでいる「地方都市」に相当よく馴染んでいるし、そこに大きな不満もない。そればかりか、散歩風景のなかで柿や枇杷や柚子の樹が頻繁に発見されるこの場所を、味覚的にも視覚的にも好んでいる(秋や冬は果物など買わなくてもいい)。徒歩三〇分以内にそこそこ立派な私立図書館もあるし、おまけにブックオフまであるので、書物愛旺盛の自堕落人間としてはまさに願ったり叶ったりなのである。

にもかかわらず、やはりあの「東京中心的な言説」を日々浴び続けていると、次第にどこか複雑で痛々しいような「羨望感情」が心底に募る。何度もしつこいようだけれど、どうしてもいまこの感情の胸倉をつかんで無理にでも言語化してみたかったのである。これは僕のような、「意識低い系と見せかけて実は意識がめちゃくちゃ高い系」の人間にとって極めて厄介でしかも説明の難しい複合感情なのだ。まして僕はものを読んだり書いたりするのを日課にしている。すると嫌でも「中央的な言説」が目に入ってくる。優れた学者や小説家がどれほど東京に在住しているのかも、知りすぎるほど知っている。代表的な出版社の殆どが東京に集中していることも知っているし、古書店の豊富たるも知っている。それを知りつつ地方でものを書き続けていると段々不安が増してくる。これは誤魔化せば誤魔化すだけ悪質の焦りに変質していくのだ。この数年来、この焦りを僕は無いものとしていた。「何でもあって著名人も沢山いて都会はうらやましいなあ」というふうな、田舎の青少年にありがちの平凡な憧れに過ぎないと思っていた。けれどもこの我知らずに膨張していく疎外感をこれ以上背負えなくなってきた今になって、このもやもや焦りの内実が分って来た。確かに僕は、ただ「東京」に住んでいないというそれだけで、あらゆる「経験資本」「文化資本」を失っているような気がしていたのだ(この用語を社会学における厳密な意味と較べないでほしい。今はこの言葉が直観上しっくり来るだけだ)。東京に住んでいない為に自分は文化的・知的な劣等性を免れていないのではないか、という隠微な自責。東京に住んでいない為に自分は優れた指導者なり編集者と出会い損ねているのではないか、という焦燥。東京に住んでいれば今よりずっと自分の活動領域が広がっていたのではないか、という後悔。東京に住んでいないばかりに自分の文章は知的な洗練を欠いているのではないか、という切実な自己厭嫌。皮肉なことに、「東京に住んでいない自分」を誰よりも己が一番「差別」し、焦慮に駆り立てていたのだ。これまで偏執狂のように本を読んできたのも、書物そのものにおいては中央と地方の違いはないと信じていたからだ。僕の心配する「文化格差」を、ひたすら読むことで無化しようと試みた(その方針は概ね間違っていないだろう)。そうしたなかでも僕は知らず知らずのうちに「東京言説」に権威を与え続けている。僕が毎日読んでいるその本はまぎれもなく東京在住者の産物なのだから。「地方在住」でありながら「都市文化」に劣等意識を持たないで過ごすことはいかにして可能か、という問題がここで急に頭をもたげてくる。これは一考にも二考にも値する深刻な問題です。

今日は、弱くて決断力を欠いた地方在住者にしか真実分からなような、どうでもいい独白でした。読了どうもありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?