「皮膚の色」と「差別嫌悪感情」についての雑考

『トレバーノア 生まれたことが犯罪!?』(英治出版)を先刻興奮気味に読み終えた。今年度読んだ本の中では間違いなく上位十冊に入るほど好い本だった。著者は南アフリカ出身のコメディアンであるトレバー・ノア。波瀾万丈の半生を恨み節を抑えつつひたすらユーモアありきで語れるその才覚には、脱帽するしかない。読めば自ずと明らかだけれど、この陽気で屈託の無いしたたかさは母親直伝のものだろう。「神のしもべ」を地で行くようなこの母親の存在は終始圧倒的で魅力的で、僕などは途中何度も彼女の爪の垢を煎じて飲んだ。飲まざるをえなかった。さもなくばこの憂鬱症は一生治らないだろうと反省したのだ。僕は「前向き」という言葉を普段はあまり好まないけれど、愉快に生きるためには「後ろ向き」よりは「前向き」のほうが良い事は本当で、トレバーの母親はまさしく「前向き」精神の権化のような存在である。「神が味方ならこっちは無敵よ」等のセリフはややもすれば狂信的に聞こえるけれども、彼女にあってはこれは「前向き」精神の純然たる発露であって、そこには一点の疑念さえありえない。一体どんなものを食ったらこんな超人的積極性を体得できるのか、消極性の塊みたいな僕は知りたくて仕様がない。

トレバー・ノアはアメリカの政治風刺番組「ザ・デイリー・ショー」の司会なんかをやっていて、向こうでは随分人気があるらしい。つまりセレブリティだ。僕は新しいことは大抵何も知らないので、彼の名前も当然知らなかった。動画サイトで検索すれば出てくると思うので後で見て見ようか。たとえばドナルド・トランプなんか今更どんなふうに風刺すればいいのだろう。もう料理され尽くされている観がある。僕は政治風刺というものに年々飽きているので期待だけはしておきたい。

彼は世代的にはアパルトヘイト体制(法的には一九九一年廃止)をぎりぎりで経験している。だからその不条理なシステムの細部が内側からよく語られているし、特に部族間の騒動の様子、たとえば「タイヤネックレス」と俗称されるリンチを子供時代に目撃したくだりなどは、淡々と叙事的に語られているぶんだけ余計に震撼させる。これはフィクションではなくてノンフィクションなのだと思い返さないといけない。

ところで同書はさりげなく「名誉白人」について言及している。「白人」を最上位とするこの体制の下にあって、「黄色人種」である日本人はかつて特別に「名誉白人」として遇されていたのである(ちなみに中華民国すなわち台湾も同様)。どうしてか。南アにとって日本は数少ない重要な貿易相手国だったからだ。極大雑把にいうと、第二次大戦後、「人権思想」の普及とともに、南アのような露骨な差別制度を敷く国は世界的に少数派となっていった。そのため南アは一九八〇年代頃から世界各国からいよいよ厳しい経済制裁を受けるようになり、貿易量は縮小する一方だった。親密に交流すると自国の沽券に関わるぞ、というわけ。そして気が付くと日本がほぼ最大の貿易相手国になっていたという次第。近頃では自国に都合の悪い史実に限って忘れようとする人が多いので、こうした「不名誉な事実」を確認しておくことは相当重要なことです。

当時の南アフリカでは、白人と黒人の性的交渉は法で禁じられていた。といっても法律には人の性欲を止められる力はない。そもそも人類史は「混血」の歴史といってもいい。同書の原題は「born a crime」。トレバー・ノアは黒人の母と白人の父親から生まれている。つまりその事実自体が「犯罪」なのだ。彼は「犯罪」として生まれてきた。白人とのハーフのため皮膚の色はやや薄く、そのため幼少時代は外出も碌に出来なかった。その後の不自由も並み一通りではなかったようだ。黒人のコミュニティにも白人のコミュニティにもなかなか馴染めないで苦しむくだりなどは、大部分の日本人には想像を絶する。というより「皮膚の色」だけで何かと先行判断される「世界」を、僕はこの読書によって追体験出来なかった。

これを読みながら、僕はしきりに「皮膚の色」のことを考ていた。今の日本に暮らしていると自分の「皮膚の色」などを殆ど考えることはない。往来の殆どの人間がだいたい同じような色をしているし、たまに「黒人」や「白人」を見かけてもそれ以上のことではない。「人種」というフレームで人間を分類する政治体制がはじめから存在しないからだ。ところで「人種」という言葉は現在にあってよほど注意して使わないといけない。差し当たりそれを「遺伝学的な身体上の諸特徴を共有する集団」と大掴みに捉えておきます。過去各分野において、「人種」という語が「民族」や「国民」と混同して使われることが甚だしかった(アーリア人種とかユダヤ人種とか)。だからその手の「政治的区分」に対しては最大限の警戒が必要だ。日本では、あの人は肌が白いだの黒いだのと言い合ったりもするけれど、そういうのはただの美容沙汰であって、そこには何の政治色もない。

きょう突然に大陸から「白色人種」が入植してきて、自分が「有色人種」に分類されたと想像してみる。そして「黄色人種」という理由によって居住区を限定されたり選挙権を制限されたりすることを想像してみる。かつての南ア同様、異なる「人種」同士の性交渉は禁止される。更にこのベンチに座るなとかあのトイレを使用するなとか、そんな細かい差別規則が隅々まで行き渡る。学校や職場でも「白色人種」が我が物顔でのし歩いていて自然と上位グループを作る一方、「有色人種」の方も集まってグループを作る。入植地の常としてやがて「混血児」が生まれる。いわばトレバー・ノア的存在ですね。当然その子は、その身体的特徴において、入植してきた「白色人種」とも違うし、もともと日本に暮らしていた「有色人種」とも違う。微妙な差異だけれど微妙であればこそ事は深刻なのだ。この差別体制の下では、「混血」は存在しないことになっている。ここまで想像しただけで既に耐え難くなってくる。肉体的特徴によってあらゆる生活行為が制限される経験は、人間にとって極めて不愉快なことであり、この不愉快には人類的普遍性があるに相違ないと僕は考えている。つまり「差別」への嫌悪感情には確固たる心理的根拠がある。人間はその性情において、「差別」されることに堪えられない生物なのだ。現在も含め歴史上数多くある「差別政策」について研究するためも、この嫌悪感情の多角的分析は欠かせない。

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