「名前」で呼びかけることも呼びかけられることも些か不愉快であること

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と大書された横断幕を懐かしく見ながらいま夜間散歩から帰ってきた。ライトアップに値するほど新奇なフレーズではないよ、これは。僕が学校通いだったときから既に喧伝されていた。言語明瞭意味不明の典型だった。僕の周りでも誰一人解釈に成功しなかった。押し並べてスローガンとはそういうものなのだ。内容が空虚だから人畜無害。どこかの政党のポスターに「明日を切り開く」とあったのも見かけたけれど、これも同じくらい難解。時空の関係上、自分から切り開かないと明日に行けない不自由な人々がきっとどこかにいるのだ。大変です。僕は寝ていても明日が来る。

今日の全裸散文は「命名」についてなのだけれど、これはどうしても「呼びかけ」と切り離せない。ところで僕は、人の名前を呼ぶことがえらく苦手なのだ。人の名前を自然の調子で呼べない。ねえ孝之君、田中さん、おい幸村、みたいな調子で中々呼べない。どうしてもその必要がある時は一呼吸の覚悟がいる。親疎の別なしに、僕の呼びかけ行為はしばしば「儀式」の重みを担う。子供の頃からそうだった(ただ呼びかける相手によっては必ずしもこの限りでないから話は一層複雑なのだ)。この頃ではいよいよこの心理的支障が強くなってきた。人の名前を発した後、ひどく照れる。どうも相手に気の毒な思いがする。土足でつい踏み込み過ぎた感じ。権力乱用後の疚しさ。どうしてだろうかね。性根が変に歪んでいるからか。それも勿論あるだろうがそれが全てとは思えない。憶測だけれど、僕は「他人の名前」を極めて重大視している。語弊も見込んで言うなら「呼びかけの呪術性」をどこか信じている、そんな節がある。だからそう軽々しく人の固有名を口に出来ない。可能ならば全て「おい」「ねえ」で済ませたい。

今でこそ人物の「名前」などたかが「記号」に過ぎないと考えるだろうけれど、古来の名付け行為にはもっとずっと呪術的含意があった。健康で元気に育って欲しい、あわよくば大成して欲しい、両親のそうした「猛烈な情念」が人々の「名前」に刻み付けられていた。衛生・栄養環境の違いで現在と比べ幼児死亡率もすこぶる高かったから、何かに付けて本気で神頼みしていたのである。これを「不合理」だと誰も笑えない。験担ぎだの厄払いの占いだのそんな「俗信」は今でも無くならない。むしろそれをビジネスにして荒稼ぎしている手合いもいる。

そういえば、キリスト教圏では今でも、聖書や聖人(saint)の名前をよく新生児に付けますね。マシューもペーターもポールもジョンもみんなそう。マイケル・ジャクソンのマイケルも大天使ミカエルに因んでいる。不勉強なのでこの慣習の定着した歴史的経緯は分からないけれど、少なくとも、偉い人物や神聖の存在にあやかりたいという素直な欲望を抜きにしては、この辺のことは十分に語れないとは思う。なんか書くときは筆名を使っている自分だってその例に漏れていない。これはスーパーのレジ係をしていたある美青年に由来している。彼は確かに観音菩薩の化身に相違なかった。当時の苦境を察してわざわざ顕現してくれたのだ(日常の神話化)。それゆえ僕は、私的な感情が命名に直結する事情を分かりすぎる程よく分かる。

話は若干逸れるけれど、貴人の死んだ後にその人徳を称えて命名する例も歴史上多く散見されますね。たとえば漢字圏の上層階級では、諱(いみな)とか諡(おくりな)などと呼ばれる称号を死後贈っている。日本でも通り名と忌み名を区別する慣習は色々の形であった。日本仏教には法名とか戒名を付ける慣習が根強くあるけれど、これは俗悪であるし、一部の坊主はその特権を利用して金を取り過ぎだ。世を捨て妻子も持たずかつかつの托鉢修行を送るのが出家者本来の姿ではなかったのか。まあいいか。

閑話休題。とかく、そんなふうに人間は「他者の命名」に一段と気を配ってきたのだ。そんな「名前」を僕は平気で口にできない。名前を呼ぶことで他人の内的領域を侵害した気になってしまう。すまぬすまぬと思う。だから当然、他人に名前を呼ばれた時もそんな気になる。加えて、「実名」で呼びかけられることによって僕は、自己同一性の再確認を強いられる。そこにはいつも自己乖離感とも言うべきものがあって、これがいささか不愉快なのだ。僕はその「実名」とぴったり一体化してはいないし、そもそもその「正当性」さえ認めていないのに、人は遠慮なしに呼びかけてくる。僕はそうした「呼びかけの暴力」によって、いつも無理矢理「個人」に連れ戻されてきた。僕の「実名」は戸籍謄本に記載され、学校の生徒名簿に記載され、保険証に記載され、住民基本台帳カードに記載されている。またこれまで何度も名乗り何度も呼びかけられるなかで僕は、「みんなの中の一人」として「市民社会」に認定登録されてきたのである。「単一の実名登録」を都合上最も要求するのは、統治権力であって他ではない。「無戸籍」は「国家」にとっては不安定要素以外の何ものでもないし、第一、「国民」の総数を把握しないと碌に国家予算も組めない。行政も何をしていのか分からない。生まれたその瞬間から人は「未来の納税者」として国民登録される。成長すれば統計上「生産年齢人口」に組み込まれる。だから二つも三つも名前があって困るのは勿論僕ではなくて、僕の親しい人々でもない。国民を一括管理したい徴税権力以外、困らないのだ。そう思うと、僕は自分の実名がますます憎らしくなってくる。住基ネットを国民総背番号制だとか言って悲憤慷慨する言論人がよくいたけれど、僕はそんな詰まらないことよりも、戸籍制度をはじめ、命名や登録という人類的慣習そのものに歯向かいたい。自分の「名前」を変えるのにどうして「公権力」を介した手続きが必要なのか。そもそも「名前」などあってもなくてもいいのだ。「名前は無いし、これからも必要ない」という人の存在もあってもいいはずだし、「これまでの名前を捨てます」という人がいてもいいはずだ。今は何言っても世迷言か。

自分の「実名」に「違和感」を覚えのは僕だけではないと思う。誰もが実はこの自己乖離感覚を言語化できないで生きているのだ。「その名前は僕のものではない、そんな名前は知らない」と叫んでどこかに失踪したいのだけれど。

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